4)津軽海峡の形成とナウマンゾウの北海道生息をめぐって
〈津軽陸橋論はしがき〉
この分野は、「ナウマンゾウ抄録」の中でも最も難しく厄介な分野です。北方系のマンモス象と同じく、シベリア、サハリン、そして宗谷海峡の陸地時代に北海道に棲みつくようになったということで終わりにするなら簡単なことで、それで済んでしまうのかもしれないのですが、しかし、南方系のナウマンゾウが日本列島の本州辺りに渡って来て、棲みついたことも考えられるでしょう。列島に生息するようになって、列島の古気候に慣れたナウマンゾウの仲間のどれだけかが良質の葉木を食しながら、次第に北上し、信州の寒冷地野尻湖近辺に生息したものや、さらには津軽海峡を越えて北海道十勝平野に棲むようになったのではないか、と考えた方が話はドラマチックです。
そう考えますと、津軽海峡の陸地化時代の存否に何とか手がかりを探し求めたくなり、難しい分野に入り込んでしまいました。いろいろ専門的な文献に首を突っ込み抜き差しならない、ちょうど十勝平野・忠類晩成の沼地に足を取られ、もがきもがいた果てに沈みゆくナウマンゾウの状態です。
さて、話を本題に戻しましょう。これまでにも「津軽陸橋」問題に関する議論はかなり頻繁に行われていました。本稿において、大嶋和雄氏の津軽海底地形の地質学的検討に言及する前に、八島邦夫及び宮内崇裕両氏の1990年の論稿、「津軽陸橋問題と第四紀地殻変動」(『第四紀研究 (The Quaternary Research)』 29 (3) p. 267-275 Aug. 1990)などの文献を参考にしながら津軽陸橋問題をほんの入り口に過ぎませんが若干考察しておきましょう。
〈津軽陸橋の存否を考える〉
海底地形の解析は、陸上の地形と違って目視することが困難ですから簡単には視認(目でみて確認すること)出来ません。そのため、海底地形の解析は調査と言いますか、測量の方法、またその精度にも陸上のようなわけにはいかないようです。そこで津軽海峡における海底測量につては、青函トンネル開設に当たっても海峡西口の海底地形の詳細な地形測量が行われた実績がありますので、それに譲ることにしましょう。
前述の八島・宮内両氏の論文(1990)に依拠しますと、それまでの測量で明らかにされていることは、津軽海峡には太平洋側から水深で200mのところに「津軽海盆」(細長い窪み)が入り込んでること、また津軽海峡西口海底水深120-140mの前後のところからサドル(saddle)と呼ばれる鞍部(あんぶ)地形(注:鞍部とは、地形が乗馬用の鞍に似ている幅広の凹部で、海嶺において、あるいは隣接し合う 海山(かいざん:海洋底との比高が1000m以上あるもの、比高が1000m以下のもは海丘)の間に見られるサドル状を形成した地形を指すようです。)の存在が分っているそうです。
また、八島・宮内『前掲論文』(1990)では、「西津軽鞍部は幅6~8km, 水深120~140m, 北部はケスタ地形を呈し, 南部には水深約70mの小丘 (西津軽堆) がみられる。 白神鞍部は幅2~5km, 水深130~150mで平坦面中央に水深125~140mの緩やかな丘陵地状地形が発達する. 竜飛鞍部は幅6km、 水深110~130mの平坦面をもつ。この3つの鞍部が陸橋となる可能性をもつが、 いずれも海釜と海釜、 海釜と大陸斜面をつなぐ溝状凹地により切られており、 厳密には北海道と本州の陸棚はつながらない」のではないか、と八島・宮内両氏は論じています。
両氏が言う「ケスタ(cuesta)地形」とは、ここでは一方が緩斜面で反対側は急斜面を成すような海底地形を指しているものと思われます。また、海釜(かいふ)とは、潮流の浸食によって海底が削られてできる窪地で、ちょうど海底が「なべ底」のような大きな窪みを形成することから海釜と呼んでいます。日本で最も大きな海釜は津軽海峡の「海釜」だと言われています(茂木昭夫「日本沿岸の海底地形」)。
話が逸れましたが、津軽陸橋がいつの時代まで存在したかの考察が十分に行われてきたか必ずしも定かではないのですが、津軽海峡沿岸の海岸段丘から見た海峡西口における変動は、これまでに宮内 (1988) の論文「東北日本北部における後期更新世海成面の対比と編年」(『地理学評論』・61、 p.404-422.)において、「海岸沿岸の変位と第四紀後期地殻変動」が考察されており、とくに「津軽海峡沿岸更新世中・後期の海岸段丘が連続的に分布している」(八島・宮内論文・1990)ことが明らかにされていて、それによりますと、垂直隆起量の最も高いところでは、最近の12万年間で100mにも達している(松前半島西岸部)ことが指摘されていますが、津軽陸橋に関するさらなる解明には陸棚下の地質情報の収集と解析が待たれるものと考えられます。
〈津軽陸橋の存立説、形勢不利か〉
津軽陸橋が事実として存在したのかどうか、その存在の可能性については未だ議論のあるところだと考えられます。津軽陸橋の存否は、津軽海峡西口の海底地形の特徴と由来に起因すると考えられますから、海底段丘だけでなく陸上の地形地質の測量資料の情報の分析から地殻変動にも検討を加えなければならないものと思われます。それでもなお、津軽海峡の最終氷期極相期においての陸橋があったのかどうかの議論の決着を見ることはできないようです。
その最大の理由は何なのか。多田隆治氏の論稿(『文明と海』・講座「文明と環境」第10巻3、1995)「日本とアジア大陸を結ぶ最終氷期の陸橋」(39頁)によりますと、その一つは、かつて海面があった位置を示す痕跡、すなわち「旧汀線推定に用いる海底地形の形成年代推定の曖昧さ」が指摘されています。その二つとして、「旧汀線推定に用いる海底地形の形成水深の推定誤差」だとしています。その三つとして、次のような場合もあるというのです。
たとえば、「相対的海水準低下量を推定した地点が問題となる海峡から離れている場合には、海底地形が観察された地点での地殻運動量と問題となる海峡での地殻運動量の差、も問題になる」(多田「前掲稿」33頁)のだそうです。
さて、海底地形の形成年代は陸橋の存在と深くかかわっているものと考えられてるのですが、しかし、本稿で取り上げている津軽陸橋が存在したのかどうかを検討する要素として、海底地形形成年代、存在する海底段丘の問題などは極めて重要な要素だと思われます。
前述の八島・宮内両氏の論文(1990)でもこれらの点に言及されています。津軽陸橋が最後に成立した年代を両氏の論文(1990)では、「絶対年代」と言う使い方がなされていますが、津軽陸橋が成立した「絶対年代」は「今なお特定できない」としています。すなわち、八島・宮内は、津軽陸橋が存在したかどうかについて、「その可能性をもつ海峡西口の海底地形の特徴と由来」を検証しています。
その結果、竜飛鞍部では7つの海底段丘が存在していることも識別できるとしています。そして海底段丘や陸上地形地質資料から知られる地殻変動との関連も検討してみて、それでもなお、最後の陸橋成立の絶対年代を確定することはできない、としていますが、「最低位の海底段丘(Ⅶ面)の形成後で双子型海釜(溝状凹地)の形成前に成立した可能性がある」(1990)と、慎重な示唆を与えています。
3、40年前まではともかく、現在では第四紀学会に所属の専門家の多くの先生方は、最終氷期(始まりは7万年前)の最盛期(最寒冷期)、2万1000年前頃と考えられますが、海洋全体で海水準の最低位水準は120~130mと推定しているようですが、対馬、津軽両海峡鞍部の低位水準は135m前後と見られています。
非科学的な表現になりますが第四紀学会の大勢としましてはおそらく最終氷期の最盛期(最寒冷期)にあっても大陸と日本列島が陸地で繋がったことはなかったと言う見解のようです。したがって、最寒冷期、大陸からヘラジカやマンモス、ナウマンゾウ等の大型哺乳類が渡来したとすれば、陸橋ではなく氷橋を歩いて来たのではないか、という説も最近では当該学会の一部には存在するやに聞いております。
確かに、素人にはその説もまた否定することはできないように思われるのですが、しかし、大嶋和雄氏によれば、およそ有り得ないことだと言下に否定されています。すなわち、「流氷原を見たことのあるものならば、零下10℃以下のブリザードの吹きすさぶ氷塊の積重なった氷原を多数の哺乳動物群が歩いて渡って来ることは、不可能なことを知るであろう。とくに、草食性の動物が氷原を移動することは、今もありえないことをエスキモーは知っている。
マンモス象、モウコ馬、オオツノ鹿が氷橋を渡るという考えは、ロマンチックではあるが、北国の冬を知らない人の想像である」、と一笑に付しておられます(大嶋「海峡形成史(Ⅶ)動物分布を支配する海峡」24頁)。肉食性動物群は別としてナウマンゾウやマンモスなど草食性動物群は氷原で大きな体を維持するだけの食べ物を得ることはできないと思われますので、短い期間の移動は可能であっても長期間の移動はできないと見た方が正しいように考えます。大嶋氏の言わんとされているのは、多分その点ではないかと思います。
〈津軽陸橋と大嶋説〉
津軽海峡西口付近の海底形成については、これまでにも若干言及したことがありますが、何せ素人がいくつもの学術論文を勉強しながら、ナウマンゾウの日本列島、なかんずく北海道十勝平野へ渡来した道を、あぁでもないこうでもない、とジグソーパズルよろしく考察していますから、思うように捗りません。
大嶋氏の海峡地形と底質の調査結果を基にした海水準変動の考察に依拠しますと、「主ウルム氷期海水準低下は-80±5mにしか達していない」(1980年11月12日開催の地質調査所研究発表会『講演要旨(144回)特集:日本海-発達と成因を探る-』大嶋報告「海峡形成史から見た日本海」)ことが分っており、その点から日本列島とアジア大陸とが陸続きであったのはリス氷期までだと、大島氏は説いています。ですから、津軽・朝鮮対及び対馬海峡が形成されたのは、「リス・ウルム間氷期(下末吉海進期)初期」(前掲の大嶋報告:1980)であったし、もしそれ以降にナウマンゾウが津軽の海を渡るならば泳ぐしかなかったであろうと言うわけです。
大嶋氏は、ウルム氷期にも津軽海峡が再び陸地化することはなかったとされています。また、氏は次のようにも言われています。
「北海道は樺太を経て大陸と接続していた。宗谷海峡が形成されたのは、鳴門海峡とほぼ同時代の約1万年前である。したがって、ナウマン象や明石原人は、大陸から日本列島へ歩いて渡ってくることができた、云々」(前掲の大嶋報告:1980)とあります。
さらに、大嶋氏は「第四紀後期の海峡形成史」(『第四紀研究』・第29巻3号・1990年・8月、207-208頁。)の「まとめ」の中で、日本列島と朝鮮半島とは更新世(新世代の第四紀を二分した前半の世、258万年前から1万1700年前の期間を言う)おいて陸地で結ばれたいたこと、そしてまた日本列島の島々も接続していたことを明かしています。
大嶋氏は「その証拠として、ナウマンゾウをはじめとする多くの大型陸棲哺乳動物が日本列島に生息していたことを示している」、と指摘されています。しかし、海水準がマイナス100mにあった下末吉海進(通説では、今から12万5000年前の間氷期、地球上の温暖化で陸地(平野)に海が侵入(海進)し、海面の著しい上昇が起きたと言われている。
なお、ここに言う末吉地区は横浜市鶴見区、JR鶴見駅北側を流れる鶴見川沿いの地域で、上流が上末吉、下流が下末吉地区に分かれる)の初期(大嶋氏のある論文では、下末吉海進初期とは、今から15万年~10万年前とされているが、ここでは通説にしたがった。)には、「日本海は朝鮮および敦賀海峡によって太平洋に連なった」ことで、最終氷期に海水準が-80mに下がったが、それによって日本列島と大陸が、また津軽海峡と北海道を繋ぐ陸橋が形成されることはなかったであろうと言うのが大嶋説です。
本州から北海道十勝平野にナウマンゾウが歩いて渡ったのは、古環境の遺体の科学的測定分析などを試みた結果によりますと、12、3万年前ないし30万年前と言うことになるわけです。北海道十勝平野、旧忠類村(現在の幕別町忠類地区)晩成で発見されたナウマンゾウの化石は、埋まっていた地層の分析から、約12、3万年前のものと推測されていますから、下末吉海進前に本州から津軽の陸橋を渡って草原の広がる十勝平野に2万年前頃まで生息していたことも、大変大雑把ですが考えられなくもないのです。
〔文献:(9)及び(10)〕
(1)井尻正二『化石』・岩波新書673,1963年。
(2)湊 正雄・井尻正二『日本列島』(第三版)・岩波新書963、1976年。
(3)藤田至則・亀井節夫・松崎寿和・加藤晋平・江坂輝弥・樋口隆康・乙益重隆・有光教一『先史時代の日本と大陸』・朝日新聞社、1976年。
(4)松井愈(まつい まさる)・吉崎昌一・埴原(はにはら)和郎『北海道創世記』・北海道新聞社、1984年。
(5)道田豊・小田巻実・八島邦夫・加藤茂『海のなんでも小事典 潮の満ち引きから海底地形まで』・講談社、2008年。
(6)平 朝彦『日本列島の誕生』・岩波新書(赤)148、1990年。
(7)満塩大洸・安田尚登「対馬海峡付近の第四紀層,特に陸橋問題」・『第四紀研究』・第29巻(3)・281-282頁、1990年8月。
(8)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅰ)』・地質調査総合センター、10-21頁。
(9)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅵ)』・地質調査総合センター、36-44頁。
(10)大嶋和雄『海峡形成史(Ⅶ)動物分布を支配する海峡』・地質調査総合センター、14-24頁。
(⒒)大嶋和雄「第四紀後期の海峡形成史」・『第四紀研究』・第29巻3号・1990年月、207-208頁。
(12)大嶋和雄「海峡地形に記された海水準変動の記録」・『第四紀研究』・第19巻1号・1980年5月、23-37頁。
(13)大嶋和雄「海峡形成史から見た日本海」・『講演要旨(144回):特集 日本海―発達と成因を探る―』・地質調査所研究発表会、1980(昭和55)年11月12日、191- 192頁。