素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

人種とは・日本人の昔を探る(27)

2020年09月28日 17時25分56秒 | 人種とは・日本人の昔を探る

   人種とは・日本人の昔を探る(27)

 

 

  日本人の昔を探る(その3)

 縄文人の農耕の始まり-その1-

 

 縄文の中期頃から、定住化が進み人口も増えてきますと、定住域内での採集、狩猟に依存して食べ物を賄うことが難しくなってきたのではないかと推測されます。したがって、定住域の土地を耕して食べられる野草や稗、粟などの「粒種」の採取が出来るイネ科(禾本科)の植物を育てる原初的な技術(栽培する)を体験的に習得したり、野生動物などを飼いならす原初的な家畜化など、縄文期において、いわば原始的な農耕を始めるようになったものと推測されます。

 20世紀後半になりますと、関東や中部山岳地方の遺跡から、縄文中・後期以降のものと推察される農耕の原初的な痕跡が見つかるようになりました。とくに1970年代以降になりますと、考古学の世界では、それが常識の知見とされています。

 縄文農耕論の先駆者には『縄文農耕』(1970)を著わした考古学者藤森栄一(1911-1973)がおります。藤森は、縄文時代中期、後期における中部山岳地帯の文化の背後には、縄文農耕が存在したと考えていたようです。

 と言いますのは、小山修三氏は「縄文時代の農耕(その2)-佐々木先生追悼シンポジュウム」(2013年11月27日)において、「藤森栄一は長野県八ヶ岳山麓の中期の遺跡における華麗な土器文化を支えたのは焼畑農耕であるという説をだしている」、とも説いています。

 その意味でも、縄文農耕を考える上では、『熱帯の焼畑-その文化地理学的比較研究』(1971)、『日本の焼畑-その地域的比較研究』(1972)、『縄文文化と日本人』(1986)、そして『日本史誕生』(1991)など多くの業績を遺されている佐々木高明(1929-2013:元国立民族学博物館館長)の縄文農耕論は見逃せません。

 佐々木が縄文農耕焼畑論を提唱したのは、小山氏(2013)も指摘していますように、『稲作以前』(1971)においてでした。

 縄文焼畑農耕論は、縄文期農耕を知る上では重要な先行研究として、われわれのような素人であっても縄文農耕を学ぶには避けて通れない文献であるように思います。

 また佐々木(1991)は、縄文中・後期の農耕は、きわめて原初的なもので、農耕として独立してみなすには憚れるのではないかと、そして「採集経済のごく一部に過ぎず、補充的な程度」(1991、239頁)のものに過ぎないとも指摘されています。

 そしてまた佐々木は、縄文農耕は、人口の増加を賄えるような「人口支持力」があったとは思えない、とも言っています。それは、縄文中・後期には気候変動も激しく、気温は低く寒冷期にあったとことも縄文農耕が厳しい自然環境に見舞われたのではないか、とも説いています。

 また、古くは考古学者大山柏(1889-1962)による石鍬説があり、縄文農耕を裏付ける土を掘る「堀り具」(打製石斧)などが関東地方の遺跡からも大量に見つかっています。

 クリ栽培説を説いた酒詰仲男(1902ー1965)は、木の実のなかでもクリは平均した大きさのものが出土することから、縄文後期にはある程度の管理、栽培があったのではないかと推測しました。それだけではなく、西日本地方の縄文晩期と推定される遺跡から陸稲の穀粒も見つかっています。

  ここで、本稿一息入れたいと考えています。