素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

再論・ナウマンゾウについて(Ⅱ)-15

2019年04月29日 08時38分58秒 | 再論・ナウマンゾウについて(Ⅱ)

第Ⅰ章 太古の昔、北の大地十勝平野にゾウがいた

 ―旧忠類村から発掘されたナウマンゾウ―

 

 

 

 (7)ゾウがいた頃の十勝の自然

  ⅰ)ナウマンゾウが生息していた頃

  ナウマンゾウの化石は、ホロカヤントウ層第三泥炭層から産出されたのですが、この泥炭層は、大樹町晩成にあるホロカヤントウと呼ばれている沼と地層的には繋がっているのです。ホロカヤントウとはアイヌ語で、ホロカ・ヤン・トウ(または〔ホロカヤントー〕とも書くようです)とは、山田秀三『北海道の地名』(草風館・2000年、326頁)よりますと、「後戻りして・掲げる・沼」*)の意味だそうです。おそらく「満潮時に水が後戻りして沼から陸に上がる」というのが、「ホロカ・ヤン・トウ」の言葉の意味ではないかと思います。なんだか意味がはっきりしないのですが、「ホロカヤントウ」といえば、いまでは湖沼の名称として広く知られるようになっています。

  さて、ナウマンゾウの化石が発掘された忠類晩成地区は、いまでは初の民間ロケット打ち上げの町として知られるようになった大樹町晩成地区にあるホロカヤントウ沼とそう遠くない位置にあります。地層的には同じホロカヤントウ地層です。

  ナウマンゾウが生息していた頃、現在の忠類地区はおそらく一帯が湿原の亜泥炭質の古土壌だったと推察できます。最近、「十勝団体研究会」による地形、地層・地質調査の成果が報告されています。ナウマンゾウが生息していたであろう約12万年前から2万年前頃の十勝平野の古気温(古気候)についても報告されており、発掘された植物化石(植物遺体も含む)の分析から現生種の分布についても明らかになってきています。

  因みにブナ、ミズナラ、ハンノキ、ハクウンボクそしてエゴノキなどの多くの植物が繁茂していたことが明らかになりました。また、ナウマンゾウの化石が包含していた地層の堆積物からは、地域によってはツガやスギなどの花粉化石も発見されており、当時の植物の植生をかなりの程度まで正確に推測する研究も進んでいます。

  標高100から200mの十勝平野に植生していた樹木で、ナウマンゾウが小枝を長い鼻で巻いては好んで食べていたであろうと推察される樹木の一つで日本を代表する広葉樹にブナノキがあります。ナウマンゾウが絶滅して有に2万年は経過している今でもブナノキは、北海道南部から本州中部の山地にかけて広く繁茂しています。

  世界遺産として知られる白神山地のブナ林は、真夏でも瑞々しい山並みを見せてくれていることで有名ですし、現在では大変貴重な環境資源と考えられています。

  ブナノキの学名はFagus Crenataといい、別名を「ソバクリ」と呼んでいます。日本における生育の北限は北海道渡島(おしま)半島、寿都(すっつ)町辺りまでと考えられています。この他、エゴノキ(学名:Styrax japonicas)が生育する地域、日本では北海道十勝平野から本州、九州まで広範囲に植生を持つ落葉小高木樹で、葉は単葉で互生しており、卵形をなし、芳香のある白い花をつけるのが特徴で、春から初夏にかけて山歩きをしているとよく見かける広葉樹です。

  十勝平野にナウマンゾウが生息していた2万年前以上の昔は、おそらくいまと比較するなら、それらの樹木はもっと北上していたのではないか、という説(十勝団体研究会「ナウマン象化石産出地点付近の地質概要および化石包含層の特性」・北海道開拓記念館編『ナウマン象化石発掘調査報告書』・1971年3月、22頁)もあります。また、十勝団研(十勝団体研究会)の「前掲論文」では、ブナノキにしてもエゴノキにしても北緯42度を超えて北方には分布していなかったし、その地帯がまたナウマンゾウの生息限界ではないかと考えられます。

  ⅱ)現在より高温だった年平均気温

  以上のように、森林帯と気温とは密接な関係があると考えられますから、植物の植生にしてもナウマンゾウの生息地にしましても、その基礎的な気候因子は気温であるといえます。間氷期において、ナウマンゾウが生息していた時代の十勝平野の気温は、現在よりも高温だったと推定されているのです。ナウマンゾウが生息していた頃の忠類地域、さらに北東に30キロメートルの豊頃町大津(1)では年平均気温が3.3℃、江差町では9.3℃、また函館から南、渡島半島では8℃だったといわれており、忠類付近では現在よりも平均気温が3℃から4℃くらい高かったと推測されています。

  基礎的気候因子から考えて、忠類を含む十勝平野はナウマンゾウが生息するに足る「生息環境」だったと推察できます。しかしながら、南方系と見られるナウマンゾウがどのようにして日本列島の寒冷地北海道で生息するようになったのか簡単には答えが出せそうにはありません。もしやナウマンゾウの中には北方系(2)の種類も存在していたのではないのか、素人がクリアするには余りにも高すぎる壁が本稿の行く手に立ち塞がっています。

  ただ、いろいろと文献を調べてみますとナウマンゾウが北方系であるとする見解もあるのです。古生物学者であり、化石研究の第一人者井尻正二(1913-1999)は、地質調査と炭素同位元素を使って年代を測定する14C法によって野尻湖のナウマンゾウの化石を分析した結果から、3万1000年前から1万6000年前の間に生息していたことを明らかにしています。この時期が氷河期に当たり、しかも同じ地層から見つかった花粉の化石を分析したところ寒冷地特有のトウヒ・ツガ・カラマツといった植物の植生も分かり、ナウマンゾウが厚い毛で覆われた寒冷環境に適応して生息していたのではないか、その観点からするとナウマンゾウもまた、北方系の「日本的マンモス」と呼んでもいいゾウではなかったのではないか、と推察されています。いうまでもなく他方には、井尻とは異なる見解もあります。

  たとえば、愛知教育大学の河村善也教授は実に興味深い見解を示しています。「ナウマンゾウは北方系でも南方系のどちらでもない。温帯の森林に生息し、気候の変動に対応しながら生息域の移動を繰り返す。寒冷期には南下し、暑い夏季には北上する。温帯適応型だった」、という見解です。また、北海道博物館の添田雄二自然研究グループ学芸員は、「ナウマンゾウは朝鮮半島付近から本州に渡って来た南方系のゾウであり、長い体毛を有するマンモスゾウは、サハリンを経由してシベリアから北海道に渡って来た北方系のゾウである」(「よみがえった北広島マンモス」による)、とナウマンゾウの日本列島渡来について「南方系説」を論じています。

 

 (文中の注)

 (1)「豊頃」とはアイヌ語の「トエコロ」(大きなフキのあるところ)に由来しており、「大津」のアイヌ語による読み方について、豊頃町のホームページによると、「『オオホツナイ』と発音する」とあるが、明治前後の古文献や呼称では『オオツナイ』または『オオツナ井』と記されている、とある。『深い川』とか『川尻(川下)がそこにある川』の意味」、と地名の由来が説明されています。

  (2)  野尻湖の湖底から発掘されるナウマンゾウの化石とともにオオツノジカの化石もまた産出されることが多い。寒冷気候において植生する樹木の花粉化石が産出されていることなどから、ナウマンゾウが「北方系」ではないかとする見解も少数ではあるが提起されています。たとえば、著名な化石学者井尻正二の見解は、「ナウマンゾウ北方系説」の代表的なものでした。しかし昨今では、南から北へ移動した「南方系説」が一般的のようですが、それではナウマンゾウが本州から北海道へ、津軽海峡をいかにして渡ったのか、氷河期においても陸橋は出来なかったといわれているだけに、「ナウマンゾウ南方系説」にも若干の疑問は残ります。

 

 

 (文献)

 (1)文中の*印:山田秀三(やまだ ひでぞう:1899-1992)『北海道の地名』(アイヌ語地名の研究―山田秀三著作集・別巻・1984年)復刻訂正版・草風館・2000年4月、326頁。

 (2)十勝団体研究会「ナウマン象化石産出地点付近の地質概要および化石包含層の特性」(北海道開拓記念館編『ナウマン象化石発掘調査報告書』)・1971年3月、⒗-26頁。

 (3)十勝団体研究会「十勝平野の第四系(第Ⅱ報)-とくに地形面と層序についてー」(『第四紀研究』・第7巻第1号・1968(昭和43)年6月、1-5頁。

 (4)松井愈(まついまさる:1923-1996)・佐藤博之・小坂利幸「ナウマンゾウの包含層の時代」(地学団体研究会『(地団研専報/22)十勝平野』(第Ⅳ編 忠類産ナウマンゾウとそれにかかわる諸問題)・1978年、399-408頁。

 (5)井尻正二『ナウマンゾウの夢』・共立出版社・1977(昭和52)年、44-58ページ。

 (6)「ナウマンゾウと共存した哺乳類」・亀井節夫編『日本の長鼻類化石』・築地書館・1991、164-170ページ。