再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える
(22)
第3章 失敗だったフィジー移住
(2)日本人契約移民の悲劇
また、入江寅次は『明治南進史稿』1) においても「年期三年」を記している。さらには、 今村敏彦・藤崎康夫編著『移民史』増補[Ⅱ]「アジア・オセアニア編」2)などでも3年契約と記されていいる。
ただ、これらの文献において、1894年4月フィジー諸島に上陸してしばらく、衣食住に関する費用は、耕区主(さとうきび農園の経営者)が支弁し、手当は月額約27シリング(邦貨換算で約10円)で半年ほどは能率よく働いて耕区主の期待に応えていた(豊原又男『佐久間貞一小傳』)。
ところが、1894年10月頃になって移民たちの中に体調異変を訴える者が出てきたと、異変の実態が記録されている3)。その体調の異変とは、脚気、赤痢、熱病を病む日本人移民が続出するに及んだことである。この問題に関して、前掲の『佐久間貞一小傳』には次のように記されている。
(以下「 」内は原文のまま引用)「『フイルプ』会社にても大に満足を表し居たるに同年十月に至り脚気患者を生じ為めに八名の死亡者を出し漸次病者増加の趨勢を呈し翌廿七年二月には廿九名の死亡者を生ずるに至れる旨出張監督の急報に接したるを以て(佐久間貞一)氏は脚気専門医を派遣して移民の病状を診察せしめ併せて詳に其原因を探求せしめんが為めに出張を命じ出発せしめたるに『バルンス、フイルプ』会社よりは移民の病状日に悪兆を呈し最早猶予すべき時間なしとの急電に接せるを以て既に医師の航海中なるにも係らす郵船会社雇船『アフガン』号を借り入れ医師及出張員を乗組ましめ翌廿八年一月十三日を以て横浜を解纜(「かいらん」と読む:筆者補筆。)せしめたり同月三十一日彼地に着し直ちに二百二十三名を搭載して二月廿五日神戸に帰着せり)」4)と述べている。
豊原又男のこの文面(『前掲書』)は甚だ読みにくい文面だが、要するに言わんとするところを口語的に書き直すと以下のような内容になる。すなわち、「1894年9月頃から脚気、赤痢、熱病等に罹るものが続出した。10月になると8名の死亡者を出し、さらに増加の一途にあった。
(佐久間貞一)氏は、現地に医師を派遣して移民たちの病状の究明に当たらせるために(日本吉佐移民合名会社の)社員の出張を命じた。しかし、1895年1月になると事態容易ならざると見て、バーンズ・フィリップ社が、移民すべてを引き取って欲しい旨の至急電をしてきた。
そこで、同年1月13日日本郵船の『アフガン』号を借り切り、横浜を解纜(出航)し、フィジーには1月31日に着き、直ちに223名を乗せて、2月25日神戸に帰港した」5)、という内容である。
実際にどれだけの移民が命を落としたか、記録のある者だけでも現地の耕区で死亡した者81名、帰途船中死亡者25名、神戸帰港後死亡5名、結局305名の移民のうち111名、全体の36.4%が死亡し帰らぬ人となったが、194名が故郷の土を踏むことが出来た計算だが、正確なことは分かっていない6)(下記の表、参照)。
表 1894-1895年英領フィジー諸島の日本人契約移民の悲劇
移民総数 |
死亡総数 |
帰国者数 |
現地死亡数 |
帰途船上死亡数 |
帰国後死亡数 |
305人 |
111人 |
194人 |
81人 |
25人 |
5人 |
出所:広島県編『広島県移住史 通史編』・平成5年10月、218ページから作成。
(注)
1) 入江寅次『明治南進史稿』・大空社(昭和18年版の復刻)・1997年1月、134ページ。
2) 今村敏彦・藤崎康夫編著『移民史』増補(Ⅱ)「アジア・オセアニア編」・1996年3月、221ページ。
3) 広島県立文書館所蔵の『平賀家文書(「フィヂ島移民関係書類」第一回)』に収められた明治2年1月27日代理 人土肥積から広島県移民死亡者遺族宛「病人多発のため移民帰国の旨通知」による。
4)豊原又男『前掲書』、83-89ページ。
5)豊原又男『前掲書』、89‐92ページ。
6)広島県『前掲書』(代理人土肥積の「病死者数の報告」)、523-524ページ。
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