徳富旧邸の復旧工事は2020年4月から始まりました。熊本地震のあった2016年4月16日から4年後になります。
徳富記念館(RC造3階建て)は地震後も開館してましたが、復旧工事に入り敷地全体が休館することになりました。
徳富旧邸は配置図上(西側)河川の間に隣接地の進入通路があり、軒先が越境していました。
今回の復旧工事で1.3M東側に建物位置を移動させる事と旧邸下を地震による断層が走り、基礎補強(コンクリートベタ基礎)が必要でした。
古い建物の移動は既存木構造をそのままの状態で、揚屋、曳家する方が建物の保存には良く、当初の復旧方針もその方向で検討していました。
工事着工し、屋根瓦下し、土壁、天井、畳などを取り外して、建物の骨組や状態を確認して行きます。
部材は全て番号札をつけて、仮小屋などに保管します。
部分毎に取外しを進めていくと、徳富旧邸は3つの建物の集合体で夫々の構造は切り離され、簡易な根太受けや垂木受けでつながっていることが解りました。
特に江戸期の建物と思われる北側母屋は曲がり梁が多く使われ、材も細く仕口も複雑になっていました。
長年の間に改修が繰り返された痕跡が多く見つかり、特に中央の和室(9)は東、西、、南、北の開口位置が全て変更されていました。
畳、根太を取り外していくと、床下の土が柔らかく、不陸が多いこと、大引、根太材に敷居の転用や削った柱材などが使われていました。
不思議に思っていたのですが、調べるとこの地域は昭和29年6月26日の熊本大水害で水深2.0Mの被害記録が残っています。
水害後、建物内の流入土が全て除去できず、床は畳や根太、大引などにも被害が及んで修理、復旧する必要があった思います。
熊本市内全域に水害被害が及び修理する木材も手に入り難かったと想像出来ます。
多くの柱根元の劣化や改造痕が多々有る事も水害の被害を考えると頷けます。
木造軸組の状態にしてみて、このまま揚屋、曳家するのは、建物を持ち上げた下で基礎コンクリートの施工、束石、敷石の調査、再据付の作業は危険すぎる
と思いました。施工者は一度解体し、部材の繕い、補強をして再組立てすることで、安全に基礎工事、束石、敷石の据付工事をしたいとの意見でした。
木構造の脆弱さと改造痕の多さから、監理者としても解体修理が適していると判断に至りました。
北側母屋と2階て部分は解体修理とし、南側は明治天皇行在所移築部は主要構造部は補強の上クレーンで吊り上げ、元に戻すことにしました。
(写真上)母屋の梁の交差部に高さ調整の木材が挟み込まれ、桁の交差部にも高さ調整と思われる木材が挟み込まれていました。
あまり見たことが無い仕口ですが、ある意味曲がり梁(捻じれたSの字)を上手に組み、材を挟んで高さ調整するなど当時の木架構の自由さも感じられました。
上部建物の解体後は、束石、敷石の調査を行いました。土に埋もれた敷石も見つかり、それに番号札を仮付けし、墨を打ち、全て別の場所に保管します。
熊本市で遺跡調査と断層調査(活断層と判明)を行いました。
補強用のコンクリート基礎を施工し、束石、敷石を元の位置に据え直していきます。
母屋部分は全て束石立で、2階建て部分は大きな敷石300mm×300mmが並べられ、明治天皇行在所移築部の敷石は200mm×100mm程度と小さめでした。
その為コンクリート基礎高さは3段にレベル差を付けで施工しました。
現場施工と並行し、土壁の材料を準備します。土は和水町の工場で練り込み、現場に運び土置き場を設けて一年ほど寝かせます。
和水町の工場での土練り
その間2度、藁スサを加えながら練り返しを行います。土の臭いはほぼ「ドブの臭い」です。
仕上の漆喰の材料も貝灰、ツノマタ、スサを混ぜ込み、しばらく寝かせておきます。
藁スサ混入の練り直し 漆喰材料の練り合わせ
これから、解体材の繕いや軸組の組直しに入って行きます。
長くなったので、次回にご紹介します。