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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

今日、全国で唯一の特定秘密保護法案の公聴会が福島で開かれた

2013年11月25日 23時19分48秒 | 大震災の中で
出席者の一人桜の聖母短大の二瓶先生に伺ったところ、出席した人全員が特定秘密保護法案に反対だったという。


原発事故だけでは足りず、「守る」ためにはどんなものを失ってもいい、という「縮減」の道を政府はたどり始めたように感じるのは私だけだろうか。
チカラを得て強権を発動しているように見えるけれど(もしかすると主観的にはそうなのかもしれないけれど)、実際は何かを守ろうとしてたちすくみ、縮こまっていく「端緒」に立ち合っているように見えてしまう。

さて、他方、在日中国大使館は、在日中の中国人に対して、緊急事態に備えて連絡先を登録するよう呼びかけたという。
それも含めてブラフかもしれないし、しかし一つ一つの積み重ねで緊張状態は高まりもする。


人は攻める時よりも、何かを守ろうとしたとき、強迫的行動に出ることが多い。
政党・政府・国家レベルでそういう「縮減」が、度を超えて転がり出さないでほしいものだ。

無論、杞憂ならそれに超したことはないのだが。

福島県で改選された地方自治体の首長が、次々に敗北している。
これもまた、新しいものを求める、といえば聞こえはいいが、「閉塞感」を底流に持った「縮減」の一形態ではないか、と本当に心配になる。

つまり、本質的に動くものは、動きすぎない。

守ろうとうする「縮減」の圏域に捕捉された者こそが過剰に動き出してしまう。
政治家さんたち、お願いだからそんな田吾作の下手を打たないでね。

『生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない』(ジル・ドゥルーズ)

を全面展開した千葉さんのドゥルーズ論、彼らに読んでほしいなあ。

ま、無理なんだけどさ。




久しぶりの一人暮らし

2013年11月21日 09時35分34秒 | 大震災の中で
今日はたまさかの一人暮らしで、朝からコインランドリーにて洗濯物を乾燥機にかけました。

昨夜干す根性がなかった。

買い物をしてから夕飯を作り、洗い物と洗濯をして風呂をセット。居眠り1時間の後辛うじて入浴し、朝起きてゴミを出し、コーヒーを入れて朝食を台所で食べ、洗濯物をビニール袋に入れてコインランドリーに立ち寄る。
仕上がりを待ちながらパソコンを見ている単身赴任?(横浜ナンバー)のお兄ちゃんの横で、朝のニュースとメールをチェックしてから出動。

単身赴任の時はそんなことが当たり前の日常だったけれど、久しぶりにやると非常に忙しいような気になる。

でも、自己の生活をコントロールしているという満足の感情も強くなるね。

掃除した時と一緒で。

こういう日常の繰り返しの安定は必要不可欠だけれど、この満足だけで一息ついてもいられないんだよねえ。

たとえは。

アマゾンから本が届くと、それを裁断してPDFファイルにするのが日課になった。もはや本棚が溢れないし、床にも本が流出することがない。これはこれで革命的だ。

でも。

いつの間にかタブレット端末が本を吸い込んでしまい、私はタブレット端末を育てるために「朝食」を作っている親みたいなことになっていやしないか、と不安にもなるのである。

もちろん、本のまま積んでおいた以前の方が、裁断して電子化するようになった最近よりずっと読む冊数が多かった、とかいうわけじゃない。

整理することが自然にできない散らかった行動になりがちな自分だからこそ、整理する行為はかなり自覚的にやらねばならない。
そしてそれを意識して完遂すると、どうしても満足してしまうわけです。

で、何が悪いんだ。
みんな大人はそうしてるだろう?

うん、別に悪かないんですがね。

そういうのって、個人的には大層な成果なので、むしろアディクションしちゃうんですよ。

ダイエットが軌道に乗るときとかもそう。

こういう自己コントロール感覚、というのは、ちょうどいい感じで収めるのが意外と難しいのです。

ま、普段だらしない日常に慣れてしまっているからそんなことがいえるんですけどね。





ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む(1)

2013年11月13日 01時42分43秒 | 大震災の中で
ベンヤミン、文庫のコレクションは持ってるけど、正直どう読めばいいのか分からない(歯が立たない)文章が多くて、複製芸術~とパサージュ論(岩波の文庫)を読んだぐらいであとは積ん読だった。

ところが、昨日、Facebookのグループでチャットめいたやりとりをしていたら、一人が飲みながら

「ベンヤミンが難しい」

とかつぶやいた。
もう一人も(たぶん飲みながら)、細見和之『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』は何度読んでもいい、とかいいつつ

「しかし私見を述べるのはためらわれる」

とかつぶやきかえした。
私は〆切を過ぎた原稿を抱え、しらふで苦しんでいたが、

「そうだよ!知ってるよ!」

と改めて思って、でもなんだか悔しくて、締切原稿逃避のため、ベンヤミンコレクション(ちくま文庫)第1巻目の最初
『言語一般および人間の言語について』
を読み返しはじめた。

やっぱり言語・精神・人間とか、それこそ固有語法(イディオム)的な表現が多くて、イライラさせられる。とくにこれは言語論なのに(たぶん……)、言語という表現がある種おまじないのように使われていて、本当に読めるのに分からない状態になる。

だが、このベンヤミンの「固有語法」とでも言うべきものを「音楽」のように受け止めてみると、全くちがった景色が立ち上がる。

つまり、私にとってそれはスピノザ的な神様に関わることなのだが、あたかもそのスピノザ的世界像と響き合わせられるところがあるかのように感じ始めることになるのだ。


つまり、ベンヤミンのテキストは、おそらく読み手のそういうところに「触れる」んだろう。

最初は読解できない、ある種の「拒み」を感じるのに、あたかも立体映像が見えてきた時のように、、ある瞬間、そのもどかしさが、むしろ「欠如」を浮き彫りにするというか、「神様」を示すマジックワードとして、読めてしまう次元に誘われていくのだ。。

テキストの欲望を映し出すテキスト。
読者の「私」がむしろ映し出されてしまいかねないような。

彼のテキストが指し示すかに見えるその指し示しの身振りに、たやすく「名付け」を与えることはできない。
テキスト自身がそう言っているのにも関わらず、読者は「主体」を演じてしまいかねない。

これは面白いが、難しい。

細見和之の本が届いたけれど、その前に、自分の中のスピノザの「表現」について考えながらこの本を読んでおきたい、と思った。
とりあえず、この言語論だけでも向かってみるとしよう。


エチカ福島第3回セミナー開催のお知らせ

2013年11月12日 20時00分04秒 | 大震災の中で
高橋哲哉先生、佐藤和夫先生を福島にお迎えして、「原発事故は日本社会を変えたか?」をテーマに、充実の4時間。
お二人の発表・対談に加えて、いつものように先生方、フロアのみなさん、エチカ福島のメンバー、全員で討論の時間を十分に取る予定です。
詳細は下記フライヤーをご覧ください。
何が疑問があれば、ここにコメントいただいてもオッケーです。



カゴメが福島県産と銘打ったジュースを販売開始。ありがたい。

2013年11月12日 19時14分01秒 | 大震災の中で
カゴメが、福島県産と銘打ったトマトジュースを販売開始する。
詳細は下記サイトまで。
http://www.kagome.co.jp/company/news/2013/11/001571.html

震災直後に、契約継続をしないと報じられた時には、不買したい(もともと買っていないものは不買も実質できなかったですが)、と考えました。
無力な状況にある福島県民に対する「追い打ち」と感じられたからです。
あのときにうけたショックそれ自体に対する思いについては、今もそれを訂正するつもりはありません。

しかし、その後継続して契約農家とカゴメ(株)が協力した研究の結果、福島県産を表明した製品販売まで至ったというその姿勢は、とてもありがたいものだと感じます。
発売になったらわたしも買うつもりです。

ここにも書きましたが、震災直後に店を開いてくれたスーパーが地元にあって、私はそのスーパーからしか買い物をしなくなりました。
震災直後にどんな姿勢を表明し、どんな態度を取ったかは、大きくその後を左右すると思います。

カゴメ(株)についていえば、2011年4月上旬の時点で農協・県と協議している最中に、契約中止の報道だけが先行してしまった、との指摘を後日コメントでいただきました。

震災後、何もできない無力な状況におかれていた時は、情報如何によってこちらの心が大きく動きます。
どんな信号が発せられるかこそが重要だ、と改めて感じました。
と同時に、どれだけ粘り強く行動・姿勢を続けられるか、が大事だとも。
後者においてカゴメ(株)さんの支援に深く感謝したいと思います。

さてでは、自分に何ができるか。何をすべきか。
震災から3年弱。改めて問われることですね。





『イギリス近代史講義』川北稔、面白い!

2013年10月13日 09時04分24秒 | 大震災の中で
歴史って、やっぱりメチャメチャ面白いじゃないですか!
と感じさせてくれる一冊。
今ようやく植民地のところまで話が進んだところですが、霧が晴れてくる思いがします。

ヒュームとかターナーとかホッブズとか、この本もそうだけれど、イギリスづいてる。
先週飲んだ英語屋の友人も、
「100年後には間違いなく、この我々が生きている今のことを、後世の歴史家たちは、アングロ・サクソンの時代って呼ぶよ」
なんていってた。

そういうお勉強としてもいいし、もっと簡単な話、
日本の中の福島がなぜ「東京の植民地」だなんて言われるのか、そのロジックを手探りするにも役に立ってしまいそうだ(^_^;)。

別のイギリス系研究者の知り合いは
「アングロ・サクソンは、ファシズムに行かなかった。これは確かなんだよ」
という形で、別の意味の参照点を示している。

いうまでもなく、そこに「解答」があるわけではない。
そうではなくて、

「十分に問われ尽くしていない、しゃぶり尽くすべき問い」

がそこにある、ということだろう。
イギリス恐るべし。っていうか、それは国のことなのか?みたいな話から例によって始まるから「まったくもう」ってなるけどね(笑)

そう、「国」とかが自明じゃないからこそ、の参照点、ってことでもあるかも。

私の子供の頃は
「イギリスも日本も島国で」
とか言われていた。なんと素朴な「地政学」!

この本を読んでたら、「日英同盟」を一度じっくりイギリスの側から見ておきたくなった。
いろいろ興味深いです。
オススメ!






吉田修一『横道世之介』を読み始めた。

2013年10月13日 08時36分04秒 | 大震災の中で
吉田修一『横道世之介』について、メディア日記「龍の尾亭」に書きました。

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980448

いわゆるバブル世代の青春小説です。
私の頃の青春小説といえば、
小学校→中学校では北杜夫。
中学校→高校では庄司薫。

『アルキメデスは手を汚さない』小峰元とかもあった。
大学に入ってから以後は
『風の歌を聴け』の村上春樹
『個人的な体験』の大江健三郎
『69』の村上龍
といったところ。
黒井千次『春の道標』なんてのもありましたね。

『横道世之介』吉田修一

は、その本棚に間違いなく置かれる一冊。

青春小説って、その本性上「こっぱずかしい」ところがあって、だから読んだからと言って誰かとその本について話をするなどという間抜けなことは出来なかった。そうこうしている間に、気がつくと「青春」自体がほぼ死語に近くなる。

でも同時に、「青春小説」は、そう簡単に息の根が止まることはないのだろう、とも思う。
なぜなら、「青春」はカテゴリーだけど、「青春小説」はなんだかんだいっても「表現」だから。

バブル世代ではなくても、とりあえず「男の子」にはオススメの一冊。
「青春小説」については女の子のジャンルなのかどうかさえ、わかりません。
私の中の女の子にとっての「青春小説」は、
「バナナブレッドのプディング」大島弓子
とかの、少女漫画に尽きているもので(リアルタイムとしては)


あ、ちなみに「私の中の女の子にとっての」とは、
私の中で想定する「女の子」概念
ではなく、
「私の中で生きられている『女の子』」にとっての
ということです。


<<拡散希望>>【第3回エチカ福島開催のご案内】

2013年10月11日 07時04分53秒 | 大震災の中で
<<拡散希望!!>>【エチカ福島第3回セミナー開催のご案内】

福島の仲間たちと企画して立ち上げた団体です。
活動目的は、3.11以後に福島からしか立ち上がらないエチカ=倫理を、各分野で活躍される知識人を招きながら、聴衆も巻き込んで討議を行うセミナーの開催です。
講師のお二人は研究の最先端をゆく哲学者です。
ぜひ、多くの方々にご参加いただければ幸いです。

【開催日時】 12月21日(土)13:00~17:00
【テーマ】「社会を変える/社会が変わることへの哲学的探究―原発事故は日本社会を変えたか?―」
【講師】 佐藤和夫先生(千葉大学名誉教授・哲学・アーレント研究・ジェンダー研究など)
      高橋哲哉先生(東京大学教授・哲学・デリダ研究・戦後責任論・記憶論など)
【タイムスケジュール】  
1.開会―エチカ福島とは― 13:00~13:05
2.第3回テーマの趣旨説明(渡部) ~13:15 
3.高橋哲哉 先生 70分 ~14:25
  10分休憩
4.佐藤和夫 先生 70分 ~15:45
  10分休憩
5.佐藤―高橋の対談30分 ~16:15
6.会場との討議 45分 ~17:00
7.閉会 17:00

(場所は決定し次第改めてながします)


9/20に「結婚」がテーマの哲カフェふくしまに参加した。

2013年10月06日 23時11分57秒 | 大震災の中で

「結婚」についてなんて最近考えたことがなかったから、いい思考の運動になった。
ただ、制度としての「結婚」はさておき、個人的には男女を問わず継続的に「つがい」として(セクシャルな)関係を保とうとする場合のパターンは、それこそ無数にある。

だから、そのパターンを挙げていくだけでも大変、というか。これはとてもじゃないけど1回の哲カフェじゃ収まらないと思う。哲カフェふくしま史上最大の参加人数だったのもうなずける。

個人的にはそんなに興味を引く主題ではなかったが。

あとはその「制度」に乗る(婚姻届を出す)、ことの意義、かなあ。
これは現行制度が日本だと一種類だから、話としてはわかりやすい。

お話の中で、それが結婚なのかどうか、異性なのか同性なのか、は別として

「パートナーがほしい」

という意見が出て、私としてはそれが一番納得だった。
ただし、ファシリテーターもあとでつぶやいていたけれど、結婚は「性的」な意味もあるから、友達が一つ屋根の下(じゃなくてもいいんだけど)に住むこととは違う。

いや、夫婦は日本の場合よく言われることとして、どんどん「性的」な意味合いが希薄化していったりもするんですがね。

「パートナー」

ってなんだろう?
「対(つい)、番い(つがい)、相手、ライバル、仲間、友人、共同体(三人以上も可?)……」

一対一、一対多、多対一、多対多

組み合わせはいろいろある。
でも、漠然とながら、気の合った相手、というのと結婚相手とは違うような気が(私は)している。

全く他者や社会の存在しない中で、二人で過ごすならいざしらず、社会の中に生きる他者と「生活」なり「人生」なりを共にする以上、職場でも親でも近所でも、相手の友人でもいいけれど、さまざまな関係性の網の目をある安定性というか継続性というか固定性を前提として「共に生きる」ことを選択するってのが、一般的に「結婚」には含意されているといえようか。

好きだから一緒にいるんだったら、好きじゃなくなったら別れればいい。
それだけのことだ。
あえて、制度としての結婚にコミットするからには、それ以外の動機が必要だし、また必ずある。

子どもを産み育てる、というのは、男女の好悪に基づくセックスの延長線上にあるが、好きか嫌いか、とは別次元のことになる。だって、子どもは「天与」のものだからね。人間が「天与」として二人に授かるっていう生物システムは、動物でありながら同時にいろいろ複雑な社会を営む人間でもある私たちにとって、勝手にそのへんで「雑婚」したりするってわけにも行きにくくなるのも事実。

そんなこんなで、一夫一婦制は経済的・制度的にも便利なので、単なる性的関係に止まらず、それが個人の側から求められていたりもするのだろう。

今の婚姻制度はいろいろ変わっていくのだろうし。

だから、個人が互いにパートナーを選ぶというのは、ことの半面に過ぎない。
自分の気持ちを越えて、それよりも大事なものがある、と共に社会に向けて宣言し、イノセントな子どもであることを放棄して、社会的網の目に「つがい」として参加していくことが、とりあえずは「結婚」なのだろう、と思っている。

むろん、そんなことを自覚的にやる必要もない。だから、「子どもができたから結婚しようか」となるのも当たり前だ。

さてだが、別に子育ての問題だけなら、シングルマザーやシングルファザーが雇用とか住居とか養育費とかの経済的手当ができていれば、今の結婚形態を取らなくても別にかまわない、ともいえる。
だいたい、そんなに継続的に相手を好きでいるとは限らないし、自分の好悪の選択を越えて相手と継続的にパートナーシップを結ぶ契約が結婚ではあるとしても、合意破棄もまた、本人の選択である以上、イヤになったらやめればいい、ともいえる。
だが、それでも、ハードルを設定しておくことは、無意味ではない。それは社会の側からの要請、ととりあえずは言っておいてもかまわないのかもしれないが、結婚の「門」はやっぱりそこにあったりして、それは私たちがお正月を祝わずには居られないこととも無関係ではないかもしれない。

文節化と共=身体(個人でもなく集団でもなく)の関係は、やはり自明であるように見えて謎だね。







ヘイトスピーチについての判決が明日言い渡し。

2013年10月06日 22時48分52秒 | 大震災の中で

ヤフーニュースによれば、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131005-00000019-mai-soci

---引用開始---
2009年12月に京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)の校門前で街頭宣伝をした「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の元メンバーらを相手取り、学校を運営する京都朝鮮学園(京都市右京区)が、学校の半径200メートル以内での街宣禁止と計3000万円の損害賠償を求めた民事裁判の判決が7日、京都地裁(橋詰均裁判長)で言い渡される。
---引用終了---

もちろん判決は具体的な個別の事情によるが、ヘイトスピーチは、「顔が見えない」ことばである限りにおいて、よろしくないと個人的には思う。

この件については、今日読んだ

『「自分の子どもが殺されても同じことがいえるのか」と叫ぶ人に訊きたい』森達也

の本に全面的に同意したい。

エチカは、この表題のカギ括弧の中に語られるような抽象的・記号的・仮言的なところから立ち上がりはしない。
こんなところから立ち上がるのはせいぜい「正義」という幻想どまりだ。

そして、幻想エンジンを積んだ止めどなき「正義」ほど、恐ろしいものはない。

エチカ(倫理)は、想像力によって支えられてはならない。
私はきわめて個人的にそう、考えている。

「私だったら?」

と考える訓練は必要だし、そのことによって脳にシステムをインプットしていくことはむしろ強制してでもなされるべき局面はあると思う。

だが、そんなことで他者を糾弾したり、共同体を糾合しようとするのは、沙汰の限りだ。

では、エチカ(倫理)は、どのようにして「共有」され得るというのか?
決定的な答えを私はまだ得ていないし、生きている間にそれを手にすることができるのかどうかも正直覚束ない。

でも、あえて話をしておくなら、想定された「人間」像によって他者を縛るのではなく、私たちがよりよく生きる力に基づいて生きることから始まる必要がある。

ヘイトスピーチは、単純に世界を縮減する「相貌(顔つき)」しか持たない言葉だ。

だから、それはよりよく生きる力に基づかない。何かを守ろうとしているのは分かる。
そして、その何かを守るためなら、積極的「排除」をも厭わない、という姿勢が見える。

だが、それは自分自身を潜在的に「排除」するロジックさえも、孕んでいくのではないか?そういう危惧を持つ。
つまりは、その程度「想像力」はむしろ共同体を縮減させるキケンを孕み、その結果、原理的には中にいる人をも潜在的に排除する志向を持つ。

それは、中にいる人をも「よりよく生きる力」に結びつかない。

私はそう、考える。
だから、ヘイトスピーチには反対。

おためごかしをいって、甘言を弄しながらその実、人をおとしめる言葉の方がましだ、とは思わない。
ヘイトスピーチだけに悪意を感じるのは、それもまた自分の姿勢を「縮減する」きけんがある、とも思うけどね。


リニア新幹線の無駄は、それだけの話では終わらない。

2013年09月25日 11時00分15秒 | 大震災の中で
高速増殖炉も、エネルギーの対外依存を打ち破る夢のエネルギーと言われていました。
別にそれがウソだったというわけではない。全てが思い通りうまく行きさえすれば、ね。
しかし、大きな光は大きな闇を産む。
光を言い立てるだけの言葉は、闇を言い募ることと同じだけの力しか持たない。
そして機密保全法案は、再び世界を光と闇に分けようとしている。
いまだに「自然権」の基盤が薄氷の如き日本で。

東京新聞9月25日
本音のコラム
文芸評論家 齋藤美奈子さん

リニア新幹線 わずか1時間短縮するために国土を破壊
原発建設への道を連想してしまう。

もちろん、情報をどう使って行くか私自身もまた、問われている、と思います。
流通しすぎても困るけれど、届かない声はとりあえず存在しないように見える。
その辺りをどうすればいいのやら。


Untitled

2013年09月22日 22時01分48秒 | 大震災の中で
昨日の「エチカ福島」勉強会の内容を、深瀬氏がまとめてくれました。
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昨日は、1時からエチカ福島の仲間とゲストとの勉強会、4時からはエチカの同人でもある純ちゃんらが主催する哲カフェ福島。勉強会は、小学校教員でありホッブズ研究でも知られるHさんと、エチカ仲間の島貫さんのレポート。面白かった。Hさんと島貫さんのレポートは、一方は日本の近代啓蒙的知識人たちに対するポストモダンと称する人々からの批判は有効か、といういささか大き過ぎるテーマであり、他方は根源悪についての本をオリジナルなテクストであるカントを参照しながら読むという、クロスするとは思えない2つのレポートであったが、驚くべきことにシンクロしてしまった。
Hさんのいう、発見的合理性という概念は面白い。かつてウェーバーは、近代をもたらしたものが、目的的合理性であり倫理性だと言った。目的的合理性については近代科学を参照すれば納得がいくが、倫理性に関しては何とプロテスタントの禁欲的精神に淵源するとしている。カルヴァンの予定説は、人間の自由意思を明確に否定するものだ。全ては予定されておりそれを人間が変更する余地はない。仕事は神が与えた言わば天職であって人間に許されるのはそれを全力で全うすることだけだ。このような、言ってみれば不合理が、科学的合理性と出会うことによって近代は誕生したというのである。

一方カントは、悪とは選択意志の結果によるとし、その責任を、あくまでも自由を持った人間に帰そうとする。しかし、それはその都度の事案に関しての選択ではなく、一般的な格率として人間が選んだ結果だというのだ。僕にはここにカントの苦心があると思える。つまり、前もって動機ないし目的があって僕たちは行為するのではなく、行為した後に目的が確認されるということを言いたいのではないか。人間が自由に選択した後に、驚くべきことに普遍的な格率であった!あたかも人間を超えた存在がいるかのようではないか!人間が理性的な存在であるのは、神の存在から説明するのではなくて、あくまでも人間の選択意志から出発したい、偏執狂的にそこにこだわるカントにとって、合理性は目的的ではなく、発見的であると言えるのではないか。合理性は発見されるべきものである。僕たちが理性的であるのは僕たちが自由意志によって選択された結果ではありえない。しかしながら、僕たちに、選択した結果に関する責任を負わせるためにはどうすればいいのか。カントの腐心はそこにある。
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同じ17世紀の哲学者スピノザを読んでいても、この「発見的合理性」というキーワードは響いてくるように思われます。
スピノザは『エチカ』において認識を三段階に分けます。
一つ目は、慣習的な判断で迷信や偏見にとらわれたもの。
二つ目は理性的な認識。
三つ目に直観的認識を置くのです。
この三つ目の「直観」と、ホッブズの読み手である渡部さん(最初の報告者)の指摘する「発見的理性」は、これから突き合わせて考えてみる価値がある、と感じます。

啓蒙的計画的な合理性だけでは世界と向き合うことにならない。

有意義な勉強会になりました。



震災前のメモが出てきた。

2013年09月20日 03時08分43秒 | 大震災の中で

日付は2011年2月24日。
震災まで二週間、父の入院まであと4日という時のメモだ。

今は取り壊されて存在しない校舎の二階から外階段で降りて帰るときの話である。
遠い国の夢のような話に思える。

あの日を境にして、大きく変わったのだなぁ、と改めてしみじみ。

震災前後のメールは貴重な記録です。

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夕方、二階から外階段を下に降りようとして表にでると、懐かしい匂いがした。

甘やかな、柔らかい春の女神の香りである。

気がつけば今日はもう雨水。
寒い寒いといって、コートの襟を立てていたのが嘘のようだ。
あんなに大雪があったのも、ついこの間なのに……。

それにしてもこの春風の甘い匂いは、どこからくるのだろう?
湿度?それとも温度?それとも花粉のにおい?

それがなにからくるのかは分からないけれど、子供の頃から知っている。
行ってきまーす、といって家の扉を開け、外に飛び出した瞬間に感じる季節の変化。「今日から春だ」と、子どもごころに独り決めする日が確かに存在していた。
最近、この国の将来を憂える言説には日々事欠かないけれど、胸一杯風を吸い込むだけでこんなに豊かになれるとしたら、私たちはもう少しゆっくり歩いたり考えたりしてもいいのかもしれない。

*雨水(うすい)=寒さが緩み草木が芽吹く季節。



オープンカーを手放した。

2013年09月19日 22時54分29秒 | 大震災の中で
こんなに早くロードスターを手放す時期が来るとは思わなかった。
人生の喜びの何分の一かを終えてしまったような気さえする。

何を大げさな、ですよね。

でも、この5年間がいかに至福の時だったか、ということをしみじみと、かつさびしくかみしめている。

クルマには屋根の開くものと開かないものの二種類しかない、ということを初めて教えてくれた。

愛車、なんて死語なのは知っているし、「モノは所詮モノ」だと思っていたのに、そうじゃなかったんだ、と知らせてくれたのがロードスターだった。

ハンドルを切って曲がるだけであんなに楽しいなんて。

今乗っているレガシィワゴンに不満があるわけじゃない。
4駆だし、ボクサーエンジンは滑らかだし、アイサイトは高速のロングツーリングにはマストアイテムだと実感もしている。
ハンドルを切ってみれば、下手くそな私が運転する
ロードスターよりよほど楽に速く曲がれる。
週末を1000キロ単位で走るには、かなりイイ。荷物も積み放題だ。4駆で雨&雪も安心だし。

でも、ロードスターのようには寄り添えない。

次のオーナーにいささか嫉妬さえ覚える(笑)

かみさんがレガシィ乗ってくれればいいのになあ……。