ふかごろうキリスト教神学日記

キリスト教の神学について、ふかごろうが学んだことを記して行こうと思います。

最後の事物

2007-03-20 00:15:11 | キリスト教神学入門
<3月17日~3月19日に読んだ箇所>
「キリスト教神学入門、A・E・マクグラス著」:751~783頁

<最後の事物>

今回読んだところは、この本の最終章です。
今回読んだところには、この世界の終わりや天国、地獄について語られていました。

聖書によると人は皆、永遠の命を持っているそうです。
つまり、死というのは、通過点にしかすぎないわけです。

死んだ後、天国もしくは地獄に行くことになります。
天国か地獄のどちらかで、永遠に過ごすことになるようです。

<読み終わった感想>

今日で、「キリスト教神学入門」読み終わりました。
途中読むことが頓挫していたこともありますが、なんとか読みきりました。
読み始めたのは、去年の4月だったので、読破するまで約1年かかったことになります。
でも、なんとか読み終えることができて良かったです。
次回からは、ミラード・J・エリクソン氏の「キリスト教神学第1巻」を読みはじめたいとおもいます。

キリスト教と世界諸宗教

2007-03-16 20:49:18 | キリスト教神学入門
<3月14日~3月16日に読んだ箇所>
「キリスト教神学入門、A・E・マクグラス著」:725~750頁

<キリスト教と世界諸宗教>

今日の箇所では、キリスト教徒が世界諸宗教をどう見るのか書かれていました。

世界諸宗教の見方として、3つ挙げられていました。

特殊主義
包括主義
多元主義
以上の3つです。

特殊主義というのは、キリスト教は特殊であると言う主義です。

包括主義というのは、他の宗教も救いに通じるという考え方です。

多元主義も、包括主義に似ていて、他の宗教も神に対する信仰はキリスト教と一緒だということです。

ただ。聖書にはこう書かれています。

14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヨハネの福音書14章6節

サクラメント論

2007-03-13 19:48:55 | キリスト教神学入門
<3月6日~3月13日に読んだ箇所>
「キリスト教神学入門、A・E・マクグラス著」:690~724頁

<サクラメント論>

サクラメントと言うのは、教会の儀式のことです。
カトリックでは、7つのサクラメントがあります。
プロテスタントでは、2つのサクラメントがあります。

プロテスタントの2つのサクラメントは、聖餐式と洗礼です。

聖餐に関しては、様々な意見があるようです。
聖餐の時口にするパンとぶどう酒は、それぞれイエス・キリストの肉と血を意味するんですが、
その見方により意見が分かれています。

教会論

2007-03-05 16:16:30 | キリスト教神学入門
<2月23日~3月5日に読んだ箇所>
「キリスト教神学入門、A・E・マクグラス著」:649~689頁

<教会論>

今回の箇所では、教会に関する教理について書かれていました。
教会は、2つに分けられるようです。

地域教会と公同の教会。

地域教会とは、実際目にみえる形で存在している教会のことを指します。
公同の教会とは、はるか昔から今に至るまで脈々と続いている一つの教会を指します。
実際の教会は、様々な教派に分かれていますが、それでも、公同の教会に所属していると考えます。

人間の本性と罪と恩恵の教理

2007-02-23 04:35:54 | キリスト教神学入門
<2月22日に読んだ箇所>
「キリスト教神学入門、A・E・マクグラス著」:600~648頁

<人間の本性と罪と恩恵の教理>

今日読んだ箇所は、人間の本性と罪と恩恵の教理と題されています。

人間は、生まれながらに罪人である。

これは聖書が示していることだと思います。

その人間を神は恩恵により義としてくださいます。
義と言うのは、神様のお目にかなった状態になることです。

ここで、2種類の見方が発生します。
人間は、自分の行いによって義とされるのか、それとも神の一方的な恩恵により義とされるのか。
伝統的キリスト教の解釈によれば、神の一方的な恩恵により義とされるとなるようです。

今日の箇所には、予定と言う教理も説明されていました。
予定とは、他の本によると聖定の一部分のことだろうと思います。

聖定とは、神は、人間に起こることを全て決めていらっしゃること。
でも、人間には自由もあります。
これは、一見矛盾するように思えます。
この教理も謎を残しているように思えます。