ふかごろうキリスト教神学日記

キリスト教の神学について、ふかごろうが学んだことを記して行こうと思います。

キリスト教綱要第3篇、第25章

2017-04-09 21:56:15 | キリスト教綱要第3篇
<2017年4月9日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第3篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
504~527頁

<第3篇、第25章>

今回の箇所は、死後、人はどうなるかについて書かれていました。
僕は、死後、天使のような全く新しい体が与えられると思っていました。
そして、記憶と魂とか心とかが、その新しい体に引き継がれると思っていました。

カルヴァンは、それとは少し違うことを書いていました。
肉体は、死ぬ時に一時的に腐敗などをするけど、蘇ると書いていました。
今の肉体は、死後の世界にも引き継がれるようです。
ただ、死んだ時の肉体とは、性質が異なることになるとのこと。

実際どうなるのでしょうね。
これは死んでからのお楽しみですね!

さて、このキリスト教綱要の第3篇は、2011年7月9日から、読み始めました。
ようやく、今日、2017年4月9日、読み終わりました。
長かった。
5年以上かかりました。
でも、まだ、キリスト教綱要は、続きがあります。
第4篇があります。
気の長い話です。

キリスト教綱要第3篇、第24章

2017-04-08 21:38:06 | キリスト教綱要第3篇
<2017年4月8日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第3篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
477~503頁

<第3篇、第24章>

今回の箇所も前回に引き続き、予定について書かれていました。

予定に関しては、人の理解を超えている部分があります。

それに対しカルヴァンは、最終的にこう答えています。

「ああ人よ、神と争うお前は何者なのか」(ローマ9:20)

神様の考えが分からないからと言って、神様を糾弾するのは、おかしいと思います。

キリスト教綱要第3篇、第23章

2017-04-07 22:59:37 | キリスト教綱要第3篇
<2017年4月7日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第3篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
456~476頁

<第3篇、第23章>

今回の箇所には、神様から遺棄される人のことについて書かれていました。
もし、物事が神様の計画の通りに進んでいて、必然しかないのなら、
救われない人の存在は、不公平ではないか。

生まれる前から、人が救わるかどうか決まっているとは、あまりにも不公平です。
救われない人は何をしても救われない。

これに対し、人を救うか、救わないかは神様の意志によるのです。
その意志は、人間には分からないのです。
なぜそうなるのか、分からないのに、不公平だと断定するのは、人間のおごりではないでしょうか?

神様が人を救うか救わないか、その理由は、ちゃんと存在するのかもしれないです。
ただ、それは人には分からないのです。

キリスト教綱要第3篇、第21~22章

2017-04-07 01:10:41 | キリスト教綱要第3篇
<2017年2月23日~2017年4月7日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第3篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
425~455頁

<第3篇、第21~22章>

今回の箇所では、予定について書かれていました。
カルヴァン神学の核となる部分ですね。
カルヴァン主義と呼ばれるものは、この箇所の内容から来ていると思います。

人が救われるかどうかは、生まれる前に決まっているとカルヴァンは主張します。
僕もそう思っています。
そもそも、神様は、我々の時間軸とは別の時間軸の中にいると思われます。
なので、神様とって、過去も現在も未来もないような気がします。

ここで、注意しなくてはならないのは、救いが生まれる前から決まっているからと言って、
伝道しなくても良いとはならないと言うことです。

神様の計画があり、すべては決められているとしても、人にはそれが分かりません。
その中でも、人は、伝道すべきです。

キリスト教綱要第3篇、第20章

2017-02-23 00:03:17 | キリスト教綱要第3篇
<2017年2月15日~2017年2月22日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第3篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
348~424頁

<第3篇、第20章>

今回読んだ箇所には、祈りについて書かれていました。
神様に対して祈るのですが、その心構えが書かれています。
おそらく、自分の益になることを祈っても聞かれないかもしれません。
キリスト教は、ご利益宗教じゃないので、例えばお金をくださいと
祈っても聞かれないかもしれません。
ただ、僕は、厚かましくも、お金をくださいと祈ったことが何回かあります。
その都度、お金が貰えました。
ただ、これは、僕がクリスチャンとして未熟だったので、祈りが聞かれたのではないかと思います。
クリスチャンとして、成熟していくにつれ、そういう自己中心的な祈りは、聞かれなくなっていくと思います。
今では、他者のことを自然に祈るようになってきたと思います。

話を少し変えます。
祈りの基本は、主の祈りだそうです。
この主の祈りにそって祈ると良いそうです。
特に、「日ごとの糧を与えたまえ」が印象的でした。
神様は、一度に大量のお金を与えてはくれないかもしれませんが、日々生活をしていく上で必要なお金は、与えてくれます。
イスラエルの民が出エジプトした後、荒野を旅している時、マナが与えられました。
マナは、食料になりました。
天から降ってきます。
でも、一日分しか取れません。
次の日の分も残そうとしても腐ってしまったそうです。
安息日の前日は、二日分取っても、腐らなかったそうです。

このように、日々の糧を必要な分、その都度、神様が与えてくださいます。
下手に、大金を与えてしまうと、神様から心が離れてしまうかもしれません。
お金があると、どうしても傲慢になったり、不遜になったりしがちです。
必要な分を日々与えることで、神様に従うことを日々意識するようになります。
神様に従うことの訓練になります。
この訓練により、我々の人格は、整えられて行くと思います。