一つになれないいわきの事情。
もう一ついわき市の困難を挙げておくと、「いわき」はもともと一丸となってなにかをやる文化が希薄な土地柄だ。
平地区は行政と商業地区、常磐地区はもともと炭坑の町、湯本といえばスパリゾートを代表とする観光&温泉街、泉はごく最近住宅&別荘地となった玉露とハイタウン、勿来は化学工場の城下町、小名浜は工場と大型港湾に加えて漁港&魚市場、そこから北の海岸線は、海水浴場と小さな漁港&様々な水産加工、市内全域には、冬でもプレー可能なゴルフ場が多数点在している。
住宅地も、「東北の湘南」をキャッチフレーズに、別荘感覚で関東の人が購入しているものと、旧来の人のものが混在し、大きな港は他地区からの労働者を招き入れ、それは炭坑も同様。
当然、昔からの農家もその間で米や野菜、果樹を作付けしている。
しかも、それぞれの地区が緩やかな丘陵によって分断されており、地区ごとに意識や気風も分かれている。
さまざまな生活形態、さまざまな業種のひとが、だだっ広い土地に丘陵で分断されたまま散在している。
水道料金一つとっても広大な市内をカバーするコストの高さが反映されているし、30万人都市としては、下水道・都市ガスのカバー率も高くない。
いわき市は、ただ合併市だからというだけでなく、文化的にも、地理的にも、産業的にも、なかなか一つにはなれない土地柄なのだ。
つまりは、もともといわき市は、断片がモザイク様に散らばり、それが、さらに地区ごとに分散した地方都市なのである。
加えて気候がいいから(福島県内では年間日照時間がトップクラス)、困難を共に乗り切ってきた感にも乏しいときている。
以上なんだかバラバラでよくない土地であるかのように書いてしまった。
が、この土地に流れ者として20年ほど住んでみての、正直な感想だ。
私はここに書いたことを必ずしもマイナスとしてだけ感じているわけではない。
流れ者の断片のひとつである私としては、(田舎にしては)例外的に住みやすい場所だったと思う。
人口密度が基本的に低いので、バラバラであっても好き勝手を咎める人の目に乏しい。いわゆる「田舎」じゃないみたいである。
加えて、バラバラに違った気風の者たちが寄せ集まっているので、そういう他者に対する「適切な無関心」が、東北にしては濃厚だ。
浜も炭坑も、仕事としては明日を考えるより、流れ者をも労働者として受け入れつつ、今日を稼いでいくのが眼目。
そんな風に考えていくと、いわき市はこの複合的な災害で、その統一的なイメージを改めてどう共有するのか、が試されているのかもしれない。
異なった文化を抱えた無関心のバラバラな身振りが、改めて統合された「いわき市」の市民としてどう振る舞うのか。
多様な断片が、多層の災害において、様々に傷ついている。
この現実において、それをどういう基盤において互いに支えていくのか、という課題である。
原発事故も津波も、被害の軽重には地勢的な要素が大きく関わっている。
被害の種類や程度も実際のところはバラバラだ。
しかし、政治的な振る舞いや、風評、物流、他者の視線においては「いわき市民」として見られていく。
その、「見られていく」こと、や「語られていく」ことにたいする感受性が、今の政治には決定的に重要なのだろう。
そして、その「政治」とは、ただ首長ひとりが才能としてもっていればいいというものではなくなってしまった。
ツィッターでも、SNSでも、ブログでも、どう発信していくか、が改めて問われていくだろうし、マスコミに何を流していけばいいのか、も個々人が身振りにおいて思考すべき範囲になってきている。
私自身、この地震や津波、そして原発事故ごなければ、「フクシマ」や「いわき」という枠組みを内面化した形で言葉をこんな風に発することはなかった。
そういう意味でも、これらの事件は、
「人為=&≠自然」
として
きちんと捉え、考え抜いておかねばならないのだ、とつくづく思う。
「いわきをひとつに」
家からでた瓦礫を捨てに震災ゴミ置き場への道に並んでいると、地域のFM局から、「いわきをひとつに」というキャッチフレーズが繰り返し流れてくる。
フィクションの力、言葉の力が、こう言うときには試されるだろう。
繰り返し書いて置くが、
あくまて瞳を凝らすべきは
「人為=&≠自然」
である。
決して
安全/危険
善/悪
人間/自然
という二項対立を立ち上げておいて、前者にのみ身を置いた上で物事を分類し、満足してはいられないだろう。
世界を縮減し、半分の「安全」だけを「信じた」結果、この
「人為=&≠自然」
を見つめるべき場所に立たされてしまったのだから。
ここから先は個人的な話になるが、
「人為=自然」を改めて(敢えて)運命として受け止めるようなどこぞの古典的評論家のようにはなるまい、と思う。
他方、
「日本はひとつだ」
っていうのは、被災者にとってはありがたい限りだが、期間限定にお願いしたい。
だって、ひとつじゃないし(笑)
でも、
ひとつじゃないけど、ひとつ、なんだよね。日本が一つで「も」ある。
いわきはバラバラで、かつ「いわきをひとつに」なんだよね。
そこにおける「共同性」のあり方、宗教性、社会的意味、超越性、生の基盤などなど、ここも考えるべきポイントですね。
あぁ、まだ瓦礫置き場にたどり着かないなあ……。
県や市という行政の区分を、普段私たちはほとんど意識せずに暮らしてきた。しかし、これからは、それを無意識の共同体として、再び日常という忘却装置に委ねるのではなく
政治的・権力的「覚醒」
が不可欠になるのかな。
くどいようだが、あくまでもその区域へのコミットは「断片」として、浅く、多様にね。
もう一ついわき市の困難を挙げておくと、「いわき」はもともと一丸となってなにかをやる文化が希薄な土地柄だ。
平地区は行政と商業地区、常磐地区はもともと炭坑の町、湯本といえばスパリゾートを代表とする観光&温泉街、泉はごく最近住宅&別荘地となった玉露とハイタウン、勿来は化学工場の城下町、小名浜は工場と大型港湾に加えて漁港&魚市場、そこから北の海岸線は、海水浴場と小さな漁港&様々な水産加工、市内全域には、冬でもプレー可能なゴルフ場が多数点在している。
住宅地も、「東北の湘南」をキャッチフレーズに、別荘感覚で関東の人が購入しているものと、旧来の人のものが混在し、大きな港は他地区からの労働者を招き入れ、それは炭坑も同様。
当然、昔からの農家もその間で米や野菜、果樹を作付けしている。
しかも、それぞれの地区が緩やかな丘陵によって分断されており、地区ごとに意識や気風も分かれている。
さまざまな生活形態、さまざまな業種のひとが、だだっ広い土地に丘陵で分断されたまま散在している。
水道料金一つとっても広大な市内をカバーするコストの高さが反映されているし、30万人都市としては、下水道・都市ガスのカバー率も高くない。
いわき市は、ただ合併市だからというだけでなく、文化的にも、地理的にも、産業的にも、なかなか一つにはなれない土地柄なのだ。
つまりは、もともといわき市は、断片がモザイク様に散らばり、それが、さらに地区ごとに分散した地方都市なのである。
加えて気候がいいから(福島県内では年間日照時間がトップクラス)、困難を共に乗り切ってきた感にも乏しいときている。
以上なんだかバラバラでよくない土地であるかのように書いてしまった。
が、この土地に流れ者として20年ほど住んでみての、正直な感想だ。
私はここに書いたことを必ずしもマイナスとしてだけ感じているわけではない。
流れ者の断片のひとつである私としては、(田舎にしては)例外的に住みやすい場所だったと思う。
人口密度が基本的に低いので、バラバラであっても好き勝手を咎める人の目に乏しい。いわゆる「田舎」じゃないみたいである。
加えて、バラバラに違った気風の者たちが寄せ集まっているので、そういう他者に対する「適切な無関心」が、東北にしては濃厚だ。
浜も炭坑も、仕事としては明日を考えるより、流れ者をも労働者として受け入れつつ、今日を稼いでいくのが眼目。
そんな風に考えていくと、いわき市はこの複合的な災害で、その統一的なイメージを改めてどう共有するのか、が試されているのかもしれない。
異なった文化を抱えた無関心のバラバラな身振りが、改めて統合された「いわき市」の市民としてどう振る舞うのか。
多様な断片が、多層の災害において、様々に傷ついている。
この現実において、それをどういう基盤において互いに支えていくのか、という課題である。
原発事故も津波も、被害の軽重には地勢的な要素が大きく関わっている。
被害の種類や程度も実際のところはバラバラだ。
しかし、政治的な振る舞いや、風評、物流、他者の視線においては「いわき市民」として見られていく。
その、「見られていく」こと、や「語られていく」ことにたいする感受性が、今の政治には決定的に重要なのだろう。
そして、その「政治」とは、ただ首長ひとりが才能としてもっていればいいというものではなくなってしまった。
ツィッターでも、SNSでも、ブログでも、どう発信していくか、が改めて問われていくだろうし、マスコミに何を流していけばいいのか、も個々人が身振りにおいて思考すべき範囲になってきている。
私自身、この地震や津波、そして原発事故ごなければ、「フクシマ」や「いわき」という枠組みを内面化した形で言葉をこんな風に発することはなかった。
そういう意味でも、これらの事件は、
「人為=&≠自然」
として
きちんと捉え、考え抜いておかねばならないのだ、とつくづく思う。
「いわきをひとつに」
家からでた瓦礫を捨てに震災ゴミ置き場への道に並んでいると、地域のFM局から、「いわきをひとつに」というキャッチフレーズが繰り返し流れてくる。
フィクションの力、言葉の力が、こう言うときには試されるだろう。
繰り返し書いて置くが、
あくまて瞳を凝らすべきは
「人為=&≠自然」
である。
決して
安全/危険
善/悪
人間/自然
という二項対立を立ち上げておいて、前者にのみ身を置いた上で物事を分類し、満足してはいられないだろう。
世界を縮減し、半分の「安全」だけを「信じた」結果、この
「人為=&≠自然」
を見つめるべき場所に立たされてしまったのだから。
ここから先は個人的な話になるが、
「人為=自然」を改めて(敢えて)運命として受け止めるようなどこぞの古典的評論家のようにはなるまい、と思う。
他方、
「日本はひとつだ」
っていうのは、被災者にとってはありがたい限りだが、期間限定にお願いしたい。
だって、ひとつじゃないし(笑)
でも、
ひとつじゃないけど、ひとつ、なんだよね。日本が一つで「も」ある。
いわきはバラバラで、かつ「いわきをひとつに」なんだよね。
そこにおける「共同性」のあり方、宗教性、社会的意味、超越性、生の基盤などなど、ここも考えるべきポイントですね。
あぁ、まだ瓦礫置き場にたどり着かないなあ……。
県や市という行政の区分を、普段私たちはほとんど意識せずに暮らしてきた。しかし、これからは、それを無意識の共同体として、再び日常という忘却装置に委ねるのではなく
政治的・権力的「覚醒」
が不可欠になるのかな。
くどいようだが、あくまでもその区域へのコミットは「断片」として、浅く、多様にね。