風 雑記

建築とその周辺で感じたこと、思ったこと

東京06.14-16

2019-06-19 18:03:38 | 日記

5年ぶり東京を訪れました。目的は3つ、東京に居る次男と会い住んでいるところを見てくること、2つ目は以前設計した住宅の10年点検、3つ目はICU(国際基督教大学)でのヴォーリズ建築文化ネットワークの講演会と建物見学です。

14日は時間があったので青山から原宿経由し渋谷まで歩き、その後お茶の水に行きました。隈研吾設計の国立競技場(木のルーバーがチープに感じたのは私だけ?)を見て、表参道(沿道のスチール腰掛に外人を含む多くの人が鈴なりに座っていて、平日と思えないほど人が多かった。明治通りとの交差点角のビルは23才の時丹下健三&ウルテックを半年手伝ってたビルで当時のままでしたが、あの頃の落ち着いた原宿とは別の街です)、代々木競技場(丹下健三設計)は外部改修中で足場が掛かり、建物の形状に合っているところが面白い。

今回、ヴォーリズ関係の用事もあり、「山の上ホテル」に宿泊したいと思ってましたが、4月~11月まで全面改修の為宿泊不可。「山の上ホテル」は大学時代良く見かけた記憶が...と思っていましたが、写真(上)手前の建物が日大理工学部8号館で、大学4年間、週に3回は屋上でスキー部のトレーニング場所。「あれ!隣り?いつも塔の部分を見てたのか」とあまりの曖昧な記憶に苦笑い。次宿泊したいと思います。

15日は生憎の雨天。友人と武蔵境駅で落ち合い、ICU(国際基督教大学)へ、正門側は渋滞が酷く、タクシーの運転手が気を利かせてくれ、細い住宅街の道から裏門に案内してくれました。鬱蒼とした森に囲まれた広大なキャンパスで、建物相互も広く伸びやかで恵まれた環境です。5分程歩いて会場のデュフェンドルファー記念東棟の講演会場に着き、会場はほぼ満員で山形先生の解説とICUの先生の講演を聞きました。

ICUの本館は元々は旧中島飛行機三鷹研究所(戦闘機「隼」の研究所)をヴォーリズが大学校舎にコンバージョンしたものです。現在も全ての授業を本館で全て行っているとの事です。

ヴォーリズはICUの建学に強い思い入れがあったそうで、1949年顧問建築家に専任された時、目に涙をうかべながら「私が日本で四十年にわたり建築に携わってきた経験は、この偉大な大学を建てるという仕事のために神様が私に与えてくださった準備であったのだと感じております」と語ったそうです。

ヴォーリズはYMCA精神のもと宣教活動をして、個々のキリスト教宗派を超えた宣教を生涯貫いてます。、国際基督教大学は彼のミッションの集大成との思いがあったのでしょう。ICUの為アメリカへ行き募金集めも行ってますが、当時敵国だった日本での大学設立には募金集めも困難を極めたようです。資材のインフレもあり、本館は旧軍事施設のコンバージョンで対応せざる得ず、予算も厳しかったようです。

ヴォーリズ事務所で手掛けたデュフェンドルファー記念館(1958)、シーベリー記念礼拝堂(1958)はコンクリート打ち放しのモダニズム建築で建てられています。東京事務所が設計を担当したとの事ですが、戦前の親しみやすく温かみを感じるヴォーリズ建築とは少し異なる印象です。ヴォーリズ事務所のスタッフもコルビジェやミース・ファン・デル・ローエのモダニズム建築の影響を強く受けていたと思いました。

シーベリー記念礼拝堂

1957年ヴォーリズはクモ膜下出血で倒れます。デュッフェルドルファー記念館、シーベリー記念館の竣工は見れてないことになります。戦時中「一柳米来留」と改性日本に帰化して日本に留まりますが、軽井沢での暮らしは厳しく体力の衰えもあったようです。そんな中、戦後の復活を象徴するICUは大切な大学であり仕事だったと思います。

ヴォーリズが倒れ、1959年アントニン・レーモンドがICUの顧問建築家に就任します。ICUとはヴォーリズとの絆は彼の個人的魅力と熱い信仰心だったのかもしれません。

その後はレーモンド事務所、前川事務所、日建設計、隈研吾などの建築が建てられ、神戸女学院大学や関西学院大学のような統一された雰囲気とは全く異なり、好き勝手な建物が乱立している感じで、ヴォーリズの描いたキャンパス計画とは全く異なるでしょう。

ただ、ICU(国際基督教大学)を見ることが出来たのは、W・M・ヴォーリズ氏の生涯を知る上で貴重だと思いました。最近出版された吉田与志也氏の「信仰と建築の冒険」には戦前のヴォーリズの活動が良くこんな資料が残っていたと思う程詳しく書かれています。

ICUを見ながらヴォーリズの最後の思いが形として実らなかったことが残念でした。


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