龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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4月2日(土)のこと<家という空間は人間の生活をよりつなぎ止める:バシュラール>

2011年04月02日 14時56分00秒 | 大震災の中で
今日は朝から、お見舞いやら御香典やらのお返しものを買いに、町の中をクルマでぐるぐる動いていた。

コンビニには種類が少ないながらも棚に商品が並び、スーパーも通常営業。クリーニング屋さんも仕事を再開していた。

大震災と原発事故をつかのま忘れてしまいそうな、何事もなかったかのような「安心」と「日常」。

でもクリーニング屋さんでは、水が出たのはようやく昨日からだという。

自分の家は震災一週間で上水道が復活したので、ついみんなもそうだろうと思ってしまっていた。

現代の基本的なインフラとは、そういうものだろう。だから、首都圏の人が電気を使うときに、それがどこでどんな形で作られたかなど気にもとめないのが当然だ。

電気に色も匂いもタグも付いていないのだから。

首都圏では計画停電になってはじめて電気の生産場所が分かったわけだが、ここ被災地だって、断水が続いてはじめて自分の家の水道水がどこの浄水場からどういう経路でたどりついているのか、が分かるようになった。
たとえ隣接した地区でも、水源が違うと一週間も二週間も復旧に差がでてくるのだ。

ちょっと前までは、都会だろうが田舎だろうが、水や電気、ガス、下水道、道路、そして安全な空気などのインフラは、まさに「空気のような」ものだったのだのに。

昨日初めて避難所の体育館に行ってみた。いつもテレビで見る、「あの感じ」である。

正直、私は途方に暮れ、何をどうしたらいいのか分からず立ちすくんでしまった。
やはり「命」の次は「家」かもしれない、と切実に思う。

普段私たちは賃貸しの空間をいくらでも買ったり借りたりすることができる。

アパートでも、ホテルでもマンションでも、レストランのテーブルでも、マンガ喫茶のブースでもよい、小銭か大金かは別として、流通している流れに手をかざせば、そういう時空間をいくらでも購入できる。

しかし、すべての人為的空間分割を無化して押し流す「自然」の猛威の後では、さまざまな社会資本の上に成り立っていた日常は消失し、「断片」に還る。

後にはお金では簡単に取り戻せない、大きな傷を抱えた我々が茫然と佇むばかりである。
私の家の瓦は大量に落ちてしまい、強い雨が降ると、もれなく放射能入りの雨水が家の中に漏れてくる状況である。
しかし、瓦屋さんもガソリンはないし職人さんはいないし、瓦の注文は何ヶ月先なのか何年先なのか検討もつかない。
しかし、とりあえずはこの家に住む以外の選択肢が、自分にあるとは簡単には思えない。なぜなら、それが自分の生きられた時空間そのものだから。
そういう身体の生活感覚を伴った時空間の体験と記憶を、容易く交換可能なモノとして扱われると、被災者は絶対納得が行かないだろう。
田舎にこだわる行動の「経済」は、安易に慣れ親しんだ無意識の日常へのしがみつき、とばかりはいえないのではないか。
住みかとは、私たちの生活をその時空間に定着させ、かつ自己の生を持続的な表現形とするために必要不可な欠空間分割の身振りなのだ。

なるほど流れ者にだって一宿一飯の「恩義」があるわけだよねえ。渡世人にとっては、宿賃だけの問題ではないのです、きっと。

ただし、急いで皮肉を(忘れないうちに)書いておくと、
「花見の自粛」
とか、どこぞの都庁のお偉いさんに云われる義理はない。
自粛は、自分の判断でするものでしょう。計画停電とはわけがちがう。

公共性、についてはこれまたたくさん宿題が見えてきたような気がするね。

インフラや住みかを失って避難所で肩を寄せるしかない現状は、速やかに解消してください。

これは行政と政治にお願いするしかない。
でも、それは断片化したフラジャイル(コワレモノ)な「生」が、単にもう一つの安全な日常に回収されることがゴールではない、ということも、図々しくかつ声高に、何度でも強調しておきたい。

だって、原発は今もたくさんたくさん稼働しているわけだし、現に福島原発の事故も、終わってなどいないのだから。

私は、3/11(金)以前の無自覚な安寧に戻る術が断たれたところから、思考と行動を始めていきたいのだ。
そのためには、この無力な断片として幾重にも傷ついた時空間の経験と記憶を引っさげて、なお、新たな「生」の営みに向けて、自らを、そしてお互いを促して往かねばならない。

この事態を薄々予感しながら思考の瞳をそらし続けてきた自分自身のことをも含めて、「回収されない」断片としての瞳の強靭さを持ち続けつつ、思考していきたい。



4月1日のこと<お悔やみへの返信メール>

2011年04月02日 09時38分06秒 | 大震災の中で
友人からお悔やみメールが届いた、その返信。
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父は91歳までピンピンしていて、入院3週間で亡くなりました。
葬儀も内輪、遺体は献体。

本当にコンパクトなお店ののたたみ方でした。
家でゆっくりお通夜もしたし。

でも、生活のいたるところに、彼が生きていた頃の気配が濃密に残っています。

無論こちら側の脳みその中に、ってことなんだろうけれどね。

その生活空間像の組み替えには、やはりいささか時間が必要不可欠なのでしょう。
「喪に服す」
ってことの意味がしみじみ分かります。

そんな時間は要らないよ、強がるのは簡単なんだけど、あんまりそうすぐに決めつけない方がいい、ということは被災者としての日々を過ごしてよく分かりました。

いくら急ごうとしても、心の中にある生活像はゆっくりとした速度でしか動かせないのです。

自分が共に生きてきた家、家族の声、道路、お店、食器、隣の家から漂って来る来る夕食の匂い、親戚、職場、本棚、服、万年筆、お風呂、トイレ、ペット、壁に掛けられた絵、ハンカチ、使い古した包丁やまな板、窓から見える庭の景色、学校の校舎、コンビニの明るさ、愛する人の遺品、ケンカの思い出etc.

「喪に服す」のは、なにも身近な人に「おくれ」、その「死を想う」ことを意味するだけではないのですね。

モノ ヒト コト

ちと大袈裟にいえば、いままで生きてきた時空間や諸関係、社会システム、それらにまつわる体験と記憶。
それら全ての組み替えをして、なおも生きていく準備をすること。

悲哀の仕事っていうのはそういうことなのでしょう。

父親の死という(一般的に個人のライフサイクルの中では大きな出来事の一つと数えられるにしても)、極めてプライベートな出来事と向き合いつつ、同時に大震災という自然の圧倒的な「組み替え」を目の当たりにし、なおかつ微細で目に見えないのに放射能が生活空間像の全てを浸食していく「人為=自然」としての原発事故の只中を生きる中で、そんなことをとりあえずは感じています。

大気中に飛散し続ける目に見えない放射能は、私たち被災者の脳みそを、どう組み替えていくのかな……。

毎日のいわき市情報メール配信、ありがとう。いろいろ便利に利用させていただき、とても助かっています。

ようやくいわきでもお店が開き、ガソリンも並ばずに買えるようになって来ましたね。

それにしても、非日常の裂け目がこんなにも大きくかつ多重に開くコトなんて、この先あるのかねえ。

落ち着いたら、また飲みましょう(最近知り合いとはこればっかり言ってます。飲み屋さんはまだはじまってないのかな?)。

それまでなんとか生き延びたいね。
ではまた。