風 雑記

建築とその周辺で感じたこと、思ったこと

MY ARCHITECT

2006-05-28 18:49:58 | インポート

1_11 2_10 昨日夕食を済ませ、市電で新市街の電気館へ映画を見に行きました。見た映画のタイトルは「MY ARCHITECT」建築家ルイス・カーンに興味のある人にとってはチョット気になる映画です。(写真左ソーク生物学研究所、右キンベル美術館)

ルイス・カーンは現代の建築に今も影響を及ぼしている20世紀を代表するアメリカの建築家です。1974年インドからの帰りペンシルヴェニア駅で心臓発作で亡くなり、身元不明で3日間死体安置所に置かれていた有名な話があります。享年73歳その当時11才の息子が25年後父の建築を訪れ、関係した人達から建築や人となりを聞く映画です。少し驚くのは彼は61才の時の子供です。ルイス・カーンには正妻と他に2人の女性(彼の設計を手伝っていた)がいてそれぞれに子供が一人づつ居ます。その3人の年老いた女性が出てきますが、彼女達は今も彼を愛していることが伝わってきます。そしてルイス・カーンは彼女達を愛する以上に深く建築を愛してたように見えます。

Photo_59 バングラディシュ国会議事堂でのシーンでは地元の建築家が「家族には苦労が多かったかも知れないが、カーンはこの世界で最も貧しい我国の文化や人々を愛し、最高の建築を造ってくれた」と眼を潤ませながら言います。駅で亡くなった時、彼は破産状態に近かったそうです。建築家として作品が認められたのが50歳の時で作品数は多くありませんが、ソーク生物学研究所以外は全て赤字だったそうです。キンベル美術館も予算の倍以上だったと言われていますし、良い建築は採算性を考えていたら造れないと言う事かもしれません。我事務所も自慢は出来ませんが、半分くらいは*字なのでカーンにチョット近づけているのかもデス。


出水の住宅

2006-05-21 19:57:25 | インポート

1_10 Photo_58 この住まいは25年程前勤務時代に設計担当をさせて頂いた建て主の熊本市での住まい(設計 志賀設計-福岡)です。熊本市外に医院+住宅を設計しましたので、その後しばらく貸家となり、今は息子さんが住まわれています。今日はメンテナンスで気になる処があったので久しぶりに見に来ました。

25年前この住まいを見た時はちょっとショックを受けました。漆喰塗りの軒の深い和瓦寄棟のデザインは存在感があり、内部はトップライトから光が注ぐ中庭的なスペースを中心に各室が繋がり、和とも洋が融合して魅力的な空間でした。当時最も人気の高かった建築家白井晟一を連想させました。

白井晟一の文章 「豆腐」に「・・もし豆腐に美ありとするならば、体系を持って直接生活にとけている「用」の美同一の如きものと考えるより他ない。それは用に対して、永続性ある普遍な信頼が予想されることによって、このような善における美同一が考えられる。・・・」なんとなく解ったような解らない文ですが、木枠で成型され、包丁で厚薄縦横に裁断される豆腐の形に、日本人独特の「用」と「美」があると言っているような。この出水の住宅のシンプルですが、奥の深い空間に何となく通じるものを感じたのを思い出します。

久しぶり読みましたが、最近の建築環境の中では日本の伝統や美を語るのは似合わなくなったようで淋しい気もします。


あがた森魚 20世紀漂流記

2006-05-12 21:27:47 | インポート

Photo_57 2_9 先週の土曜日、フジテレビの「僕らの音楽」(音楽の筆字部分を白楽と読み違えてましたが)を見ていたら、元ちとせがゲストで復帰アルバムから数曲歌ったのですが、その中にあがた森魚(もりお)のガバー曲があり、彼とデュエットで歌いました。久しぶりのあがた森魚さんとの再会でした。(多分20年ぶりくらいかな 年を重ねいい雰囲気が出てました)

よく知っているのは「赤色エレジー」と「最後のダンスステップ」くらいで、記憶としては大正ロマンやタンゴ調で個性的なシンガーだと思ってたくらいでしたが、元ちとせと一緒に歌った「百合コレクション」は素敵な歌でした。もう一度聞きたくなり、それからレンタル店やCDショップを探しましたが、あまりにメジャーでないのか見つかりません。しかたなくインターネットで探して取寄せました。

今日宅配で届き今聞いています。懐かしい曲もありますが、ベストアルバムでもあり数曲とても気に入りました。その中に「いとしの第六惑星」と言う曲があります。夜の星空をイメージさせるような曲なのですが、歌詞を聞いていると「かえりたくない かえりたくない 同じことばをしゃべるとこへは かえりたくない....」そして「熊本 南熊本 水前寺 龍田口 三里木原水 肥後大津 瀬田 立野駅 のりかえ 長陽 阿蘇下田 あとは 夜峰の岳」と続きます。これは!何! 豊肥線から南阿蘇鉄道に乗り換えてて、「かえりたくない..」あがたさん熊本に好きな人(熊本弁の?)が居たのかなと思う内容の歌詞ですが、しかしあまりにストレートに駅名が続いています。

でも変にチョット嬉しく、熊本の夜空に満天の星が拡がっているようで好きな曲でした。


モードパウラス記念館

2006-05-02 23:17:05 | インポート

Photo_54 Photo_55 2_8 我家の南側には社会福祉法人「慈愛園」があります。一万坪の広い敷地の中に教会、子供ホームや乳児施設、老人ホーム、幼稚園などが点在し、園路は土のままで様々な樹木や花に囲まれ、一昔前に戻ったような懐かしさがあります。(ポニーが飼われ、ニワトリがウロウロしています)

写真は本部建物で、ここを創設されたモードパウラス記念館(宣教師館)でもあり、登録文化財として申請書類作成の為、設計図の整備と現況調査、写真撮影に行きました。当初の設計図(青図-全体が青で線が白い図面)も残っていて、文字は全て英語なので設計者は米国の人のようです。実測すると微妙に食い違いもあり、現場で使い勝手に合わせ変更されたのだと思います。外壁は厚吹きのモルタルスタッコ調、木製網戸は横に折れ上下する珍しい仕組みですが、傷みも激しく動かすと壊れそうです。築80年程経ていますが1階は事務室、2階は資料展示室で、部分的補修は必要ですが建物自体はまだ数十年使い続けることが可能です。

モードパウラス女史はアメリカのノースカロライナに生まれ、10才の時父を無くし、母と一男八女の生活は皆で支えあう大変な暮らしだったようです。11才の時日本からの伝道の便りを読み「宣教師として日本へ行きたい」と願う様になり、資格を取って熊本に来られています。この神水の地を中心に、恵まれない子供達や人身売買された女性の保護など社会福祉15施設つくられ、全国優良社会事業施設12ヶ所の一つとして昭和天皇も行幸されています。1959年70歳の時宣教師を辞めアメリカに戻られています。私が神水に越してきたのが1968年なので、10年程前アメリカに戻られていることになります。越してきたクリスマスの夜、ロウソクを持って園内を廻られている灯りの列を見て、初めてキリスト教の施設なんだと思ったのを記憶しています。

Photo_56 写真は6年前設計したエスターホーム(子供ホーム)です。急に子供ホームを建替えなければならないと古い子供ホームを壊して造り直す依頼でしたが、特徴のあるデザインであり、70年経た建物が無くなれば慈愛園の歴史がまた一つ消えてしまうとの思い、無理にデザインの再生をお願いしました。そのままの保存や再生も模索しましたが、建物内容と合わずデザインの再生としました。古い瓦を下ろし以前のデザインに忠実に新築し直し、同じ瓦で再度屋根を葺きました。本部(パウラス記念館)と旧子供ホームが並ぶ風景に「ここらはなーんも変わっとらんね」と言ってもらえれば...ヨカッタ!なのですが。