風 雑記

建築とその周辺で感じたこと、思ったこと

徳富旧邸(徳富蘇峰・蘆花)01

2022-04-08 10:53:00 | 日記

  

夏目漱石内坪井旧居と同時に徳富旧邸の熊本地震の災害調査、復旧図面作成、災害復旧工事の調査報告書作成、工事監理に携わりました。

 

徳富家

明治3年に父徳富一敬が熊本藩の民生局大属に任命され、水俣市から熊本に移り住みます。徳富家は代々水俣で惣庄屋と代官を兼ねる家柄でした。

この徳富旧邸は父一敬と徳富蘇峰が一緒に私塾「大江義塾」を創設した建物です。

 

熊本洋学校

明治4年に熊本洋学校が開校、教師としてアメリカから元軍人のジェーンズ氏が招聘され、教育を行います。

全寮制で授業は全て英語で行われ、英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物と幅広い授業が行われ、成績が悪いとすぐ退学と言う厳しいものでした。

自主性を重んじる教育のもと多彩な人材を輩出し、明治7年には日本で初めての男女共学も行い、蘇峰の二人の姉も入学しています。

徳富蘇峰は明治5年に一度入学しますが、年少(10、11才)の為退学させられ、明治8年に再入学しています。

熊本洋学校では授業とは別に放課後、キリスト教の新約、旧約聖書を読む集まりがあり、藩政の解体で忠誠の対象を失った青年たちに新しい目標を与えます。

明治9年1月30日、35名が自主的にキリスト教を広める奉教趣意書に署名し花岡山で盟約を交わします。この集まりが後に「熊本バンド」と呼ばれます。

この集まりに対する守旧派の反発と共に明治新政府に対する士族の反乱「神風連の乱」(明治9年10月)が起こり、洋学校も閉鎖になります。

 

同志社英学校

青年たちは京都の同志社英学校(新島襄)に転校し、同志社の中で大きな位置を占めるようになります。

ジェーンズの元で一般教養課程を学び、厳しい教育を受けたことで、青年たちは英語で討論出来る程の語学力持って成績も優秀だったことから

「特異な存在」として宣教師から「熊本バンド」と呼ばれました。

その後、青年たちは牧師、教職、官公史、政治家などで活躍し、日本YMCAの設立にも関与しています。

 

大江義塾

徳富蘇峰は学生騒動の影響で同志社を卒業間際で退学し、東京に行き新聞記者を志しますが志しかなわず、明治14年に帰熊します。

新島襄とは師弟以上の関係が続き、新島襄の薦めもあり、明治15年大江村のこの地で、父一敬と私塾「大江義塾」を開設し、

英学、歴史、政治学、経済学の講義を行い青年たちの啓蒙に努めます。

ただ、明治16年頃徴兵制改正により塾生が激減し、大江義塾も存続も厳しくなります。その時励まそうとして送られたのが「カタルパの種」です。

徳富旧邸の庭には新島襄から送られたカタルパの種から育った木が毎年5月に白い花を咲かせます。

 

 

東京に移り住む

明治19年に家族全員で東京へ移り住み、徳富蘇峰は明治から昭和戦後期にかけての日本ジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家として活躍します。

徳富旧邸は姉婿の川田氏に譲られ、昭和37年に熊本市に寄贈されて現在に至ります。

 

徳富旧邸と熊本地震

建物は主要な東側母屋(大江義塾として使われた)は江戸期には建っていたと思われます。

明治5年に2階建て部分と、その南側に明治天皇行在所(実際に使用されなかった厠部分)を移築されています。

100年以上の歳月の中で間取りの改修なども行われ、木構造自体も改造跡が多く残っていました。

2016年4月の熊本地震では、揺れによる建物自体が傾き、余震による倒壊防止対策として外部からはサポート、内部は開口部すべてに木の仮筋交いで補強されました。

 

 

2017年11月から2018年3月まで地震被害調査と復旧図面作成、2020年4月から2022年3月まで2年間の復旧工事の工事監理と調査報告書作成を行いました。

復旧工事の詳細については次のブログで紹介します。


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