例えば。
受験生は「現在」を犠牲にして「未来」のために勉強を強いられる。
僕らはそうだった。
現在を犠牲にした上で、どうなるかも分からない未来へ向けて勉強した。
そもそも小さい頃、未来の絵を描いたときに車は浮いていて、チューブみたいな道路がロケットみたいなビルの合間を縦横無尽に…
宇宙服みたいなペロンとした服を着てた。
謎の電波を頭から出したりしながら。
2020年なんてのは、そんな未来だった。
でも実際にはガタボコの道がまだまだあるし、僕の工場なんてのはドアの立て付けが悪く鍵の開け閉めにもコツがいる。
車は相変わらずタイヤが四つ。
服もほぼ変わらずのファッションだし、なんなら20年以上同じ靴を履いてたりする。
あの頃、授業で描いた絵とは程遠いわけなのである。
想像を裏切る形ですげぇ未来化したことも多いけど。
だれも未来などが分からない。
さらにパンデミックということで手洗いやうがい、マスクしろ、人と会うななんていう未来は想像すらしてなかったわけです。
館山が財布を無くしたと言った。
心中は分からんけども、慌てても仕方がない。
「年の瀬に気前のいいことだね。」
と笑いとばし、
「いいも悪いも、思った通りになんてならないから大丈夫だよ。タテちゃん。」
そのように言ってたら本当に出てきた。
どんなこともそう。
思った通りになんてならないし、なってない。
未来を憂いて不安にならず。
未来に期待し過ぎて現在を犠牲にもせず。
一度しか生きられない僕たちに、正しい生き方とかこうあるべきだという生き方とかなんてない。
こうしなければいけないだとか、こうするべきだとか、こう生きるべきだなんていう型は全部捨ててしまおう。
戦いは型を覚えても勝てない。
型通りにはいかない。
死ぬ直前に人生をふりかえり、色々間違ったけどやりきった!と思える人でありたい。
歳を重ねても子どもみたいに一つのことに夢中になれる人でありたい。
周りの人を振り回しちゃうかもしれないけれど、不思議とそんな人は愛されている。
子どもは器用に出来ないことが多いけれど、だからこそ愛される。
器用じゃないから愛される。
出来ないことを恥とも思わず、出来なくても愛されていた自分の良さや「無鉄砲」という武器は最強だったなと思い出そう。
出来ないことをごまかしたり、嘘をついたり、泥棒のような仕事をしたり。
そんな大人のふりをするならば、子どものままでいいや。
近所に青山さんという方がいる。
新潟には山口さんがいる。
2人とも僕の恩人で、尊敬する人は?と聞かれたらこの2人がダントツ。
この2人は、大人だと思う。