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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

4/6(水)の始業式(再論)

2011年04月04日 22時47分00秒 | 大震災の中で
福島市に住む友人からメールがあった。
(引用開始)
>当面、外での体育はなし。
>遠足中止。運動会延期
>各校にガイガーカウンターが配られ、
>測定値を毎日報告するようになる
>とのウワサが。

>それでも、6日、入学式です

>沈んでいく中で演奏を続け
>た、タイタニックの楽団を想います。
(引用終了)

これはやはり
「愚かしい日常性へのしがみつきだけである」
というべき事象じゃないかなあ。

福島市はいわき市よりも高い放射線量を示し続けています。

急がずに、もう少しゆっくり注意深く危険を織り込みながらの
軟着陸を、繰り返しお役所には求めたいと切実に願います。

まさか、
2マイクロシーベルト/hだから安全なのに市民は愚かにもびびっている。
啓蒙すれば普通に教育はできる……

なんてお役人たちは考えているんじゃなかろうか?
そこまで馬鹿な役人たちだとは思いたくないが、どうもそういう危惧を抱く。

繰り返すが、福島県人は今の政府が「安全」だという線量を理解せずに「愚かにも」びびっているんじゃないんだ。
そうじゃなくて、この状況全体に対する不信と怒りと不安と、無力感を抱いているのだ。
だから、その不安と不信と怒りを共有しつつ、この状況に対応していきたいと思っているのだ。

それは確かに、一見、不信が渦巻く中で断片化している市民の混迷、とも見える。
だが、それは絶対に、「ただしさ」や「啓蒙」で説得されるべき種類の「愚かさ」ではない。

これは、分かる人には分かる。分からないヤツにはずっと分からないのだろうな。

私は今、こういうとき、スピノザを想うのです。

震災前、國分功一郎氏が出版イベントで発言していた「スピノザは弱い」というコメントを、うなずきつつ思い出す。

デカルト&ニュートン的説得の言説ではたどり着かない場所を、スピノザ&ホイヘンスのもう一つの「近代」は指し示し続けてきたのではないか、という指摘は鋭い。

私達は、限られた遡及の中の論理的説得で統合される「科学的合理」ではない、もう一つの断片が断片のままで響き合い、それぞれの中に「真理」を見いだすことができる可能性を、模索すべき場所に立っている。

スピノザのテキストは、その志向を持つ今の私を支え続けてくれるのだ。





低レベル汚染水の海への放出が始まった

2011年04月04日 21時56分46秒 | 大震災の中で
東電や政府、それにテレビの解説の人の話を聞いていると、日々事態はどんどん悪化しているのに、
「そのぐらいなら大丈夫です」と、日々どんどん「安全」になっていくのが分かる(笑)。

原発事故が起こっていなかったときには非常に危険だった事柄が、どんどん
「直ちに健康に影響はない」
ってことで「安全」になっていく。安全神話の再構築が、危険な事象の報道と抱き合わせで行われる。
日本のメディアが信用できないのはこういうことだったのか、と分かる。

これは、抱き合わせで伝えられるべきことではなかったのだね。
どんなに面倒でも、細かい事実やデータの報道を迅速正確に行い
危険の価値判断は、それとは独立して、多角的に示されるべきなのだ。


この非日常的「日常幻想保持」のための言説に対して、私達は注意深く瞳を凝らしながら、その虚構性をかぎ取って行かねばならない。
同じ日本人なのに、仲間じゃななくて、丸め込もうとするいやらしい言説をかぶせてくる「敵」なんだね。無意識なんだろうけれど。

今日はついにNHKの解説委員は
「背に腹は代えられない」
といい出した。

これって、背の方が大切なのか腹の方が大切なのか分からないけれど、福島県の漁業にとっては、もはや背も腹も瀕死の状態であることは間違いない。

こんな状態でもまだ、池田信夫的言説は、「日本の原発は安全で、被害は限定的だ」=東京は大じょうぶだもんね的ことを言い張るのかなあ……。ま、いいけど。

この「背に腹は代えられない」には正直笑ってしまった。

福島の野菜は福島県民が食べる。福島の漁場の魚は福島県民が食べる。
そうするしかなくなるんだろうなあ。

なにせ政府も東電もメディアも「安全だ」って保証してくれるし、他県の人はほぼ食べないだろうし、その
「限りなき安全神話」
の中で、福島県民は営みを続けていくのだろう。

あ~あ、だんだん馬鹿馬鹿しくなってくるよ。

こういうことがずーっと続くと、不謹慎なのを承知で絶望的な言説を弄すれば、いっそ東京までこの放射能をもっと強く届けられたら(福島からの「愛」を込めて)分かってもらえるのかなあ、なんて思ってしまいかねないよ。

自分の目の前の海が人間の手によって犯されていくのを手を拱いて見ているしかない悪夢のような現実の苦悩を、どうすれば伝えられると思いますか?

自爆テロって、こういう絶望感の蓄積から生まれるのかもしれないね。
それはきっと、放射能の蓄積より危険が大きい。

いつまでも一元化幻想に頼った対応をしていると、むしろ「その爆発」は早まるのではないか。
精神的疲弊は、ずっと蓄積され続けているのだ、と知ってほしい。


4月4日(月)のこと

2011年04月04日 21時39分55秒 | 大震災の中で
面白い番組があったので、メモしておく。


興味深い番組なあったので、メモしておく。

ETV特集「原発災害の地にて」4/3(日)22:00~
対談 玄有宗久/吉岡忍

浪江町の屋内待避地区の集会所で二週間以上過ごした人たちが、高いレベルの放射線量を測定されて除染され、かつ自分たちが行方不明者リストに乗せられていたことを後から知らされる番組の最後のシーンは象徴的でした。

結局20キロ~30キロ圏内に指示された屋内待避や自主避難勧告は、実質上置き去りだった側面を持つことが、示されています。

二人は対談で
「正確な情報が出ない」
と憤っていたけれど、全くその通り。
私の周囲の人は口を揃えて東電や保安院、政府の発表は信用できない、と言います。

ただ全てが国家の意図によって統制されている、とは必ずしも思わない、、
緊急事態の場合、「会議室」で起こっているのはそんなものだろうと思います。所詮自分たちのことではなく、「数」とか「全体」とかを考えてしまう日本人トップの器の小ささ、深刻な事態への対応能力が低い限界が示されていると思う。

私たちは、そこから危険を「読む」必要があるのでしょう。
かつての社会主義情報統制国家みたいだけど(苦笑)。
日本の組織なんて初動はそんのもんなんだよね。
前例がないとパニックになる。

でも、今からそれが繰り返されてはならない。
彼らの言うように、これからは素早く正確な情報公開をしてほしい。
なんとしても、今後は素早く正確な情報を出し、それに基づく自己決定権を被災のただ中にいる人たちにきちんと提供すべきだ、という二人の意見に全面的に賛成。

これからは遅延は許されない。
危機がそこにあることをみんな既に知っているのだから。

プルサーマルである3号機のプルトニウムの危険性、これからの飛散量と風向き、雨による影響。
その危険性と飛散量・汚染量の爆発的な変化の危険性。

そのあたりの情報は、直ちにだしてもらいたい。

その上で、市民が自分たちの行動を自分で選択すべきだ。

将来にわたっての影響などわかりもしないのに「安全だ」とばかり強調する政府の言説は、国民を動かそうとする愚劣な一元化コントロールの欲望が性懲りもなく立ち上がっているのを感じる。

市民はもう、勝手な判断にはうんざりしているのではないか?
だって、そういう根拠のない政府や経済界、東電、そしてそれらをやむをえず飲み込んできた国民が、こんな事態を招いたのだから。

もう、同じ欠陥を持った言説は願い下げにしたい。

いわき市で、小中学校を4/6から始めるというけれど、現在の飛散量がおちついているからなどど安易に考えては絶対にいけない。

原子炉の変化や風向き、雨の状況によっては、たちまちのうちに飛散量が爆発的に増大しかねない、そのリスクマネージメントが、果たしてできるのか?

いわき市教育委員会はむやみに安全だといいはったり、授業の早期平常化にこだわるのではなく、危機がまだ続いていることを踏まえて、まずは子どもたちの避難などに対応した対応を提示すべきだ。

その安全確保が市民と共有されてから学校を再開したほうが絶対いい。

もしそれがてきていないなら、第一原発事故の危険が沈静化するまで、学校なんて休みでいいじゃないか。

百歩譲って学校のお店を開き、教育を保障するのはいいとしても、始業式とかやらずに、安全が担保された範囲でできる教育機会の確保に心を砕くべきだ。

勝手に行政が判断して、一律に何かを市民にさせるのはもう止めよう。

安全側に重心を置いて、きちんとその情報と安全の認識をを市民と共有する責任が、行政には生じていることに、早く気づいてほしい。

今の放射線量の漸減傾向がずっと続く、と、だれが言い切れるのだろう?

そしてそれが急変したとき、いわきの子供たちを守りきれる確信があって始業式をはじめとする見切り発車をしたのか?
市民はただ従う前に、教育長の決定をきちんと確かめなければならないのではないか。

大人は地元を支えるために、被爆限度までがんばるのはまあいい。

自己選択としてはあり得ることだ。

しかし、次世代の子供たちの低線量慢性被爆については、より安全側に振った対応がなされていいのではないだろうか。
今でも、平常の何十倍もの放射線量が測されつづけている福島県は、子供たちへの対応をもっと慎重にしておくほうが絶対にいいと思う。

例えば、風向きと突然の降雨に、原発の制御不能な瞬間が重なったらどうするつもりなんだろう?

現に飯舘村などでは、風向きと飛散量の予測を知らされもせず、市民が予想もしないレベルの汚染を受けた。
都内でも水道水などは、風向きと雨によって、予想外の場所まで汚染された。
国は予測して黙っていたのかもしれないけれど(笑)。

そういうことについての説明が不十分であることは間違いない……というか、判断材料の情報公開も、説明もないんだから、論外、ではないか?

爆発したときの飛散する放射能を押さえようといろいろ考えたり試したりしてるわけだよね、今現場では。
ってことは、まだ安定してないわけだよね?
出された情報だけだと、まだ市民としては不安だと思うなあ。

どうなんでしょう。
是非とも十分に説明してほしいものである。

追記
福島県の教育委員会では、県内全ての小中学校で放射線量を三日間にわたって測定するのだという。
バカじゃなかろか。

そういうことを心配しているんじゃないんじゃないの?
予期しない原発の爆発などによる飛散量の変化と風向き、降雨によって状況が急変したときに、学校の教師に的確迅速が対応が可能なの?それは現場に任せているだけなの?
そういうことをまずきちんと説明してからやってもらいたいなあ。

福島県民はみんな黙って我慢するって思われてるのかしらん。お役人も福島県人なのかな、本当に。
不安をもうすこし共有してくれよ。

頼むぜ、××くん、○○さん。











そのあたりの情報は、直ちにだしてもらいたい。

その上で、市民が自分たちの行動を自分で選択すべきだ。

将来にわたっての影響などわかりもしないのに「安全だ」とばかり強調する政府の言説は、国民を動かそうとする愚劣な一元化コントロールの欲望が性懲りもなく立ち上がっているのを感じる。

市民はもう、勝手な判断にはうんざりしているのではないか?

だって、そういう根拠のない政府や経済界、東電、そしてそれらをやむをえず飲み込んできた国民が、こんな事態を招いたのだから。

もう、同じ欠陥を持った言説は願い下げにしたい。

いわき市で、小中学校を4/6から始めるというけれど、いわき市では、現在の飛散量がおちついているから、などど安易に考えては絶対にいけない。

原子炉の変化や風向き、雨の状況によっては、たちまちのうちに飛散量が爆発的に増大しかねない、そのリスクマネージメントが、果たしてできるのか?

いわき市教育委員会はむやみに安全だといいはったり、授業の早期平常化にこだわるのではなく、危機がまだ続いていることを踏まえて、まずは子どもたちの避難などに対応した対応を提示すべきだ。
その安全確保が市民と共有されてから学校を再開したほうが絶対いいよ。

もしそれごてきないなら、第一原発事故の危険が沈静化するまで、学校なんて休みでいいじゃないか。

百歩譲って学校のお店を開き、教育を保障するのはいいとしても、始業式とかやらずに、安全が担保された範囲でできる教育機会の確保に心を砕くべきだ。

勝手に行政が判断して、一律に何かを市民にさせるのはもう止めよう。

安全側に重心を置いて、きちんとその情報と安全の認識をを市民と共有する責任が、行政には生じていることに、早く気づいてほしい。

今の放射線量の漸減傾向がずっと続く、と、だれが言い切れるのだろう?

そしてそれが急変したとき、いわきの子供たちを守りきれる確信があって始業式をはじめとする見切り発車をしたのか?

市民はただ従う前に、教育長の決定をきちんと確かめなければならないのではないか。

大人は地元を支えるために、被爆限度までがんばるのはまあいい。
自己選択としてはあり得ることだ。

しかし、次世代の子供たちの低線量慢性被爆については、より安全側に振った対応がなされていいのではないだろうか。

今でも、平常の何十倍もの放射線量が測されつづけている福島県は、子供たちへの対応をもっと慎重にしておくほうが絶対にいいと思う。

例えば、風向きと突然の降雨に、原発の制御不能な瞬間が重なったらどうするつもりなんだろう?

現に飯舘村などでは、市民が予想もしないレベルの汚染が起こっているわけだし、都内でも水道水などは、風向きと雨によって、予想外の場所まで汚染されたわけだし。

そういうことについての説明が不十分であることは間違いない……というか、判断材料の情報公開も、説明もないんだから、論外、ではないか?

爆発したときの飛散する放射能を押さえるために樹脂を入れたりとか試してるわけだよね、今現場では。
ってことは、まだ安定してないわけだよね?
出された情報だけだと、まだ市民としては不安だと思うなあ。

どうなんでしょう。

だいたい大丈夫だろう、ぐらいの適当な判断でやってるんじゃないなら、是非とも十分に説明してほしいものである。