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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

政治の悲しさ。

2013年09月13日 23時39分19秒 | 大震災の中で
本当に、継続的安定的に安全だ、といえる状態になるまでに、どれだけの苦難が必要なのだろう。
現場で働いている人、漁業者の方、避難中の多くの人々のことを思うと、その人たちを翻弄し続けるこの事故施設に、「たかが」お祭り騒ぎのためにあえて「コントロールされている」とか言わねばならない政治家っていうのは、本当は哀れな存在であり、しかもその哀れさを絶対に共有しようとしない「動物たち」なのだということが分かる。

「人間」とか「政治」とかいうカテゴリーを、根本から考え直す時期かもしれない。

今度の大震災とそれによる大事故は、私たちにそういうことを教えた。


原発汚染水問題 東京電力、外部有識者を呼び対策会議(フジテレビ系(FNN)) - Y!ニュース

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20130913-00000752-fnn-soci&1379044477

國分功一郎先生が『一般意志2.0』の書評の話になったときに、
「政治ってのは悲しいものです」
と書いておられたのをふと、思い出した。
同時に小平市の活動にも触れつつ、
「身近なものはあきらめられない。だから、そこで考え、行動していくんだ」
とも。

さて、ではどうしたいか?
自問は続くが、答えは簡単ではない……。



斉藤和義を初体験

2013年09月13日 21時30分48秒 | 大震災の中で


目覚まし代わりにタイマーセットしているFMから、
綾香の

「歩いて帰ろう」

が流れていた。カバーアルバム『遊音倶楽部』の一曲。

有名らしいのだが、全く知らなかった。
聞けば、あの『ゴールデンスランバー』のサウンドトラックを担当した斉藤和義の曲なのだという。

めちゃめちゃ気になって気になって、まず絢香のアルバム
『遊音倶楽部』
をダウンロード。

悪くない。
高評価と低評価が相半ばするのは、若いミュージシャンが出すカバーアルバムなら、評価が分かれるのは(大御所とはちがって)むしろ当然だ。私は素敵だと思った。

しかし、どうにもこうにもこの
「歩いて帰ろう」
が気になり、
斉藤和義の『コールデンデリシャス』という初期のベストアルバムをダウンロード。

今日一日、こればかり聴いていた。

今頃知ってごめんなさいって感じだが、いい感じである。90年代にこんなことをしてる人がいたという事実に、頑なな心が少しだけ溶けるような気がした。

「歌うたいのバラッド」とか「歩いて帰ろう」とか「君の顔が好きだ」とか、「幸福な朝食、退屈な夕食」とか。

そうね、絢香という歌手のこともよく知らないのだけれど、楽曲へのリスペクトを共有できれば彼女のアルバムとしての目的は達せられるんじゃないかな。




魂について(3)翻訳と習得ということ

2013年09月01日 15時13分15秒 | 大震災の中で
今日の「流行り」は
『語りえないものを語る』野矢茂樹
なので、それを読みながら魂について考えている(ことになってしまった)。

次の視点は
「翻訳と習得」
子供は言語を習得し、大人は言語を翻訳する。
翻訳の不可能性とかを言い立てる大人を尻目に、子どもはドンドン言語を「生きていく」だろう。

魂は前者ではなく、後者の側に親しい、ととりあえずいっておきたい。

魂とか神様は経験によっては直ちにたどり着くことが難しそうに(おとなには)見える。
そういう意味では不可視のモノあるいはこと、であって、経験超越的、でもある。
必ずしも抽象的、ではないが、虚構的、と大人ならば言うのかな?

だがそれは、
「おとな/子ども」
という区分だけでは括れない。

つまり、その理解とは「世界を生きること」に関わっているのだ。


魂について(2)眺望と相貌、の違い

2013年09月01日 14時30分35秒 | 大震災の中で

魂と神様の話しをするために、ちょっとだけ寄り道をしたい。

相貌と眺望の違いについて(『語りえぬものを語る』野矢茂樹P129~P130あたりを参照しつつ考えています)。
だ。

眺望は風景の見え具合だから、共通の対象を(見え方はどうあれ)見ていることになる。その上で語られる言葉は、はずれていたり共有できたりはするものの、見える範囲では検証が可能だ。
だが、ここでいう相貌、は違う。


相貌というのは、中からそう見えてくる感じ、直観的にそう分かる感じを前提とする。

「前提とする」という辺りがすでにして怪しいのだが(笑)、これはけっして、
「こういう見方に則って見るからそう見える」
という種類のことではない。
見方が前提されていたり、予め説明されているとそう見える、といった「説明」なり「説得」があってそうみえるわけではない。

まあ、どこかの宗教団体が布教のためにそういう「方法」をあみ出すことはあり得るかもしれないけれど、そういう話はしていない。

言い換えればそれは、

公理系ではなく、観点だ、ということ。

「立場αにおいて命題Aは真である」
は、
「ユークリッド幾何学においては三平方の定理は真である」
とは違う。
前者はある種のの公理系の選択だが、
後者は何かが前提されているというより、
それ自体が立場、立ち現れ、相貌、として立ち現れることを示している。
正しいか間違っているかを判断できる命題としては語られていないといってもいい。

だが、こういうことは命題としての意味がどうのこうのではなく、表現されてしまうし、そういう真偽判定のためではなく、表明されることを抜きに人間の表象(表現、といってもいいが)における営みを考えることはできないだろう。

これは真理相対主義みたいなことではない。

魂とか、神様とかは、
語られ方でいえばそういう「公理」ではなく「観点」、
対象としていえば目に見えて対象を同定できる「眺望」ではなく、内側から立ち上がる「相貌」
として直観するようなものだろう、ということだ。

まず準備段階の一つとして。


魂について(1)説明と説得とは違う、ということ。

2013年09月01日 12時52分09秒 | 大震災の中で
魂でも神様でも、いわゆる
「本当は」
ない、いない、ということになっているモノについて話をし始めるというのは、ちょっと常識に言いがかりをつけるところから始めることになる。

私も死んだ瞬間に魂が口からフワフワと出てくるとか思ったことはないし、雲の上にあたかも人間のような人格を持った神様がいるとか思ったこともない。

従って、そういう意味での魂や神様はいないという主張に同意する。

だが、では魂やら神様がいなくていいのか、いないと主張したいのか、というと、決してそうは思わない。

むしろ神様や魂はそこにいる。そう思える。

神様や魂が存在しない、とか声高にいう人の気が知れない。
あれだけ、おそらく千年以上人間たちが何らかの形でその存在を認めてきた神様や魂を、欠如させた思考は、おそらく十分に機能していないのではないか。 

そう思えてならないのだ。

じゃあ魂はあるのかないのか?
神様はいるのかいないのか?

その質問者を口にしてしまう人が納得するような、そして安心してしまうような答えは、私は絶対に口にするまい、と思う。

神様はいるに決まっている。
魂はあるに決まっている。

ただし、その言葉に見合った実質や本質がその言葉によって名指されるとはカギらない。つまり、言葉が直ちになにかの実質や本質を指し示すと思うなよな、ということだ。

でも、それでもなお、その言葉が発せられるだけの実質はそこにある。

それを説明したいのだ。

魂についての課題。

2013年09月01日 12時09分58秒 | 大震災の中で
Facebookで、人生の師匠からこんな宿題を出された。

師匠:

宿題
「魂とは、この世の中で、生命という「組合せ」によって自己展開し、なお生き続けようとする働き」、この部分、つまり「魂」とは何か小学生でもわかるよう簡単に説明せよ。

スピノザを読んでなるほど!と思ったことを、自分の中で起こっている出来事として捕まえてみるとどうなるか、って話なんですけどね。どうもうまく伝わらない。
もしかするとその「違和感」こそを共有したいんだけど、そうなると重要なのは「理解」それ自体ではなく、むしろ「イゴコチノワルサ」の共有に力点がかかってしまうんです。パフォーマンスとしてチカラヲソソグところが間違ってる状態に(笑)
そのあたり、考え抜くべき価値あり。


以下はそのやりとりの引用です。
忘れないようにメモメモ。

引用開始---------------
私:
ほんの少し前まで、物質が連動して「生命」を持ち、意識を保っていた「生き物」が、ある瞬間に次元を違え、「あっ」という間に単なるモノの組み合わせになっていく。
フロギストン(西洋近世に信じられていた可燃性原素。実際には存在しなかった)じゃないけれど、何かが変質した、ということがわかる。
だから、「魂」を実体と捉えるのは、神に人格を求めるように不適切な振る舞いだ。

人格を伴った魂というのは、「この」身体における組み合わせが自己展開する様態に付けられた仮の名前にすぎないだろう。

父親と飼い犬が物質に戻る瞬間を立て続けに身近な事件として経験すると、人生を肯定的に受け止めるようになった。

悲しみや憎しみには何の力もない、というスピノザのコトバが、胸に沁みてきます。

自然について改めて考えてみるるようになったのは、大震災と原発事故に、それらの体験が重なったからでした。

魂とは、この世の中で、生命という「組合せ」によって自己展開し、なお生き続けようとする働きのことでしょう。
ハイデッガーは、人間だけが「死」から生を捉えることができる、と言っていましたが、そういうふうに結論や結果から遡及して物事を考えると、どうしても人間は「死」とは別の「目的」を設定したくなってしまいます。
結果→原因
が、その遡及を続けることでむしろ
現実→(行動)→目的
となり、
そして次の瞬間には
目的→(拘束)→現実
という不自由をもたらしてしまう。

死ぬまで生きるっていうシンプルな生命の自己展開を踏まえて豊かに生きるには、
「目的」という「道具」
ではみすぼらしすぎる。
人格に収斂しない豊かさの波動を生きたいものです。

師匠:
私がコメント書いた直後に、魂の本質をついたこれだけの文章を書く脳みそってどんななんだ?でも、相変わらずわかりにくいところがあるなあ。そこで宿題、「魂とは、この世の中で、生命という「組合せ」によって自己展開し、なお生き続けようとする働き」、この部分、つまり「魂」とは何か小学生でもわかるよう簡単に説明せよ。


>「相変わらずわかりにくちところかあるなあ」
いつも、よく、言われます(苦笑)
先日勉強会をやったときも言われました。

自分の中の感触に忠実にコトバを絵筆のように使っていくと、ああなっちゃう。難しいコトバが好きなわけでもないのです。
ただ、今使われている言葉ではなかなか通じないことを言おうとはしているらしい、そのぐらいには見方が「ヘンテコリン」なのは分かっています。
でも、とくべつなことがいいたいわけではない。みんなそういうところで生きているんじゃないかな、っては思う。

だから時々言葉にしてみたくもなるのです。

しかし、震災以後、見知らぬ人にも発信していく、と決めたからには、
「分かる分かる」もしくは「おもしろいね」
というリアクションを求めて「会員」を募るだけでは足りないことも自覚しています。

宿題、受け取りました。
生きているうちに出来るかなあ。
引用終了-------------------


福島県選出の大臣ですよね?

2013年09月01日 10時43分14秒 | 大震災の中で
復興大臣ってどこの選出議員だっけ?
可能な限り低線量に抑える努力をするのがきほんじゃないの?

安全神話を進めていた国や有識者、電力会社への不信は、実は基準それ自体への懸念同様に大きな問題ではないか? 
その基準提示の姿勢それ自体に対して、「再帰的」に疑念と不信が高まっていくという課題への鈍感さを感じる。

謝罪と啓蒙と説得、だけではダメだと思うよ。

私たちはまず何よりも、今まで起こったことを見つめ直し、これからどう生きたいか、を共有しなければ。

100ミリ以下は大勢に影響ない、なんて福島出身の議員に言わせるシステムは、あんまり良くないんじゃないかな。
素朴な感想。




復興大臣「100ミリ以下の健康影響わずか」支援法基本方針
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node%2F1639


避難解除準備区域の中では線量の上がっている場所がある。

2013年08月26日 21時33分42秒 | 大震災の中で

避難解除準備区域に墓参りのため、一時帰宅した友人の言。
「まだ、原子炉から放射能は排出され続けているよ。以前は0.5?s/hだった墓の辺りも1.5?s/hになっていたし、家のところは3?s/hぐらいだったのが4?s/hを越えていたから」
海だけじゃないんですね。
ちなみに、彼の友人である町の職員は、「帰還に向けて20年30年スパンでの汚染の低減地図を作成しようとしているんだけど、値が「上がっている」ところがあって、確定できない」と認めている、とのこと。うむむ。

線量が上がっている場所があるのは間違いありません。彼は帰宅時にはいつも線量を測っていますから。
しかし、そういうことは伝えられて行かないのです。

また、市民の財産を没収するような形で帰還を断念させることは、法律的に自治体には出来ないのだ、とその職員の方は言っていたそうです。あくまで企業が起こした「汚染」ということでしかない、とも。

法律的なことは分からないけれど、「生殺し」「宙吊り」という声は避難者の中からも聞こえてきます。
特に線量の高い地域の、働き盛り30代から40代の方の声ですが。





伊坂幸太郎『死神の浮力』について書きました。

2013年08月26日 08時01分53秒 | 大震災の中で



伊坂幸太郎の新作長編『死神の浮力』をよみました。

メディア日記の下記に感想が。よろしかったら飛んでみてください。
『死神の浮力』を読んだ

柄の小さい小説である。
もちろん活劇もスリルもあるけれど、「人間」が主役ではない。
『オーデュポンの祈り』
以来、それは一貫している。
でも、また同時に、脇役の人間が愛しく見えてもくる。

オススメです。





東電広瀬社長の対談について(再掲)

2013年08月24日 06時12分05秒 | 大震災の中で
大前研一と東電広瀬社長の対談。


について書いたが、何の反応もない。
ちょっと不思議だ。
普段私のTweetやFacebookの投稿、このブログを読んでくださる方からは、大抵なんらかの反応がある。
スカイツリーの写真でも、『はだしのゲン』問題でも、汚染水流出でも。

哲学もどきの感想文は元々すぐに返事のあるベキモノでもない。

でもね、この大前研一と広瀬社長の一時間に及ぶ対談は、たとえくだらないとしても、あるいは重要すぎるとしても、何もリアクションがないのは端的に不思議なんです。

大前研一氏の声を聞いていられないのか?
広瀬社長のモゴモゴした謝罪を観ていられないのか?
観なくても分かり切っている、と感じるのか?
今更東電社長の言い訳YouTubeを1時間もかけて見るほどひまじゃない、のか?

あるいはあまりにも納得できるので同意すら必要じゃないのか?

これはどういうことなんだろう?
だってね、この腹話術的な二人=一人の擬似会話は、日本の謝罪表現史上特筆すべきへんてこりんさ、だと私は思うのです。

もう一度、オススメさせてください。

まさかリンクが切れてるとかいうオチはないよね?
20130824 06:09現在、飛べています(^_^;)




これを読んでいたら泣けてきた。

2013年08月23日 20時30分19秒 | 大震災の中で
夕食前でおなかがすいていたし、来週から仕事が本格的に始まるし、年もとったし、いろいろナイーブになっていたのかもしれない。

でもさ、松江市の『はだしのゲン』閉架問題に対する漫画家たちの発言をずっと重ねて読んでいたら、涙が流れてきた。

何度も言うけれど、『はだしのゲン』は絵柄が強すぎて個人的には苦手の部類に属する。
でも、これは読まれた上で議論される価値のある作品だと信じている。

表現の自由のみが「万能」だとは思わないが、読まれなければ批判さえできなくなってしまう。
しかも、多くの人(日本人だけでなく世界中の読者たち)に読み継がれてきた戦争表現の「古典」に近いものとして、これは子どもたちが自由に手にとって読めるものであるべきだ。

公共財でしょう、既に。


作品の価値がどうのこうのいう以前の論点を挙げれば、昨日まで数十年も読めていたものが読めなくなる、というのは、よほど強い理由が必要なんじゃないかな?
表現に対する制限は基本、最小限でいい、とするならば。



松江市の『はだしのゲン』閉架問題に関する漫画家のツィートまとめ。


http://matome.naver.jp/odai/2137665978160565901?&page=1

大前研一と東京電力の広瀬社長との対談。不思議なモノを観た。

2013年08月23日 03時05分21秒 | 大震災の中で
書きたいことは山ほどあるのだが、時間が足りない、と言い訳したくなる。
忙しいというより、つまらないことが多過ぎる。
もちろんその幾分かは自分の怠惰や、瑣末なしがらみ、不適切な好奇心などによって招き寄せた、いわば自業自得の状況、でもある。
さて、しかし、これだけは書いておきたい。

大前研一と東電広瀬社長の対談。

ぜひ閲覧されたし。
この「腹話術」みたいな取り合わせは一体なんだ?
誰か私に教えてほしい。
ぜひ感想プリーズ。ちと長いけどね。

http://r34.smp.ne.jp/u/No/322326/CJWs0gH7ci0D_138014/1308210010.html

でもね、本当に腹話術みたいなんだよ。
もちろんまずは広瀬社長が人形で、大前研一の話に全部(全部ですよ!)うなずくという、気持ち悪い展開。

住民?国民が反発するのは「当然だ」と、全ての反発を一旦肯定しつつ、それを「住民心理」に還元し、原発事故の原因を電源喪失に絞り込む。

そして福島の被害に頭を下げる姿勢と、原発再稼働の説得の姿勢を切り分ける。

相対的にはクリアな分析がそこにある。

東電がいかにダメか、を言い募りながら、社長の立場を忖度する(その結果として共感をジワジワ高める)言説も、よく考えてはある。

でも、説得はされないなあ。

大前研一のいう再稼働の条件をきちんと満たす政策は、今の政権や官僚からは出てこない。

また東京電力は権力の中心にあったのに、そのシステムの周縁部にいたかのような矮小化が時間をかけてレトリカルに進行するのにも違和感がある。むしろテクニックがある(説得力がある)ぶんだけ「警戒感」が出てくる。

知性はこういう風に使うものじゃないと思うよ。
再稼働ありき、なんだもん。二人とも結局ね。

ただし、これは少し手強い感じもする。
説得になってるもんね、単なる嘘じゃなくて。絶対安全だという神話を解体しなければならない、という主張は、半分は原発反対派と共通してたりするからね。

そのレベルで住民心理と技術論の両面から攻めていって神話解体後になおも際稼働を目指す、とは。

今必要なのは、住民心理への手当てじゃないだろう。

哲学、なかんづく倫理が今ほど求められている時はない、と改めて実感。

根本まで遡って原理的に考えたいのです。

私は
「悪いことは言わないから原発は止めておけ」
といいます。



「田人の森に遊ぶ ARTMEETING」再論

2013年08月13日 10時45分22秒 | 大震災の中で

一昨日(8/11)「田人の森に遊ぶ ARTMEETING」に行ってきたことは既に書いた。
このブログにも作品の写真(これ、アップしてもいいんですかね?白昼堂々公共の場に置いてあるものだから、まあいいかな、ということで載せてありますけど、まずかったらすぐ削除します!)を載せてある。


基本的にはとっても素敵で、楽しんで観させてもらった。
と同時に、何か批評も加えるべきか、とも思って、
facebookのコメントに、こんな印象を書いた。

「山の中に放置されているビニールゴミって感じ」
になっているものもあるから、そこはお金とか企画とかもう少し充実させていくといい。

ところが、二日経って少し印象が変わってきたので、そのことを改めて書き留めておきたい。

確かにその前日(8/10)に観た越後妻有「大地の芸術祭」のオブジェたちは、質量ともに豊富で、素材もしっかりしていて、その地域全域に広がっている。展示される場所や美術館も継続的なものになっていて、さすが2000年から続いている積み重ねを感じる。
しかし、妻有と今回の田人のアートミーティングと、自分の中でどちらが「記憶」の中でイメージを強く醸成してくれるか、というと、簡単には
決められない。

山の斜面に下草を刈っただけでポツネンと置かれているオブジェは正直寂しかったりもして、もうちょっと強いテーマとか補助線があったら映えるのにと思ったし、学校の校庭の雑草の中に置かれた作品も、もう少し目立つように置いたらいいのに、と思ったりもしたのだが、記憶の中でそれをもう一度今なぞり直すと、「田人の自然の中で遊ぶ」という響き合いは、むしろこの田人の作品群の方が、フラジャイルなというか、まさにサリエントな形で自分と繰り返し出会っているのかもしれない。

局所的に散在するサリエントな刺激たち、という意味では、放射能汚染を底に抱えた豊かな自然という田人の「今」と、作品たちのある種の「弱さ」とは、欠如ではなくむしろその「帯域」にチューニングされている、と見立てることもできそうだ。

むろん、イベントとして公開されるのであれば、もう少しシステムというか構造としての強度がほしいという印象はある。
せっかく地元の田人から発信するのだから、継続もしてほしいし、たくさんの人の「交通」する結節点にもなってほしい。

行政・政治とお金の問題、生活空間、仕事の空間をアート化するという或る意味素っ頓狂な振る舞いに対する説得と理解、イベントに伴う困難を考えると、本当に頭が下がる想いがする。

どうか、この「ARTMEETING」を続けていってほしい。
応援できることはしたいと思う。
そういうチャンネルもどんどん開いてほしい。
相互に「大切な」イベント同士の回路を開いていくことは、実践的な「政治」の力を持つことにもなるだろう。それを「政治」とか「権力」と手垢の付いた言葉で呼ぶのは、最初は躊躇われるかもしれないけれど、そういうことが大切なのかもしれない。

とりとめなく、でも、メモしておきます。




サリエンシーについて

2013年08月12日 21時40分15秒 | 大震災の中で
國分功一郎先生が
「サリエンシー、反復、習慣、そしてドゥルーズ」
という題で講演をしています。
(2012年11月11日一橋大学佐野書院にて実施されたシンポジウム「発達障害とサリエントな世界秩序」におけ塁基調講演。
中身は二分割で下記へ。

マトグロッソというサイトの、
熊谷晋一郎さんの、連続講演&シンポジウムの記録、第11回12回です。
http://matogrosso.jp/yuragu/yuragu-11.html

http://matogrosso.jp/yuragu/yuragu-12.html

これがすこぶるおもしろいのです。

熊谷晋一郎さんが発達障害と依存症について連続講演とシンポジウムを行っていて、そのゲストとして國分功一郎先生がドゥルーズをベースにしつつ精神分析と自閉症について論じています。

キーワードは「サリエンシー」。

慣れない刺激とか、不法侵入とかいう意味なんだそうです。
一方ではフロイト→ラカン→ドゥルーズという流れで精神分析における「自己」の発生を追い、他方では「サリエンシー」という現代医学のトピックについて丁寧に論じつつ、自閉症スペクトラムの診断がが10年で10倍になっている「現状」も踏まえつつポストフォーディズムの現代における課題にも触れ、原抑圧を想定しない人間の生き方の把握をを提案していく。
もう本当に楽しい限りです。
『ドゥルーズの哲学原理』の読解補助線としても参照の価値あり、でしょう。

ちょっと簡単に要約できないぐらい盛り沢山に面白い。
ぜひお読み下さいませ。
オススメです。