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再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (29)

2018年02月20日 07時04分54秒 | 島嶼諸国

   再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (29)

 

   結 び―フィジー移民失敗の顛末―(1)

   移民に応募した人々が交わした契約証にあるように、主食として支給されたコメは、日本人が好む白米で、移民にも何よりのご馳走だった。

   1日当たり2封度(ポンド)、大凡(おおよそ)6合(1合は150g)の白米が支給されていたとすれば、彼らは白米以外に支給が約束されていた副食品が支給されなくとも我慢できたのではないかと考えられる。

   白米1ポンドは約453グラムであるから、1日2ポンドの支給で906グラムの白米のご飯を食べる計算になる。

   一人「白米1日6合」は、当時の軍隊の兵食の量と全く同じだった。またひと月当たりに換算すると、一人が白米約30キログラムに近似する量を食(消費)していたことになる。

   もし前節【資料②】の食材が契約証通りに毎日支給されていたとすれば、移民たちはタンパク質に相当する魚や肉を330グラム摂取していたことになるので、あるいは重い脚気を患い、渡航した三分の一の人々が死亡することはなかったのではないかとも思われるのである。

   前節で言及したように、日本人移民監督者山中政吉の明治27年5月13付書簡から類推するならば、食費はすべて耕区主側の負担するところとなっていた。

   したがって、日本において移民を仲介した業者(吉佐移民会社)と各移民個人との間で結んだ契約証の内容が、耕区主(雇主)の代理人であるオーストラリアのシドニーに本社を有し、移民の周旋にも携わっていた英国系商社バーンズ・フィリプ社18)を通じて現地の日本人移民の雇主に契約証にある衣・食・住に関する契約内容が正確に伝わっていたかどうか、頗る疑問の残るところである。

   この点に関しての手がかりとなるような資料は、筆者の努力不足から究明出来ていない。少なくとも、「明治二十七年十二月フィヂ島移民関係書類第一回」及び「移民雑件」(『平賀家文書』)等資料の中には見当たらないのである。

   上述したように、移民監督(現地における移民の世話役)山中政吉の書簡通りだとすると、その後も契約通りの食の支給が行われず、移民たちは白米を過食し栄養障害(当時は確証がなかったが、ビタミンB1の欠乏)によって脚気が移民の間で猛威を振るうことになったと考えられるのである。

   1894(明治27)年5月、フィジーのさとうきび農園(プランテーション)に渡った日本人出稼ぎ移民、総勢305人の中の三分の一を超す111人もの病死者を出す結果になったものと考えられる。

   彼らは、不幸にも二度と故国の土を踏むことはなかったのである。1年目の半ばにして、日本人移民全員が送還されることになったことで、新たな日本人移民の送り先として英領フィジーに賭けた吉佐移民会社の目論見は、完全に失敗に終わった。

   同社は、業務担当役員だった佐久間貞一が事実上一人で切り回していたから、佐久間の移民事業の将来にとっては大きな打撃だったことは間違いない。

   豊原又男は『前掲書』の中で佐久間が、雇主の代理人バーンズ・フィリプ社から、日本人移民が「脚気に罹れり」19)の一報を受けた段階では、それほど大ごとには至るまいと考えていたことが記されている。

   しかし、佐久間はフィジー島移民より2年前の1892(明治25)年1月に、同じメラネシア地域の仏領ニュ―・カレドニアのフランスのル・ニッケル会社が発掘しているチヨの町にあるニッケル鉱山(3鉱山:ポーリン鉱山、ツモルウ鉱山、メー鉱山)の労働者として送った日本人移民が仕事の不満をあらわにしたことで問題を起こしていた。

   日本人移民が起こした問題とは、鉱山に通う往復の道の険しさなどを訴え、雇い主に帰国させるように迫り、現地憲兵隊の出動に至ったことに苦慮したばかりだったので、再びすぐにフィジーへの移民事業でつまずくことがあってはならい。というのが佐久間貞二ら、吉佐移民合名会社首脳陣の考え方だったと思われる。かくして、医師の派遣など応急の措置を試みたのだった。

   同時に、佐久間貞一ら経営陣としては、社会に対する会社の信用に関わる問題でもあり、莫大な負担を会社が蒙ることは免れないとしても、現地の移民全員を引き揚げ、帰国させることに踏み切ることが、移民会社としては将来の信用を培う上で重要であるとの認識に立った措置であったと考えられる。

   だが実際には、さとうきび耕区の代理人であるシドニーのバーンズ・フィリプ社からは事態の容易ならざる現実を踏まえて、吉佐移民会社に対し移民全員の引き取りを求める通知が来た(入江寅次『邦人海外発展史(上)』、132ページ参照。)ことに対する佐久間の決断だったとも考えることができる。

   確かに、会社の経済的な負担は、病死者106名(神戸上陸(帰国)後に死亡した5名は含まれていない)に対する弔(吊)慰金、医師の派遣費、船舶の借用費用、社員の出張費等の費用、当時の金額で数万円と言われている。  

   しかしながら、これまでに分かっている限りで、吉佐移民会社が立て替えた金額とか、先方の代理店に対する違約金、帰国移民に貸与した金額等は含めないでも、同社が負担したフィジーに送った移民達を引き取りに支出した費用は23,000円に達していた。20)この点については、当該資料からも明らかである。

 



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