龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

4月11日(月)のこと(その3)<震度6は余震じゃない!本震だよ……>

2011年04月11日 23時41分03秒 | 大震災の中で
震災からちょうど1カ月。
いわき市では放射線量も逓減し、水も電気もほぼ回復。宅配便も復活して、物流もだいぶ日常に近くなって、ようやく次のことを考えられるようになってきた、と思った矢先、夕方震度6弱の余震におそわれた。
信号は市内全域でストップ。
夕方から深夜まで余震が信じられないほど連続している。
まだ市内半分強で停電が続き、断水は再度市内全域に及ぶかもしれないだという。
夕方の大きな余震以来、地震が起こる度に、さらに大きな地震が起こるのではないか、という不安がよぎる。

これは、一ヶ月前には考えられなかったことだ。あのときは、これ以上の地震など来るはずがない、と、なにか「特別な」心理状態に置かれていたのかもしれない。
一月経って、生活の一部が回復してからの今日の一撃は、正直かなりこたえた。
そんなことは意識していなかったけれど、この一ヶ月緊張と抑圧が続いていたのかもしれない。

今日は、体感できる余震が滅法多い。5分おきにぐらぐら来る。

電気は午後5時の地震から止まったままだし、水も次第に出なくなってしまった。

闇の中で連続する余震を体で感じているのは、当たり前だがあまりいい気持ちはしない。

福島県ではさらに避難区域が広がる、との報道もあったようだ。
なにやらもう幻想の世界に迷い込んだようで、思わず乾いた「笑い」がこみ上げてきそうでこわい。

夜明けが待ち遠しい。

電池で聴けるラジオやテレビが家にないので、クルマのナビが唯一の頼りなのだが、ずっと車の中にいるわけにもいかない。

そこで、大変助かっているのがiPhoneのFMradio
だ。
ローカルFM局がiPhoneで聴ける。しかもバックグラウンドで流せるので、これを書いている最中も、災害&インフラ情報をFMで聴くことができる。

いわきFMとFMradioに感謝しつつ、今日はもう寝ることにします。

飯舘村に対する政府の扱いについて書きたいことはあるけれど、それはまた明日。




4月11日のこと(その2)<友人へのメール>

2011年04月11日 14時49分20秒 | 大震災の中で
昨夜友人に出したメールです。

引用開始ーーーーーーーーーーー

今晩は。
foxydogです。

もう普通に仕事が始まって忙しいですか?
うちの職場は生徒の立ち入りが禁止で、水も出ません。

まだ時間が止まったままです。

土曜日は、福島市で、親戚まわりをしていました。
お葬式やらなかったから、一応挨拶を、ということで。

これも死んだ親父の指示なんだけど。

父親は当時の商家にはありがちなことで、の3歳ぐらいまで里子に出されていたのね。
だから、自分の家にすみ出してからも、いわゆる乳母の家が心のふるさとになっていたらしい。

死ぬ前にも、
「俺は、自分の家に戻されてからも、泣きながら坂の下にある乳母の家の方を見てたんだ」
なんて話はきいてた。

その家にも挨拶にいったら、親父は戦中満州にいたんだけれど、その乳母の家が借金のかたになっててばなさなきゃいけなくなったときに、満州に「雄飛」するときに実家からもらった財産分与金みたいなお金を、親父はその里親の家に全部仕送りして、乳母の家の危機を救ったんだって。

かっちょいい。

なんだか死んだ後にだんだん親父の全体像が見えてきて、不思議な気分になります。
そんな感じで思い出話を何度も何度も親戚まわりしながらしゃべっていたら、いささか気持ちが疲れました〓

で、今日はいわきの海岸線を南から北へ、家族を乗せて走ってきました。

小浜、小名浜、永崎、中之作、江名、豊間、新舞子と回ったのですが、本当にとんでもない惨状です。

特に、海岸線沿いに家が立ち並んでいた豊間は、中学校を含めて、山際まで家がことごとく壊滅していました。
こんなことが身近に起こってしまうのだ、と知らされ、改めて「畏れ」を抱きます。

どうすることもできないことってあるのですね。

隣接する地区では全く何でもない日常が続いているのに、その圏域の中は何一つ残っていない。

無慈悲で容赦なく人為をひたすらなぎ倒していく圧倒的な「チカラ」。

無力感、というのでは足りない。自分とか人間とかと、「それ」を対比することはできない種類の「畏れ」を覚えます。

人為=自然という関係の総体が裂けてしまったことへの「畏れ」なのでしょうか。
単純に
人為=矮小VS自然=圧倒的力
という対比なのではなく。

そういう種類の対比によって分け得る向こう側の「自然」という表現では足りない何かが、人の営みのうえに降り注ぎ、全てを瓦礫に戻してしまっているこのあられもない物凄さ。

考えてみれば「瓦礫」という印象それ自体、人為の壊滅の中にこそ「自然の猛威」を見い出しているってことですよね。

向こう側に自然がいてたまたまこちらにやって来たというだけでは足りない。

なんていうのかな、むしろ全く別次元の、ぱっくり空いた洞穴を覗き込む感じ、とでもいえばいいのでしょうか。

そういう「異和」があるのです。

人為=自然のその総体のとらえ直しを迫られるような文字通り地面から根こそぎひっくりかえされたどうしようもなさ。

簡単には整理できないショックを受けています。

授業は5月からですが、なんだか、社会復帰できるのかどうか心もとないですね。義務免か年休を取って何かせずにはいられない思いがしてきます。自分のところ(職場と自宅)が見通しついてきたので、これからでも何ができるか問い合わせてみようと思います。

なんだかもう、以前と同じ日常はもう営めないかもしれません。

一体なにをどうしていけばいいのやら。

今はしっかり立ち止まって考える時なのだとつくづく思います。

まあ、ゆっくりいきましょうかね。
ではお休みなさい。

引用終了ーーーーーーーーーー

被災を受けた地区を自分の瞳でみておかねば、
という思いがあると同時に、結果として他人の不幸を物見遊山的気分で見ることになってしまうのではないかというためらいの間で葛藤がありました。
1カ月経って、自分の頭の上のハエが追えるようになったところで、訪ねてみようと決心したのですが、やはりショックでした。
自衛隊の方や、外国の支援団体の方も少しだけ活動してはおられたようです。
場所によっては道路脇に被災ゴミが並んでいて、復旧・復興の動きが見える箇所もありましたが、まったく手つかずの場所も少なくありません。
何かできることはないのか。

でも、何も分からない。

とりあえず市民ボランティアについて検索してみます。



4月11日(月)のこと<トマト買い付け見送り再論>

2011年04月11日 13時02分17秒 | 大震災の中で
少し視点を整理しておきたい。

昨日、カゴメとデルモンテ(キッコーマン系列)の福島県産トマト買い付け見送りを批判する文を書いた。

批判する気持ちに変わりはないが、粗雑な対応に応じて粗雑な批判をするのもどうかと思う。

実のところ、こういう問題は二つの企業だけの話ではない。
ある意味では福島第一原発事故の影響下にいる私たち全ての問題でもあるからだ。

問題点をいくつか列挙しておく

1,「福島県」と一括してしまう粗雑さ

2,まだ起こっていない「風評」に対応することで、逆に風評を引き起こす危険

3,日本のどこか(世界のどこか)にはまだ汚染されていないトマト(昨付け場所)があるから、福島県産のものを、別のもので代替することが可能である、とする縮減された視点の差別性

4,福島県産トマトとその生産者に帰せられるべき責任ではない事象について、企業防衛としてまだ基準値を超えていないにもかかわらず(従って補償の対象にさえならないうちに)切り捨ててしまう、「周辺地区」の悲哀が露骨に出ている、という点。

5,大手企業が防衛に走ることによって予想される(消費者の風評だけにとどまらない)大きな影響。

6,企業倫理としてどうなの?って問題

いろいろ考えられる。

福島県産のモノを一緒に食べるのかどうか、ってところが一つの分岐点にはなりそうだ。

むろん、基本的に汚染されて危険なものは、福島県人だって食わないだろう。

そうではなく、あくまで基準値以下の安全「とされる」食品についての話だ。

なんとなく気持ちが悪いから、なんとなく不安だからできるだけ排除してキレイなものだけを食べたい、という個人的な欲望を、説得によって抑制することはけっこう難しい。

政府やACが「冷静な対応を」と繰り返してくれるのは福島県民としてはありがたいが、それだけで、心情的不安から福島県産の食品をつい忌避してしまうということを説得して止めることはできないだろう。

ことは個人の選択の問題だからだ。

だが、今回の「福島県産」の検出放射線が基準値以下であるトマトの買い付け見送りは、それと同じではない。
企業が、国の基準を下回っている状態で合理的理由なしに、消費者の「風評」を先取りして被害予防のために福島県産品を排除することによって企業防衛する姿勢が、どこまで妥当か、という問題は残る。

なぜなら、倫理的に言えば(福島県人の私がこういう風呂敷を広げるのは夜郎自大というか我田引水というか、ためらいはあるんですけどね。でも話の行きがかり上しょうがない)、福島県の原発事故被害は、部分的に排除し、日本の「領域」を縮減して福島県以外で回していくことが簡単にできる質の事件ではないからだ。

他方、いや、そうではない、という考え方もあり得る。

東京電力の原発を誘致したのは福島県であり、県内の自治体であえり、福島県民なのだから、それはその契約者同士のリスクマネージメントに関わる。
東電も福島県(県民)もそれを容認したのだから、その間で補償でもなんでもやってくれればいい、というのもまあ、理屈としてはありそうだ。
今の段階で国民全体の賛成多数にはならないかもしれないけれど(苦笑)。

正直な話、原子力発電は実質上国策事業なわけで、福島県と東電の任意の契約とだけいって切り捨てるわけにはいかないだろう。

それでも福島県民は、
「安全神話」にうつつを抜かしていたのではないのかい?
世界に名だたる「フクシマ」になったのを、全部だれか他人のせいにしていいのかい?

という疑問には、きちんと向き合う必要があると思う。

同時に、日本全体の安定的電力供給を原子力発電で下支えしてきた現実を考えれば、カゴメやデルモンテの対応は、いささか拙速、のそしりを免れまい。

自分たちの利益を守るのが遅れると、短期的に株主の利益を損なうという判断なんだろうけれど、もう少し別の信号も同時に出してほしかった。

農家への補償を直接行うわけではなくても、いろいろ手当の方法はあると思うんだよね。
そして、たとえ個別に農家に対して行うことでも、今は「福島県」や日本人全体がそれを共有すべき時だ。
福島県の農家を見捨てはしないよ、という信号も、同時に出すべきだったのではないか。

「倫理的」な視点をふまえた意見として、ここに書き留めておきたい。

そうか。
個別的なこと、断片的なことでも、共有されるのとされないのとでは意味が違うんだね。

一元的な基盤の復興も大切だし、避難民への集団に対する対応も大切だけれど、「断片化」した「生」を支える営みについても、どこかで共有可能性を持ち得る開かれたものであってほしい。

そういうことを感じているのだ、たぶん。

繰り返すが、カゴメやデルモンテの企業防衛の姿勢そのものが「悪」なのではないのだと思う。
お互い、福島県民だって、カゴメの社員だって飯を食って行かなくちゃならないんだから。

ただ、バルネラブルタイプの旗が立っていて、どこからでも攻撃されやすく排除されやすい現状の(原発事故というケガレを背負った)福島県民を、相対的強者である企業が、「俺たちが飯を食うためにはしょうがないんだよ」と見捨ててしまった感じが、やっぱりいただけなんだなあ。

持っているものがその財を守るのはある意味当然だけれど、他方奪われた者には、守るべきモノは尊厳しかないのです。

尊厳というのは目に見えないから、ともすると反対のための反対や、言いがかりや因縁、弱者の依存・居直りみたいに見えてしまいかねない。

でも福島県民の一人としても、そんな風にはなりたくない。

避難民が体育館に押し込められて文句も言わずに一ヶ月以上そこに住んでいるのは、それ自体で限界に近いと思います。
1ヶ月経ってからようやく瓦礫の中で家財道具を整理し始めている人々も、それはそれで限界に近いと思います。

あり得ないことが起こってしまった現実、その現実をどう受け止め、自分たちの課題として共に前に進んでいけるのか。

「断片化」された自分たちの「生」を、どうとらえ直すのか。
私たち福島県民が考えなければならない「断片」の「生」という課題は、実は日本が日本として生きていくためにも必要な「問い」なのかもしれない、と勝手に思い始めています。

好むと好まざると、に関わらず、「フクシマ」はどこかで日本の、そして世界の「突端」に立たされてしまっている。

単純に誰かを非難すれば済む問題ではなく、人間の営み=人為の総体をふまえた上で、自然がもたらした「予想外」の「裂け目」と向き合っていかなければならない。

そのあたり、グルグルしているばかりでなかなか深められないのがもどかしいですけれど。

そういう形で考えていくと、日本に住む人々全体が
福島県産品を排除していいのか、敢えて食べるのか(実際にどこぞの首相みたいにカイワレをパフォーマンスで食べるように、ではなくていいんですがね)。

少なくても、
「原発事故近くの野菜なんて危険だから」
とお上品に、そして実は心情的不安から逃れるために福島県産品を自分の中の「日本全体」から排除していくのか、いかないのか、という倫理的問題にもなっていくのかもしれません。

ああ、福島県人の私がこんなことを書くと、ただの嫌味か脅しみたいで気がさしますね。

決して基準値以上のものを強要するわけじゃなくて、安全だったら、たまには助けると思って食してもいいか、ぐらいのスタンスでいいんです。

安全なものだけを求めればいいのだ、排除可能なものはどんどん排除していけばいいのだ、というならば、原子力発電に頼らない日本を、日本全体でせめてこれから考えていくべきでしょう。
とりあえず福島県産品は排除可能だから排除して、現行壊れなかった原発の電気は排除しないで、というダブルスタンダードを無意識に選択するのだけは、ヤメてもらいたいものです。

これからも原発をとりあえずこれから数十年使っていくというのなら、「フクシマ」は、どうしたって排除不可能な要素なのですから。

人類の過ち、として単純に排除可能な事故ではないところが難しいですね。

ふいぃ。

排除され、除染され、救済され、支援を受けるだけでは済まされない課題が福島県民には課せられている。

問題を被害者意識にだけ縮減するのではなく、人為=自然の示す「裂け目」を見て体験してしまった「断片」の一人として、外側に発信しつづけなければならない仕事がある、といってもいいだろうか。

具体的にどうすればいいんだか相変わらずわからないまま、これを書いているんですが。

4月10日のこと<カゴメとデルモンテが福島県産トマト買い付け停止>

2011年04月11日 00時56分01秒 | 大震災の中で
カゴメとデルモンテが、福島県産のトマトを今年は買い入れない、と決めたそうです。
トマトは、政府の基準値以下、何ですがね(苦笑)。

とりあえず福島県人としてはこの二社のケチャップは使わないよって決めました。
もっとも、ケチャップはもともとあんまりたべないんだが。

でも、こういうのは、言いがかりに対する言いがかり、子供の喧嘩みたいで、あんまり生産的ではないですよねぇ。

企業としては、消費者が「穢れ」を感じる「福島」は排除せざるを得ないってことなんだろう。

やれやれ。

同じく、福島の検察が拘束していた被疑者を釈放してしまったのは、自分たちが福島から待避したかった~じゃないのか?なんて話も新聞種になっていました。

全くもって「参った参った」状態です。

風評被害と自粛ムードには、どこか共通する心性を感じます。

そこには雰囲気やムード、「空気」をクリーンかつ均一に保ちたい欲望がありますよね。

負の盛り上がり、守りのための排除。

いずれも、心に抱く不安から逃れて、気分を共有することで自分たちの心理的空間を清浄に保つ効果はありそうです。

福島県のトマトを、基準値以下でも仕入れないと決めたカゴメとデルモンテは、そういう消費者の心性に対応しただけ、ともいえるかもしれません。

安全な食品を提供するのは企業の倫理でもあるけれど、それにしても、「福島県産」っていう排除の仕方はおおざっぱでいかにもイメージだけの対応。

「粗挽き」だよなあ。
福島県はやられちまったんだから排除されてもしゃあない、というのがミエミエだよ(泣)

きめ細かく排除すればいいって話なのかどうか、その辺も難しいけど。

そんな福島県いじめの世の中でも、
こんな企画がありました。

引用開始-------
福島県のお酒は、昨年とれた米で、しかも震災以前に作ったものであるというのに放射能測定を科せられているということです。
だからなかなか東京に福島の酒が入ってこない。
しかも自粛…。
そこで考えたのがこの企画です。
福島のお酒を飲んで、福島を応援しませんか。

「福島県産のお酒を飲む会」
4月16日土曜日 20時スタート
西麻布ラウンジバー
Ohana にて
http://ohana.8dori.jp 

引用終了------

こういう心意気には、うれしくて涙が出ます。
参加できる方はぜひ、福島を応援してやってください。

これからは、個人が指し示す「公共性」の方が、カゴメやデルモンテ(この二社の対応は、福島県人の1人としては、東京電力とおなじ見捨て方に感じられますけどね)のようなお為ごかしの企業が目指している「公共性」よりも、よほど頼りになるってことをはしなくも証明しています。

契約してしまってから放射能汚染が基準値を越えると、メーカーとしてはその損害をとりあえずは被るから、リスクを背負うよりは福島県の農民に泣いてもらおうということなんでしょう。

ひでえ企業だと俺個人は思うけれど、企業の算盤勘定としては妥当なんだろうね。
ただ、オレはもうこの二社の製品は、買わないなあ。そういうことで個人が態度を示していくより他にないからね。どんなに小さな態度であっても。

なんだろう、別に一緒に放射能を浴びろとかいわないからさ、困った状況を丁寧に理解してほしいんだよね。
その上で、できることを誠意を込めて尊厳をもってやってもらえるなら、限界があって構わないのです。
果たしてこのカゴメもデルモンテ(キッコーマン系列)も、そういう被災地域に対するリスペクトが十分な対応だったのかどうか。

そういうことじゃないかなあ。

勿論、自分たちが被害者だからといって、他者に無理を言うのはどうかと思う。

できないことをやれっていわれても、人為には限界がある。

でも、できることはやってほしいよね。

大変多くのものを理不尽にうしない、さらにこれからも失っていくだろう不安を抱えている福島の原発事故被害の圏内にいる者たちは、だからこそせめて、人為の範囲においては、尊厳を保ったかたちで遇されたいのです。

遠い遠い本社会議室でモノを考えられちゃ困るってことです。

現状「原発事故」によって、攻撃誘発性のフラグが立ちまくり、有形無形さまざまな面でボコボコにされていくであう福島県人としては、そこんところ、よろしくお願いしたいです。