龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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蒼井優・生瀬勝久『アンチゴーヌ』を観てきた。

2018年01月21日 19時06分54秒 | メディア日記
昨日(20180120)、新国立劇場で上演中の『アンチゴーヌ』(ギリシャ悲劇アンチゴネーのフランス劇作家アヌイによる翻案。有名な戯曲らしいです)を観てきた。

単なる素人の印象にすぎないが、この芝居はギリシャ悲劇的な 「人間(というより、神様と向き合う人間)」の悲劇を、現代課題として捉え直そうとしているように見える。

そういう意味で言えば、見巧者のための芝居だったと思う。

知らないくせにギリシャ悲劇とか実存主義とか考えなくてはならなくなりそう(subjectは支配か服従か、みたいな話も含めて)だ。
だから素人には戯曲の批評は難しい。しかしとにかく、重層化されたつまり 「予め解釈された悲劇」を受け止める、という楽しみは間違いなくある。


だからこそ、というべきだろう、生瀬勝久と蒼井優という2人の役者にとっては、間違いなく一つのチャレンジとなった芝居なんじゃないか。

神と人間、コスモスとノモスを巡って展開する古代ギリシャの悲劇を、実存的なフレームを持ったフランス劇作家が、その二重性を意識した台本を書き、それを世界中の演出家が描き出す。役者たちはその幾重にも重ねられた 「謎と矛盾」を身体の上に宿らせようとしていく。
蒼井優・生瀬勝久を観るために足を運ぶ価値あり、と感じる所以である。

たぶん専門家はそんなことをおもわないのかもしれないが、私には 「神様」を逆説的に求める芝居のように見えた。それが、どんな神様かってのが問題でもあるのかもしれないけれど、神なき時代であることが自明になった上での神。
読み解き切れない構造を持った作品はいつも、どこかで神様を求めているような風情をみせる。
そういう意味でそれを身体の上に示すお芝居を演じることができ、またそれを観ることができる、という意味では 「幸福なお芝居」だったのかもしれない。

役者二人を観客がぐるりと取り囲んでその背中をも含めて演じる身体を見せ切ろうとする十字架を模したともとれる舞台も良かった。

蒼井優の 「背骨」に、やせっぽちでチビの 美人ではないアンチゴーヌが象徴的に示されているようでもあった。背中が見えるこの舞台の効用でもあろうか。
生瀬勝久は声がステキ。セリフを幾つか噛んでいたのはご愛嬌か。いや、失敗を誉めつつあげつらうつもりはない。しかしこの芝居は、うまく演じればいいというものではなく、そういう意味でチャレンジなんだろうと思う、ということでもある。

誰にでも、ではなく、それでも誰かに薦めてみたい作品だった。