素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

ナウマンゾウについて、その「補遺編」(5)

2022年12月18日 19時25分02秒 | ナウマンゾウについて
   ナウマンゾウについて、その「補遺編」(5)


ナウマンの1879年の論文から―横須賀産マンモス?について―(その3)

 1.ナウマン教授の後任、ブラウンス氏来日
 ナウマンは、日本の地質研究を進めるうちに、日本列島の起源や構造について、地質学的に本格的な調査の必要性を考えるようになりました。そこで、大学の教壇と掛け持ちでは十分な地質調査はできないため1879年任期満了と同時に教授の職を辞し、列島の地質調査に専念することを決意しました。

 そのため1879年12月、ナウマンの後任の東京大学理学部地質学教室第二代教授として明治政府(文部省)によって招聘されたのがナウマンと同じドイツ人の地質学者ダーフィト・アウグスト・ブラウンス(David August Brauns:1827-1893)でした。
 ブラウンスは東京大学に赴任後は、東京や横浜周辺の地質調査を実施していたと言われています。東京の王子、駿河台、品川における武蔵野台地東部の地層から貝化石を発見しており、学術的な報告もしています。また、現在の北区王子の貝化石産地は、北区滝野川地区の石神井川河岸で,現在は音無さくら緑地の公園内の崖というか、露頭も保存されており誰もが観察できるようです。

 ナウマンの後任教授ブラウンスは、教壇では地質学および古生物学全般を講義したと言われています。その傍ら日本の新生代における貝化石の研究も継続的に行い、先駆的業績を挙げたことでも知られています。

 さらに、そのブラウンスは、1883年には「日本の洪積世哺乳類について」と題する論文をまとめ、ナウマンが研究した先史時代の日本のゾウの研究に言及し、ナウマンが鑑定したゾウ化石は、第四紀の洪積層(更新世)のものだと反論し、ナウマンが新第三紀鮮新世のゾウの化石と考えていたことを厳しく批判し、ナウマン説を覆したたこでも知られています。

 2.日本産ゾウ化石に関するブラウンスの見方
ダーフィト・アウグスト・ブラウンスは、ナウマンが研究したものと日本のゾウの同じ化石を使って研究しましたが、その結果として、日本で出土しているナウマンゾウの化石は第四紀洪積世のもので、時代はナウマンが鑑定した時代よりもっと新しいものだ、とナウマンの見立てとはかなり違う見解を示しました。

 しかしながら、ブラウンスの鑑定について、ナウマン研究で知られる山下昇(1922-1996)は、かつてブラウンスの“Geology of the Environs of Tokyo”(『東京近郊の地質』、1881)を取り上げて、「あたかもこれが関東平野研究の最初、あるいは日本の第四紀研究の始まりであるかのように紹介されることがある。

 ところが、この論文をちょっとのぞいてみれば分かることであるが、これは第四紀層ではなく、第三紀層についても、というより量的には彼(ブラウンス)のいう第三紀層のほうがより多く扱われている」(『地質学雑誌』・第96巻第12号・981-982ページ、1990)と指摘しています。

 また山下昇は、ブラウンスが東京近郊だけでなく、「秩父・信濃・美濃から時には九州天草」に至るまで広く扱っていますが、それにもかかわらず「古期岩類」には全く言及していないとも批判的に指摘しています。