goo blog サービス終了のお知らせ 

龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

ARTMEETING2013 -田人の森に遊ぶ-に行ってきた。

2013年08月11日 23時38分27秒 | 大震災の中で
今日、
ARTMEETING2013 -田人の森に遊ぶ-
に行ってきました。

こういうイベントがなければ、田人の自然の中に足を運ぶことはありませんでした。
アートはそういう「異化作用」もあるということですねぇ。
他方、アートが田人の自然からエネルギーを貰って輝くということもあるのでしょう。
前者の効果は十分。後者については期待十分、というところでしょうか。

昨日、新潟の十日町の地域を中心に継続している芸術祭の「妻有地区」に行ってきました。こんなことが地元にもあったらいいな、と思って帰ってきたら、あるじゃないですか!
「妻有」もあそこまでくるのに13年かかっています。
いわき市民の一人として、この田人のARTMEETINGを応援していきたいです。







新潟県知事の判断は真っ当だ。

2013年07月30日 12時19分47秒 | 大震災の中で

インタビュー:再稼働議論は「福島の検証・総括が先決」=新潟県知事
という記事がロイターのサイトに

あった。
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTJE96S00720130729

真っ当な議論だと思う。
なぜなら、米どころ新潟が福島みたいになったら、取り返しのつかない国家的な損失だからだ。
福島と新潟を比較するのではない。
まさか起こるまいと考えていた事故が起こった福島とい現実を踏まえた議論をしよう、ということだ。
また、電力コストと、新潟の利害関係を比較して云々するのでもない。
エネルギーもお金も、どこからでも引っ張ってこれる。
土地に根ざしたものは、交換不可能な側面を持つ。
そういう非対称なものを考慮に入れつつ進まねばならない、という自覚に支えられたインタビューだから、真っ当なのだ。




岩波から新訳のアリストテレス全集が出る!

2013年07月29日 06時55分35秒 | 大震災の中で
読むことは考えること。答えを探すことではなく問いを引き受けてさらにそれを自分の中で進めて行くこと。
哲学を今こそ、っていえば本屋さんの惹句になってしまいますかね(^_^;)
でも、専門家の用語に閉じ込められた「厳密さ」ではなく、今ここでその問いを「厳密に」問い直すことこそが必要だっていうのは、別に今に限ったことではないでしょう。

考えるとはいつだってそういうもの、のはず。
楽しみです。

岩波書店からアリストテレス全集が出るそうです。
http://www.iwanami.co.jp/100th/kikaku/top4.html

広島市長のコメントに足りないもの。

2013年07月29日 06時32分46秒 | 大震災の中で



広島市長が「原爆と原発は違う」という趣旨で平和宣言にエネルギー政策を盛り込む、とインタビューに答えたそうだ。

詳細はこちら
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000599-san-soci&1374846214

なるほど、昨年の記念式典中も、反原発運動家が騒々しかった、とか、具体的迷惑もあったらしい。
この市長の姿勢についてコメントしておきたい。

以下は昨日友人のシェアに投稿したもの。
自己引用開始--------------------
昨夜、俺もこれ、シェアしようかと思った。
なんか平和記念式典でも原発反対運動の人が勝手に騒いでたし、みたいなことが記事で触れられてあったね。
私たちはこういう分断線を自分たちで作っていく「傾向」が確かにある。
でもね。
この広島市長のインタビューは、原発は戦争の道具だから「悪」原子力発電は平和利用だから「善」という、1950年代の亡霊を再度召喚するようなものだと個人的には思う。

広島市長のコメントとしてはいささか「今ひとつ残念」の 感があるね。
1950年代のハイデッガー的(『放下』)にいえば、「平和利用」こそが思考停止をもたらすという点で真に危険であり、そここそ熟慮すべき問題なんだけど。
引用終了---------------

もう一つ。原発にノーといえない日本ってなんなの?というコメントへの返事

引用開始---------------
村の談合以下、だね。私は山村の廃屋に3年間住んだことがあり、村の集会にも出たけれど、水路の水をいつ引き、いつせき止めるか、でナイフをテーブルに突き刺す(酔っ払ってからですが)ぐらいの「闇」の闘争はあったよ。だって稲の生育に直接関わる一大事だからね、水は。

ところが、今は「原爆」とか「原発」を語るのに、その「闇」と「暴力性」についてあまりにも言及されなすぎる。

原発と原爆は違うとか、そりゃ違うだろうさ。
んなことは小学生だってわかるよ。

もう少し、根底から考えぬこうという姿勢が必要なんじゃないかな、政治家なら。
意見を旗幟鮮明にすればいいってもんじゃない。

小学生の学級会だって今日びはもうちょっと深刻な対立について考えを深める、と思うなあ。
原発か原爆か、といった二分法を、広島市長が語ってしまうのには、私も失望しました。
二分法がいかんといっているのではなく、それで終わっちゃうと「分断」と「排除」と「忘却」が再生産されちゃうんじゃないの?ってことです。
引用終了---------------

よしんば本当に原爆はいかん、原発は必要、と考えているのだとしても、それならばむしろなおさら、単純な「脱原発原理主義」の人よりも、その闇と暴力性についてキチンと思考が届いているシグナルが必要なんじゃなかろうか。

もし仮に市長が本気で
「原爆の痕跡は残すべきだが、原発事故の痕跡は乗り越え、忘却すべきもの」
と考えているなら、むしろ私たちはそこにこそ深い絶望を感じなけれはならない。

まあ、福島に住む者としては、
「この汚染の現実とバランスし得る原発維持なんてあり得ない。それなのに、よりによって広島市長が言うかなあ」
という残念さを感じたということです。

政治家がプルトニウム保持による潜在的核保持能力の一環として原発サイクルを考えてきた、ってこともあるし。
違いに言及するだけでは不足、との印象は拭えなかった。




デカルトをずらし、ホッブズをずらしたスピノザ

2013年07月27日 13時31分43秒 | 大震災の中で
今、ホッブズを読んでいたら、腑に落ちたことがあるのでメモメモ。

知り合いのカントの専門家に
「スピノザってデカルトとどう違うの?同じでしょ」
と言われたことがある。なるほど、スピノザの「哲学」はデカルトから多くを負っている。

今日ホッブズを読んでいたら、ホッブズの専門家に
「スピノザの政治論ってホッブズでしょ」
と言われそうな気がしてきた。

ある部分は「時代」といって済まされないほどスピノザはその政治論の基礎をホッブズに負っていると感じる。

さて、ではなぜデカルトでもなくホッブズでもなく、スピノザに惹かれるのだろう、と改めて考えると、ホッブズにもかなり感じられる唯物的というか、取りつく島のなさというか、その根本にある「姿勢」がスピノザはより「徹底的」なのだ。
デカルトとの比較でもそうだ。
これはドゥルーズについて國分功一郎氏が指摘するところだけれど、
「超越論的な追究を始めたら、途中でやめるわけにはいかない」
という姿勢についての説明が、相当程度スピノザに当てはまるような気がしてならない。

その徹底性は、結果から遡及して原因にたどり着くようなタイプの思考ではない。
そういう遡及的な思考では「発生」を捉えることはできない。

その「転倒」を無限に遡るのではなく、テキストを読みかつ書く中で「再定義」するというか、ズラしながら、原テキストが求めつつ途中でやめた「問い」をさらにあたかも「自動機械」のように進めていくそのスピノザの「常温核融合」みたいなあっけなさ、が面白いのだ、と分かってくる。

神様の扱いなんても、人間の意識や意志の価値の切り下げ方にしても、スピノザはホッブズと近いテイストの場所にいる。
しかし、だからこそズレる瞬間があって、そこが「うひょっ!」となるのだ。

そこが「自然権」は手放せないとかいうスピノザの書簡の言葉になって現れたり、20世紀も半ばすぎに「マルチチュード」とかいって「再発見」されてしまったりする。

つまり、スピノザはテキストとしては一所懸命神の証明とかしているみたいだけれど、根本的に証明とは異質な場所にある。
というか、それだけで終わらない「裂け目」がある。

だから、神秘主義とか合理主義とか片付けられちゃうのに、片付けきれないのだろう。

その辺り、「むむむ」となる。

以上、メモメモでした。

トマス・ホッブズの『哲学言論』・『自然法および国家法の原理』を読む。

2013年07月27日 12時47分19秒 | 大震災の中で
本文は、科学的な部分を除いて超スピードで流し読みをしたことがあったのだが、今回、訳者でもあり、ホッブズの専門家でもある渡部秀和氏に
「訳者注解」
を読め!
と直接厳命厳命さらた(笑)ので、それを読みはじめた。

これは、メチャメチャ面白い!
このなんというか、即物的というか唯物的というか、17世紀においてキリスト教神学から解き放たれたリアルな自然像や人間像を渇望している、とでもいうか、時代の息吹を感じずにはいられない。

同じ時代というだけでは足りない。
前にもちょっと触れたが、スピノザの政治論の基本は、明らかにホッブズに多くを負っているのではないかなあ、と分かる。
上野修氏が指摘しているようなホッブズとスピノザの「自然権」とかについての違い、国家における「権力」の「発生」する現場とそのメカニズムの違いについては、これからゆっくり勉強していくんですけど、17世紀の哲学書はとにかく「読める」のです。
(國分功一郎先生に、ホッブズとスピノザの関係についてお尋ねしたら、「それはもう少しあとでね」と言われました。)

まあ、普通に勉強するならロックとかルソーとかって流れになるんだろうけれど、そういうのはあんまり興味の中心ではない(お勉強としては必要なんだろうけれど)。
ルソーについては東浩紀の『一般意志2.0』でちょっと出てきましたから、少しだけ勉強しましたが。

神様から解き放たれた17世紀をもう少し、読んで行きたいのだ。

ホッブズの神様の説明とか、面白いですよ。

盲目の人が、炎について知らなくても暖かさがわかるようなものだ

みたいなことを言ってます。まあ、一応第一動者(根本原因?)とかいろいろ言ってるけど、そんなものはどうせ分からん、と。
だから、みたいなね。
訳者注解にもあるように、とっても唯物的なあられもない捉え方をしています。

この「あられもない」感じってとっても気持ちがよくて、ホッブズを読んでいるとそこが奇妙に爽快になる。
訳がいいのかな。

ただ、「恐怖」が最も本質的な感情だとか、人がどうやって「集う」のか?また統一的な権力がどうやって生じるのか?
については、こちらの実感と直ちには一致しないものもあるので、この辺りは注意深く読む必要あり、かも。

スピノザを脇に並べて考えろってことになるのでしょう、私にとっての課題はね。




カゼで声が出なくなった。

2013年07月27日 09時30分19秒 | 大震災の中で
4年前(震災の前年)に一度、カゼが長引いているな、と思ったらいつのまにか声帯ポリープができていて、夏休みに手術をした。

それ以来、声がかすれてくると不安になる。
今回も、声の出なさ具合がその時に似ていて、単なる炎症なのかそうでないのかが気になっている。
とりあえず炎症を抑えるクスリを出してもらっているのだが、ちょっとドキドキだ。

考えてみれば私は人生の前半で既に、寡黙な人なら一生分になるぐらいの「のシャベリ」を喋ってしまっている。
だからもし声を失ったなら、仕事を辞めて今度は「読み書き」に徹しよう、と4年前も思ったし、今回もそんなことをふと、考えた。

国語教師が声を失っては、今までのような授業はできまい。
もっと若ければその困難を乗り越えるというチャレンジもありえるだろう。
でも、、あとわずか数年を残して「おじいさん」なりかけのくたびれた授業を、わざわざ工夫して生徒に届けるまでのこともなさそうだ……そんな風にも思う。

商売柄、声帯ポリープの経験者は同僚にも多く、「繰り返す」、という話も聞く。
今朝はカゼの症状がだいぶやわらいできた。
ここから二、三日興味しんしん、いや戦々恐々である。





『日々の新聞』の存在感

2013年07月27日 09時17分27秒 | 大震災の中で
いわき市には『日々の新聞』という隔週刊の新聞がある。

福島県には、県内をカバーする地方新聞が2社ある(そしてそれだけでも全国的には珍しい)のだが、いわき市には、『いわき民報』という夕刊紙があり、その他にこの
『日々の新聞』
が発行されている。

ホームページはここ。
『日々の新聞』
http://www.hibinoshinbun.com/


タウン情報誌なら、全国どこにでも溢れているが、これはちがう。

地元からの発信を粘り強く高いクオリティで続ける珍しい新聞だ。
たぶん、アメリカなんかだったら、こういう地方の小さな新聞社というのは、そこで腕を磨き、そこから配信された記事が全国紙に掲載されて、次第に大きなところで活躍するようになる、そういう記者を育てる場所であったりもするのだろう。
たとえば(記憶違いでなければ)、シュルツのピーナッツ(スヌーピー)の漫画もそういうちいさな地方新聞から全国紙に配信されるようになったはず。

小さな目の前のことをきちんと見つめ、思考し、発信しつづけていくことがいかに重要か、を私はこの新聞を読んで初めて体感したような気がする。

全国に宅配しています。よろしかったら一度購読してみてください。
特に、震災以後、全国でいわき市の声を継続的にウォッチできる貴重なメディアだと思いますよ。

ホームページはここ。
http://www.hibinoshinbun.com/


耕坊先生(山田耕一郎)の遺稿集が届いた。

2013年07月17日 14時33分31秒 | 大震災の中で
耕坊先生『ことばの足跡』 山田耕一郎遺稿集が届いた。

仕事の先輩でもあり上司でもあり、尊敬する人物、山田耕一郎氏が亡くなったのは震災後一年半のことだった。
橘高校の校長の時に癌を患いながらも、手術後無事に現場復帰を果たし、 退職後は、震災後の相馬市教育長として活躍しておられた。
激務を引き受けずに養生していればもう少し長生きができたのでは、とつい考えてしまうが、彼を知る人なら誰もが納得する生き方を貫いたというべきだろう。

式辞や祝辞を頼まれるとキチンと原稿を書いて臨む。
その原稿が残っていたのだそうだ。

正直一般に校長というのは、話し下手が多い。
それどころか、1000人近くの人を相手にして語ることの意義さえ理解しない輩すら散見される。
山田先生は丁寧に原稿を準備し、明確かつ簡潔に力強くメッセージを若者たちに送り続けた。
それだけでも無論尊敬すべき先輩だが、会議においても、事なかれの美辞麗句とは無縁の、的確な状況分析と権力?権能のありようとをしっかりと把握した上で、その会議の目指すところを過たず指し示した。
決して当たり前のことではない。
どれだけの困難を抱えつつその高い志を保ち続けたか。

政治を好んだ、というより、その闇を避けずに受け止める精神的な膂力があった、というべきだろう。
語られない沈黙の中に抱えた「孤独」を想像できる者なら、少なくてもその姿勢には共感せざるを得まい。

それでいて文学を語らせたら倦むところなく、校長室で文学談義が出来た。

そういう国語の校長は、稀だ。

もし彼がもう少し長生きしていたら、友人と相馬の御宅を強襲する段取りを考えてもいたのだが、果たせぬ望みになった。

そうはいっても、巻を開けば、そのページごとに少し嗄れた声の響きが甦る。
永く座右に置いて対話する縁としたい。








東電福島第一原発の視察で「再稼動」を言う経済界の傲慢を私は許しません、

2013年07月14日 14時59分28秒 | 大震災の中で
この国の上に立つ人たちは、あまりにひどくないか?
繰り返すけど、これはあんまりじゃないか?

候補者や政党の話、選挙の動向を見聞していて、こりゃあ大変だな、と思った。
その決定打がこの記事。

「原発 どうしても必要」 同友会代表幹事、福島第1視察

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130714-00000083-san-bus_all&1373764528

 経済同友会の長谷川閑史(やすちか)代表幹事らは13日、
廃炉に向けた作業が続く東京電力の福島第1原子力発電所を
視察して、こんなことをいってました。


引用開始----
長谷川氏は「逆風の中で、多くの方が使命感で取り組んでいるのは日本の強み。経済再生やエネルギーの安定供給には、原発がどうしても必要だ」と所員らを激励した。
----引用終了

事故後の福島の状況の深刻さを踏まえて議論がなされるのかと思いきや、頑張っているから再稼働を、という話だ。

私はこの考え方に「賛同できない」。
15万人近くが未だに避難しつづけており、かつ最近のトピックについていえば海際の地下水汚染(そしてその向こう側にある海洋汚染)!の状況も掴めない段階で、日本を代表する経済界の代表が、わざわざ福島県まで来た挙句に、再稼動優先のコメントを堂々と出すとはなかなか信じ難いし、冷静に受け止めるのが難しかった。

それとも、今はもう、日本人の多くが、経済界の代表だからこのぐらいのコメントは当然だ、みたいに考えているのだろうか?
もっといえば、日本ではもはや多くの人が再稼動に賛成なのだろうか?

だんだんオレは日本がわからなくなって来たよ。

もちろん私は原発の再稼動をやめておいた方がいい、と考えています。
それは、このあり得ない規模の汚染と被害、避難の現状をみてきた結果の、揺るがない結論です。

しかし、この結論は、簡単には他者とと共有しにくい事柄なのだろうか。
少なくても、私にとっては当然すぎることが、経済界を代表する人にはちっとも当然ではない。

子どもじみた感想かもしれないけれど、15万人程度の生活を踏みにじって平気な国は、天安門事件を起こした中国を笑えないと思う。

たしかに日本では何処かの党の人がいったように、この事故では直接的に何万人とかは死んではいませんよ。直ちには、ね。
でもさ、15万人の生活を奪うことは、大したコストじゃない、って方向性はどうかと思うよ。

第一原発の収束に向けて命をかけている方々の使命感を再稼動に結びつけるのもどうかと思うし。

かなり絶望的な気持ちになっています。
みんなはこういうコメントを聴いても別に平気なのかなあ。

私はかなり何かの限界と向き合っているような気持ちになりつつありますけど。

だったらどれほどの大変な事態が起これば再稼動を断念できるんだろうか?
分からない。
夏場のエアコンの電気と、福島のような場所の子供の未来との取引って、どうなんだろう。
日本国の一人一人に聞いて回りたい気分です。

彼らは、なりふり構わずやり始めたな、というのがとりあえずの現状認識だけどね。


ガンジーの言葉

2013年07月12日 20時41分31秒 | 大震災の中で
ガンジーのこの言葉を白井聡氏が『永続敗戦論』で引用している。

そのことを書いた3月のブログに、藤本ひろ子さんがコメントを寄せてくださった。



>藤本ひろ子 : ガンジーの言葉を私も論文に引用しています。
>白井氏のように若い方の存在が、絶望的な風潮の中での灯です。
>もっと灯を高く!ヘレンケラー

ちなみにガンジーの言葉はこちら。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
ガンジー


大震災と原発事故から2年以上過ぎた今行われようとする選挙で、このガンジーの言葉を自分に言い聞かせなければならないことは、とても「幸福」だとはいえない。
だが、自分自身でこの身体を伴った思考を続けなければ、という思いはいっそう強い。
そのことは幸不幸の別ではなく、生きることの感触を自分に与えてくれる。
あきらめないよ。

「悪いことは言わないから、原発は止めておけ」
再稼働を願う立地自治体周辺の人たちに、簡単には届かないかもしれないけれど、伝えておきたい。


週末はデカルトを読もう。

2013年07月06日 02時12分11秒 | 大震災の中で
大学入試の国語評論を読んでいると、もうここ20年ぐらい(小林秀雄が主役でなくなってから、といってもいい。今年センターでカムバックしましたけどね)、
「近代の見直し」
が定番だった。

(何を今更、と言われてしまうだろうか。でも、福島の原発事故とその後の経過は、本当に日本の「近代」ってなんだったんだろう、と考えさせられるのですよ。)

まあ、それは別としても、いわゆる「デカルト=ニュートン」的近代合理主義・科学主義の「限界」みたいな話は当然の前提になってきた。

でも、17世紀のスピノザ哲学に関心を持ち、その視点からデカルト・ホッブズを考え直そうとすると、これはこれでなかなか興味深いところがある。

まず、デカルトについて言えば、私の最大の関心事の一つである「神様問題」をもう一度ゆっくり考えてみるには、とりあえずデカルトを読み直してみる必要があるということだ。

次に、国家と権力の問題について考えるとき、ホッブズを抜きには考えられない、のだが、これはもう少し後の宿題。

いずれもスピノザが影響を受けた哲学者だ、ということが一番なんですが。

で、『方法序説』を先日手に取ってみたら、これが本当に読みやすい。
一般(当時のフランス語が読める女性まで対象として考えていたらしい)向けに書かれているため、「へー、そうなんだあ」と自習監督の1時間でおおかた読了してしまった。

これ、基本教養なんでしょうが、もちろん「基本教養書」なんてものを若い時に系統立てて読んだだりした経験、あるわけがないので、55歳にしてやっとぼちぼちそんなことをやり直しています。

老後の準備ですね(笑)。

調子にのって今晩は『省察』と『哲学原理』を。

もちろん、補助線は一年間講義を受けた國分功一郎氏の「スピノザ入門」。
この講座は、実のところデカルト入門でもあったのだと、改めてデカルトを読んでいて感じます。

福島大学の倫理の小野原先生が「スピノザって結局デカルトでしょ。どこが違うの?」と言っていた意味も分かってくる。

そういえば「近いから『違う!』ってなるんですよ」と國分せんせも言っていた。

デカルトのコギト論は「明晰判明」なモノを求めるという近代哲学の祖としてすばらしい成果だったが、それはまだ「途中だ」と國分せんせは言うのですね。

無限遡及を続けていくのではなく、「発生」を問うこと。
結果から原因を遡及して求める方法では、たどりつかないことがある。
そういうところからスピノザは自分の哲学を離陸させていった、と國分せんせは『知性改善論』を論じ、『デカルトの哲学原理』(スピノザ)を論じながら、あたかも『ドゥルーズの哲学原理』の中で、ドゥルーズが哲学者たちの思考=問いを限界まで押し広げていく(と國分センセが語る)ように、先生自身がスピノザのテキストの中を分け入っていくんですが、私はそこまではまだよく分かってはいません。

ここは、『スピノザの方法』の続編、國分功一郎の『エチカ』論を俟たねばなりませんね。
神様問題の扱い方です。
まあ、「神の存在証明なんてできっこないさ、いないんだからね」っていう、いわゆる我々の現代における常識からすれば、スコラもデカルトもライプニッツもスピノザも、まだ「進化」しておらず、神様なんてものにかかずらわっていた「時代の制約」の中にいた、とも言っていえないことはないけれど、それじゃたぶん端的につまらない。むしろ、なぜ1000年も1500年もそれをやり続けられたか、ってことの方が面白そうだ。

とにかくただ、デカルトが何と向き合っていたのか、どんな「問い」を問うていたのかを読んでみよう、という姿勢で読んでみると、意外に面白くなってきたのです。

(この、哲学は答えではなく問いを読むのだ、って感じは、『ドゥルーズの哲学原理』(國分功一郎)前半の肝、なんですが、とっても便利な「構え」だと思います。けっこう流用可能のような気がしますよ。)

できれば、デカルトの向き合っていた「問い」の対象を幾分かでも理解しつつ、それをずらしながら二元論から一元論へ「脱構築」していく、というスピノザ像を改めて考えてみたいって話なんです。

他方、ちくま学芸文庫の『省察』『哲学原理』の訳者である山田弘明先生が書いているように、中世スコラ哲学との距離というか関係というか、デカルトのスコラ哲学に対するスタンス、というところも興味深い。

これはとうてい手に負えないから、せめて匂いだけでもかいでおこうという話。
中世スコラ哲学って、なんか現代から観るととても不思議で、魅力的なんですよねえ。

さて、久しぶりに腰を痛めて家に籠もる週末、軽いミステリーと交互にデカルトを読むのが楽しみです。
感想は後刻。

腰を痛めた。

2013年07月03日 00時23分30秒 | 大震災の中で
先週は親戚のお葬式があって、少し忙しかった。
一段落ついて、二日ぐらいしたら、今度は腰が痛くなってきた。

まだ寝込むほどではないが、「あの前兆」といえば経験した方は「あああれね」と納得してくださるかもしれない。

あの腰のあたりに「ざわざわ」というか「びりっ」というか、嫌な感触がわだかまってきている。

昔、一生分の怒りを一度に放出したとおぼしき瞬間があって、そのときは背骨から腰にかけて電気がビリビリと走ったような感触があり、腰が痛くなった。

今日TV(クローズアップ現代)で腰痛の主因はストレス、みたいな番組をやっていたが、うなずける。
もちろん、腰をかがめたまま重いモノを持っていわゆる「ぎっくり腰」になることはある。
しかし、重いモノなど持っていないのに、腰が痛くなることは確かにあって、老化といえばなるほど小学生の時は腰痛など無縁だったのだから、老化なのかもしれないが、どうもストレスが大きく関係しているというのは実感として納得できる。

しばらくはおとなしくしていなければいけない、とも思うが、周囲の筋力が弱ると今度はそれがいけない、とも言われそうだ。

結局、年が関係してくるのはこのあたりからだ。
若い時は無理も利いたし、回復する幅も広い。
年をとると、無理はできないし、普通に無事な運動ができる範囲が狭まってくる。

多少やり過ぎても若者なら大丈夫なのに、年寄りはそれが自らの身を壊す遠因になりかねない。
かといって、刺激を与えなくては体も心も確実に衰えていく。

年をとるに従って、やれることの下限と上限が狭くなって、バランスをとり続けるためには、身体の精緻なコントロールが必要になってくるのだ。
自分の自覚で足りなければ薬を飲む必要も出てくる。

そして、その、運動・体力・精神の間で取り得る幅が狭まって一点に収斂すると、それが「お迎え」ということになるのだろう。

体力の低空飛行が始まったら、できる範囲で無理なく続けることが以前以上に重要になる。

コントロールされた振る舞いこそが、年寄りの美学=必然性ということか。
やれやれ。
今まで「多動児」として生きてきた直球勝負から、コントロールされた変化球勝負に、常に打席に立ち、ぶんぶん振り回していたレギュラーから、
たまに代打で打席に立つ助っ人に、と勝負の場所の幅が狭くなっていくのだ。

それを自覚した上で、何ができるか。
とりあえず、一度に眠れる時間が短くなったことは間違いない。休憩さえ、休み休み取らなくてはならないとは(笑)!

しかし、これが笑い事ではないんだなあ。