素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(14)

2021年10月27日 11時48分01秒 | ナウマン象と日本列島
        (改訂)抄録:日本にいたナウマンゾウ(14)
           (初出:2015・8・19ー2016・4・19)




 (5)津軽海峡の形成をめぐって(その2)

 4)八島・宮内論文から さて、海底地形の形成年代は陸橋の存在と深くかかわっているものと考えられているのですが、しかし、本稿で取り上げている津軽陸橋が存在したのかどうかを検討する要素として、海底地形形成年代、存在する海底段丘の問題などは極めて重要な要素だと思われます。

 前述の八島・宮内両氏の論文(1990)でもこれらの点に言及されています。津軽陸橋が最後に成立した年代を両氏の論文(1990)では、「絶対年代」と言う使い方がなされていますが、津軽陸橋が成立した「絶対年代」は「今なお特定できない」としています。すなわち、八島・宮内は、津軽陸橋が存在したかどうかについて、「その可能性をもつ海峡西口の海底地形の特徴と由来」を検証しています。

 その結果、竜飛鞍部では7つの海底段丘が存在していることも識別できるとしています。そして海底段丘や陸上地形地質資料から知られる地殻変動との関連も検討してみて、それでもなお、最後の陸橋成立の絶対年代を確定することはできない、としていますが、「最低位の海底段丘(Ⅶ面)の形成後で双子型海釜(溝状凹地)の形成前に成立した可能性がある」(1990)と、慎重な示唆を与えています。

 3、40年前まではともかく、現在では第四紀学会に所属の専門家の多くの先生方は、最終氷期(始まりは約7万年前)の最盛期(最寒冷期)、2万1000年前頃と考えられますが、海洋全体で海水準の最低位水準は120~130mと推定しているようです。また、対馬、津軽両海峡鞍部の低位水準は135m前後と見られています。

 非科学的な表現になりますが、第四紀学会の大勢としましてはおそらく最終氷期の最盛期(最寒冷期)にあっても大陸と日本列島が陸地で繋がったことはなかったと言う見解のようです。したがって、最寒冷期、大陸からヘラジカやマンモス、ナウマンゾウ等の大型哺乳類が渡来したとすれば、陸橋ではなく氷橋を歩いて来たのではないか、という説も最近では当該学会の一部には存在するやに聞いております。

 確かに、素人にはその説もまた否定することはできないように思われるのですが、しかし、大嶋和雄氏によれば、およそ有り得ないことだと言下に否定されています。

 すなわち、「流氷原を見たことのあるものならば、零下10℃以下のブリザードの吹きすさぶ氷塊の積重なった氷原を多数の哺乳動物群が歩いて渡って来ることは、不可能なことを知るであろう。とくに、草食性の動物が氷原を移動することは、今もありえないことをエスキモーは知っている。マンモス象、モウコ馬、オオツノ鹿が氷橋を渡るという考えは、ロマンチックではあるが、北国の冬を知らない人の想像である」、と一笑に付しておられます(大嶋「海峡形成史(Ⅶ)動物分布を支配する海峡」24頁)。

 肉食性動物群は別としてナウマンゾウやマンモスなど草食性動物群は氷原で大きな体を維持するだけの食べ物を得ることはできないと思われますので、短い期間の移動は可能であっても長期間の移動はできないと見た方が正しいように考えます。大嶋氏の言わんとされているのは、多分その点ではないかと思います。

 5)津軽陸橋と大嶋説 津軽海峡西口付近の海底形成については、これまでにも若干言及したことがありますが、何せ素人がいくつもの学術論文を勉強しながら、ナウマンゾウの日本列島、なかんずく北海道十勝平野へ渡来した道を、あぁでもないこうでもない、とジグソーパズルよろしく考察していますから、思うように捗りません。

 大嶋氏の海峡地形と底質の調査結果を基にした海水準変動の考察に依拠しますと、「主ウルム氷期海水準低下は-80±5mにしか達していない」(1980年11月12日開催の地質調査所研究発表会『講演要旨(144回)特集:日本海-発達と成因を探る-』大嶋報告「海峡形成史から見た日本海」)ことが分っており、その点から日本列島とアジア大陸とが陸続きであったのはリス氷期までだと、大島氏は説いています。ですから、津軽・朝鮮対及び対馬海峡が形成されたのは、「リス・ウルム間氷期(下末吉海進期)初期」(前掲の大嶋報告:1980)であったし、もしそれ以降にナウマンゾウが津軽の海を渡るならば泳ぐしかなかったであろうと言うわけです。

 大嶋氏は、ウルム氷期にも津軽海峡が再び陸地化することはなかったとされています。また、氏は次のようにも言われています。
「北海道は樺太を経て大陸と接続していた。宗谷海峡が形成されたのは、鳴門海峡とほぼ同時代の約1万年前である。したがって、ナウマン象や明石原人は、大陸から日本列島へ歩いて渡ってくることができた、云々」(前掲の大嶋報告:1980)とあります。

 さらに、大嶋氏は「第四紀後期の海峡形成史」(『第四紀研究』・第29巻3号・1990年・8月、207-208頁。)の「まとめ」の中で、日本列島と朝鮮半島とは更新世(新世代の第四紀を二分した前半の世、258万年前から1万1700年前の期間を言う)おいて陸地で結ばれたいたこと、そしてまた日本列島の島々も接続していたことを明かしています。

 大嶋氏は「その証拠として、ナウマンゾウをはじめとする多くの大型陸棲哺乳動物が日本列島に生息していたことを示している」、と指摘されています。しかし、海水準がマイナス100mにあった下末吉海進(通説では、今から12万5000年前の間氷期、地球上の温暖化で陸地(平野)に海が侵入(海進)し、海面の著しい上昇が起きたと言われている。

 なお、ここに言う末吉地区は横浜市鶴見区、JR鶴見駅北側を流れる鶴見川沿いの地域で、上流が上末吉、下流が下末吉地区に分かれる)の初期(大嶋氏のある論文では、下末吉海進初期とは、今から15万年~10万年前とされているが、ここでは通説にしたがった。)には、「日本海は朝鮮および敦賀海峡によって太平洋に連なった」ことで、最終氷期に海水準が-80mに下がったが、それによって日本列島と大陸が、また津軽海峡と北海道を繋ぐ陸橋が形成されることはなかったであろうと言うのが大嶋説です。

 本州から北海道十勝平野にナウマンゾウが歩いて渡ったのは、古環境の遺体の科学的測定分析などを試みた結果によりますと、12、3万年前ないし30万年前と言うことになるわけです。北海道十勝平野、旧忠類村(現在の幕別町忠類地区)晩成で発見されたナウマンゾウの化石は、埋まっていた地層の分析から、約12、3万年前のものと推測されていますから、下末吉海進前に本州から津軽の陸橋を渡って草原の広がる十勝平野に2万年前頃まで生息していたことも、大変大雑把ですが考えられなくもないのです。


〔文献〕
(1)井尻正二『化石』・岩波新書673,1963年。
(2)湊 正雄・井尻正二『日本列島』(第三版)・岩波新書963、1976年。
(3)藤田至則・亀井節夫・松崎寿和・加藤晋平・江坂輝弥・樋口隆康・乙益重隆・有光教一『先史時代の日本と大陸』・朝日新聞社、1976年。
(4)松井愈(まつい まさる)・吉崎昌一・埴原(はにはら)和郎『北海道創世記』・北海道新聞社、1984年。
(5)道田豊・小田巻実・八島邦夫・加藤茂『海のなんでも小事典 潮の満ち引きから海底地形まで』・講談社、2008年。
(6)平 朝彦『日本列島の誕生』・岩波新書(赤)148、1990年。
(7)満塩大洸・安田尚登「対馬海峡付近の第四紀層,特に陸橋問題」・『第四紀研究』・第29巻(3)・281-282頁、1990年8月。
(8)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅰ)』・地質調査総合センター、10-21頁。
(9)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅵ)』・地質調査総合センター、36-44頁。
(10)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅶ)動物分布を支配する海峡』・地質調査総合センター、14-24頁。
(⒒)大嶋和雄「第四紀後期の海峡形成史」・『第四紀研究』・第29巻3号・1990年月、207-208頁。
(12)大嶋和雄「海峡地形に記された海水準変動の記録」・『第四紀研究』・第19巻1号・1980年5月、23-37頁。
(13)大嶋和雄「海峡形成史から見た日本海」・『講演要旨(144回):特集 日本海―発達と成因を探る―』・地質調査所研究発表会、1980(昭和55)年11月12日、191-   192頁。