龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「断片化」と「隣接性」。

2011年04月29日 12時40分05秒 | 大震災の中で
公共的なるもの、を考える準備

都合のよい社会基盤を「公共的」として、それ以外のものを排除するっていう話になってしまうのではないか、と思うと、いろいろ書くのがためらわれたりもする。

どうせゴミの書き込みなのだから、と開き直るのもいいが、まあ、もう少し粘って考えたい。

面白いブログを見つけたので紹介しておく。


April 24th, 2011
水素爆発の理由をどうしてもベントの遅れのせいにしたい人々

(http://mechag.asks.jp/2011/04/24/)

他に、これも面白い。

日航機墜落と福島原発
(http://mechag.asks.jp/2011/04/25/)

単純に電源があればうまくいったのに、ってことでもないし、ベント遅れだけの問題でもないかもね、っていう指摘。
設計段階からの問題もあるよねっていう技術屋さん(かな?)の視点でした。

たとえば、誰が「水素爆発を予想できたのか」ってことにもなるよね。

「人為」だけに限定してものごとを考えていくと、とにかく管理していた東電の無限責任みたいな話になってしまうけれど、技術的な視点も含めて、そりゃないだろう、と私も思う。

他方、原子力発電所の事故があったからといって、「人為」の限界を簡単に語るのは、どうかと思う。

限界じゃなくて「人為」の「裂け目」、「傷」が立ち現れ、それに「自然」と名を付けているってことなのじゃないか?
繰り返しているのはそういうことです。

だとすれば、技術者はこれをきちんと検証して後生に資することが求められるだろうし、その検証過程事態を公開し、共有することが大切なんだろうね。
できれば複数のチャンネルで検証を検証できる仕組みにできると、精度が高まる。

緊急時は、誰が、あるいはどんな組織がコントロールしても限界があるんじゃないかなあ。東電社長でも、菅首相でも、天皇でも、「無力」というか限界あるわけだからねえ。

それを、無理矢理性急に見取り図を引いてしまい、「日常性」を回復したいと思うのはどうかな、と思う。

一刻も早い復興を、というのも分かるし、急いでは見えなくなってしまう、という思いも正直ある。
たとえば小さなことだけれど、家の応急処置としての修繕は、自前で屋根にシートをかけたり風呂のタイルの補修をしたり、割れた食器や瓦、さまざまながれきを捨てるのは一段落したけれど、これをいつになったら直せるのか、皆目見当も付かない。

余震(4・11)の時の被害の方が、本震(3・11)よりひどかった家も少なくない。

むりやり範囲を決めて「安全」とか「日常」とかを性急に求めすぎるのは、共同体の規範の「縮減」を招く危険さえあるだろう。風評被害や福島県人への原発差別などという情緒的な反応は、そういう「縮減」の結果だろう。
他方、だからこそ、「裂け目」に落ちて身動きが取れない人、社会のシステムや共同体、地縁的ネットワークを失って「断片化」してしまっている「被災者」の人に、「隣接性」をもって手をさしのべてくれる人々も少なくない。

部分的で、その援助自体が「断片」かもしれないけれど、そういう「断片」の自覚ある人の方が「隣接」した「裂け目=隙間」に立つ人にそのとき適切な援助をできるって可能性も高いのではないか、としみじみ思う。

「今ここ」は、安定的な社会や共同体の中の規範が通じなくなったとき、すぐに傷つき変形し、ともすれば裂け目に飲み込まれてしまう。一瞬の後には痕跡となり、次の瞬間には別のところが傷ついてしまう。

生活基盤=地面が流動化したところでなおも「生」を抱えていきる人は、不可避的に「断片化」を生き、瞬間瞬間に傷つき続けながらみずからの「生」をどこかに延ばしていかざるを得ないだろう。

そういう場所に共同体や社会から人を招き出してしまったのが大震災や原発事故という「大事件」なわけだが、この場所では、それ以前の共同体規範や社会秩序のシステムは通用しなくなってしまう。

それは必ずしもその共同体や社会の問題とばかりはいえまい。

誰だって、こんなめちゃくちゃな1000年に一度の事件で「正解」なんて探せない。ってか、正解なんてないしね。
ただ、それを「1000年に一度の大災害」とか、それでも「日本は一つ」とかいった言説で回収することが正しいかどうかは、また別。

一方、正解はないんだから、といって開き直って思考停止し、いつのまにか忘却装置を作動させて新たな「日常性」を招き寄せたい欲望は、分からないでもないけれど、それはそれでどうかと思う。
「正解なんてどうせないんだっ」っていうとりあえずの「解」、だもんね。

難しい……。

だから、「公共的なる空間」における「断片化」と「隣接性」ってことを繰り返すしかない。

人間の「人為」はもちろん、この大災害、大事件を教訓にして、またシステムを一つ上の精緻な次元に押し上げていくだろうし、そうやって「メカAG」さんの言うように「技術」は進歩していくのだろうと思う。「人為」の次元では。

でもたぶん、それが検証される数十年後までには、私はもうこの世にはいないでしょう。だから、今私が「知りたい」のは「技術的真実」とか「進歩の結果」それ自体ではないのだと思う。

そうではなくて、大きな「切断面」の生成に立ち合っている者として、その「裂け目」に瞳を凝らしていたいのだ。

ただ、どこに自分の瞳があるのかもよく分からず、どれが「裂け目」なのかも時々見失い、どの状態が目を開いていることで、どれが何か別のものを夢想して目を閉じている状態なのかもよく分からない。

「隣にあるモノやヒト、コトガラ」だからよく分かる、とも限らない。

でも、大きな危機に際して縮減しがちな共同体規範や、復旧を自己組織として行っていくシステム秩序の次元とは違った、強いられた空白という隙間の場所で、それでも物事を見るという努力は続けたいという欲望だけは持っている、ということだ。

そこに「公共的なるもの」を感じるのは、言葉の使い方が間違っている、といえば言えるのかもしれない。

単に、災害によって社会の秩序や共同体が失われた「人為」の「廃墟」、もしくは「自然の猛威」と表現するヒトもいるのだろう。

私はそれでもなお、「公共的なるもの」という眼鏡で、この事象を捉えたいと思っている。