絶滅したナウマンゾウのはなし―太古の昔 ゾウの楽園だった
日本列島-(2)
〈(2)のまえおき〉
ナウマンゾウは、北海道の十勝平野の太平洋岸に近い忠類村にも生息していました。以下においても述べますが、忠類村は、現在平成の町村合併で、幕別町と併合し忠類地区になっています。
ナウマンゾウの化石が発見されたのは1969年7月のことですが、発掘が行われたのは同年8月15日のことでした。
忠類村は、村として行政的に独立したのは1949(昭和24)年8月20日、大樹村(現在の大樹町)から分村してスタートしました。当時の忠類村の人口は、3152人、戸数は534戸(忠類村編『忠類村の二十年』・1969(昭和44)年)でした。
ナウマンゾウの化石が発掘されたのは、村が誕生して20年目を迎えた年でした。特産品とてない村でしたから、ゾウが生息していた村として、一躍忠類村は、全国に知られるようになり、大勢の人々が観光を兼ねて訪れるようになりました。
ですから、発掘には。村を挙げての一大行事だったと言われています。大人から子どもまで発掘に参加したと言われています。
(2)十勝平野、忠類にもゾウがいた
1)話は少し変わりますが、1969(昭和44)年、北海道の旧忠類村晩成地区(現在の幕別町)では、専門家の先生方はじめ、多くの化石愛好家の方々の手で丸ごと1頭分のゾウの化石が発掘されました。当時、忠類村は、ゾウのいた村として全国的にも大変有名になりました。
ゾウが生息していた忠類を含む十勝平野は面積3600㎞2で、石狩平野の3800㎞2に次いで北海道では2番目の大平原として知られています。ちなみに、全国規模でみますと第3位です。石狩平野が第2位、そして全国で第1位は関東平野で、面積は1万7000㎞2あります。その関東平野にも実はナウマンゾウが生息していた痕跡がいくつも残されています。
たとえば、東京のど真ん中、日本橋の三越本店の近くに日本銀行本館がありますが、昭和に入っての本館工事のとき、地下9メートルの深さの地中から何とナウマンゾウの化石が見つかったので関係者は大騒ぎでした。これは大変有名な話です。
日本橋は、誰もが知る東京のど真ん中です。ナウマンゾウの一族が闊歩している、そんな情景を想像してみてはどうでしょう。とても愉快な情景だったに違いありません。それだけではないんです。日本橋では何頭ものナウマンゾウの化石が発見されています。
1976年2月、東京都中央区日本橋浜町で発見されたナウマンゾウの化石は、地表下2メートルの上部東京層から発掘されたもので、15万年前頃に生息していたゾウではないかと、発掘に当たった日本橋ナウマンゾウ研究グループの犬塚則久らは推測しています。
2)発掘されたナウマンゾウの年齢は、明確に推定されていませんが、歳をとったメスで背丈(肩の高さ)は約1.9メートル、掘り出された切歯(牙)の長さは88センチだったと測定されています。総じてゾウの雌は肩の高さが雄よりも低く、とくに切歯の長さが雌の場合は極端に短い点に特徴があります。ナウマンゾウも例外ではありません。
『東京都埋蔵文化財調査報告第8集』(1981)には、日本橋浜町のナウマンゾウの化石が、1976年2月26日、東京都中央区日本橋浜町の地下鉄新宿線浜町工区建設工事の現場、浜町駅北端からおよそ300メートル地点で下顎骨が発見されたことが記されています。
都の教育庁が大沢進や犬塚則久ら専門家の先生方に現地調査を依頼しましたところ、「多数の化石骨の存在を確認したので、関係各方面に協力を要請するとともに、発掘調査員を組織」(1981、63頁)して、1976年2月29日から3月4日まで本格的な発掘調査が行われたことなどが、前述の『第8集』(1981)において、詳細な発掘の経緯が報告されています。
浜町ナウマンゾウの骨格化石標本については、その後、専門家によって研究が進められました。発掘にあたった専門家の一人、高橋啓一は「大型の個体と小型の2個体の計3個体の骨格が混じっているが、このうち小型の2個体はほぼ同じ大きさで、数のうえからも産出した標本のほとんどを占めることから、復元は主に小型の2個体を使用した」(1985、日本地質学会第92回学術大会、セッション232)、と報告されています。
3)また、再度忠類のケースに戻りますが、ナウマンゾウ1頭分の化石が発掘された北海道の忠類村は、平成の大合併(2006年)を経て、北海道十勝総合振興局管内の中川郡幕別町と合併しましたので、現在は幕別町忠類地区ですが、合併以前は十勝平野の一角、南十勝に位置する北海道広尾郡忠類村でした。
忠類(旧忠類村)は、ナウマンゾウの化石が産出されたことで日本だけでなく、世界の古生物学者にも注目されるようになりました。化石が埋まっていた地層およびその周辺の地質調査から、約12万年前の更新世(2)後期(後期更新世)の頃、この地(忠類)は、ナウマンゾウが生息していたとする見方が、いまでは定説になっています。
ナウマンゾウが生息していた年代を知るには専門的な測定方法に依らなければなりません。その一つに、地層の層位学的方法を使って、化石の絶対年代を推定することが可能なのです。しかし、化石を包含していた地層の層序が12万年前のものだからといって、忠類産ナウマンゾウの化石もまた、その生息年代を12万年前と、安易に確定するわけにもいかないようなのです。
4)ここで、上述した「層位学的方法」とはどういうことなのか、一言触れておきましょう。層位学とは、古生物学や地質学に応用した場合に、同一地点の遺物ないしは地質時代に生息していた古生物の遺骸が古い地層の堆積岩から発見されたとき、それを一般に化石と呼んでいるのですが、その化石を包含している層位の上下関係によって遺物ないし化石の年代の後先を決定する方法を研究する学問が層位学といわれています。
とくに、地質的環境が大きな攪乱を受けていない地層においては,同一地点における下層の遺物ないし化石は、上層の遺物ないし化石より古いという原理も層位学に基づくものなのです。層位とは、地層の形成された順序を意味している言葉と考えればいいでしょう。
忠類のナウマンゾウの化石は、化石の産出層準が屈斜路羽幌テフラ(テフラ:Tephraとは、ギリシャ語で「灰」の意味です)の下位にあったことから、「約12万年前頃」のものと、地質学の先生方が推定されたのではないかと考えられます。
ちなみに、忠類ナウマン象記念館の1階中央ホールに常時展示されている「忠類産ナウマン象全身骨格の復元標本(複製)」の説明書きに依拠しますと、時代は「更新世後期初頭約11~13万年前」とあります。加えて、次のように説明されています。
「この象の仲間は、更新世の中期から後期にかけて日本列島にかなり多く生息し、約3万年前に絶滅した。本州各地で、化石の一部が発見されているが、ほぼ、完全な姿で発掘されたのは、この標本がはじめてである」、と記されています。
しかし、ナウマンゾウが絶滅した年代は、いまから2万年ないし1万5000年前ではないか、といわれてきました。そして、本書でもそのように書いてきました。上記の説明書きによりますと3万年前ということです。古生物学や考古学の世界ではこのようなことは珍しいことではないので、最近では驚かなくなりました。
化石の絶対年代の測定については、次の(3)で触れますが、炭素測定法14Cなどの科学的な手法が随分前から開発されており、いまでは本格的に、常時利用されるようになりました。
日本列島-(2)
〈(2)のまえおき〉
ナウマンゾウは、北海道の十勝平野の太平洋岸に近い忠類村にも生息していました。以下においても述べますが、忠類村は、現在平成の町村合併で、幕別町と併合し忠類地区になっています。
ナウマンゾウの化石が発見されたのは1969年7月のことですが、発掘が行われたのは同年8月15日のことでした。
忠類村は、村として行政的に独立したのは1949(昭和24)年8月20日、大樹村(現在の大樹町)から分村してスタートしました。当時の忠類村の人口は、3152人、戸数は534戸(忠類村編『忠類村の二十年』・1969(昭和44)年)でした。
ナウマンゾウの化石が発掘されたのは、村が誕生して20年目を迎えた年でした。特産品とてない村でしたから、ゾウが生息していた村として、一躍忠類村は、全国に知られるようになり、大勢の人々が観光を兼ねて訪れるようになりました。
ですから、発掘には。村を挙げての一大行事だったと言われています。大人から子どもまで発掘に参加したと言われています。
(2)十勝平野、忠類にもゾウがいた
1)話は少し変わりますが、1969(昭和44)年、北海道の旧忠類村晩成地区(現在の幕別町)では、専門家の先生方はじめ、多くの化石愛好家の方々の手で丸ごと1頭分のゾウの化石が発掘されました。当時、忠類村は、ゾウのいた村として全国的にも大変有名になりました。
ゾウが生息していた忠類を含む十勝平野は面積3600㎞2で、石狩平野の3800㎞2に次いで北海道では2番目の大平原として知られています。ちなみに、全国規模でみますと第3位です。石狩平野が第2位、そして全国で第1位は関東平野で、面積は1万7000㎞2あります。その関東平野にも実はナウマンゾウが生息していた痕跡がいくつも残されています。
たとえば、東京のど真ん中、日本橋の三越本店の近くに日本銀行本館がありますが、昭和に入っての本館工事のとき、地下9メートルの深さの地中から何とナウマンゾウの化石が見つかったので関係者は大騒ぎでした。これは大変有名な話です。
日本橋は、誰もが知る東京のど真ん中です。ナウマンゾウの一族が闊歩している、そんな情景を想像してみてはどうでしょう。とても愉快な情景だったに違いありません。それだけではないんです。日本橋では何頭ものナウマンゾウの化石が発見されています。
1976年2月、東京都中央区日本橋浜町で発見されたナウマンゾウの化石は、地表下2メートルの上部東京層から発掘されたもので、15万年前頃に生息していたゾウではないかと、発掘に当たった日本橋ナウマンゾウ研究グループの犬塚則久らは推測しています。
2)発掘されたナウマンゾウの年齢は、明確に推定されていませんが、歳をとったメスで背丈(肩の高さ)は約1.9メートル、掘り出された切歯(牙)の長さは88センチだったと測定されています。総じてゾウの雌は肩の高さが雄よりも低く、とくに切歯の長さが雌の場合は極端に短い点に特徴があります。ナウマンゾウも例外ではありません。
『東京都埋蔵文化財調査報告第8集』(1981)には、日本橋浜町のナウマンゾウの化石が、1976年2月26日、東京都中央区日本橋浜町の地下鉄新宿線浜町工区建設工事の現場、浜町駅北端からおよそ300メートル地点で下顎骨が発見されたことが記されています。
都の教育庁が大沢進や犬塚則久ら専門家の先生方に現地調査を依頼しましたところ、「多数の化石骨の存在を確認したので、関係各方面に協力を要請するとともに、発掘調査員を組織」(1981、63頁)して、1976年2月29日から3月4日まで本格的な発掘調査が行われたことなどが、前述の『第8集』(1981)において、詳細な発掘の経緯が報告されています。
浜町ナウマンゾウの骨格化石標本については、その後、専門家によって研究が進められました。発掘にあたった専門家の一人、高橋啓一は「大型の個体と小型の2個体の計3個体の骨格が混じっているが、このうち小型の2個体はほぼ同じ大きさで、数のうえからも産出した標本のほとんどを占めることから、復元は主に小型の2個体を使用した」(1985、日本地質学会第92回学術大会、セッション232)、と報告されています。
3)また、再度忠類のケースに戻りますが、ナウマンゾウ1頭分の化石が発掘された北海道の忠類村は、平成の大合併(2006年)を経て、北海道十勝総合振興局管内の中川郡幕別町と合併しましたので、現在は幕別町忠類地区ですが、合併以前は十勝平野の一角、南十勝に位置する北海道広尾郡忠類村でした。
忠類(旧忠類村)は、ナウマンゾウの化石が産出されたことで日本だけでなく、世界の古生物学者にも注目されるようになりました。化石が埋まっていた地層およびその周辺の地質調査から、約12万年前の更新世(2)後期(後期更新世)の頃、この地(忠類)は、ナウマンゾウが生息していたとする見方が、いまでは定説になっています。
ナウマンゾウが生息していた年代を知るには専門的な測定方法に依らなければなりません。その一つに、地層の層位学的方法を使って、化石の絶対年代を推定することが可能なのです。しかし、化石を包含していた地層の層序が12万年前のものだからといって、忠類産ナウマンゾウの化石もまた、その生息年代を12万年前と、安易に確定するわけにもいかないようなのです。
4)ここで、上述した「層位学的方法」とはどういうことなのか、一言触れておきましょう。層位学とは、古生物学や地質学に応用した場合に、同一地点の遺物ないしは地質時代に生息していた古生物の遺骸が古い地層の堆積岩から発見されたとき、それを一般に化石と呼んでいるのですが、その化石を包含している層位の上下関係によって遺物ないし化石の年代の後先を決定する方法を研究する学問が層位学といわれています。
とくに、地質的環境が大きな攪乱を受けていない地層においては,同一地点における下層の遺物ないし化石は、上層の遺物ないし化石より古いという原理も層位学に基づくものなのです。層位とは、地層の形成された順序を意味している言葉と考えればいいでしょう。
忠類のナウマンゾウの化石は、化石の産出層準が屈斜路羽幌テフラ(テフラ:Tephraとは、ギリシャ語で「灰」の意味です)の下位にあったことから、「約12万年前頃」のものと、地質学の先生方が推定されたのではないかと考えられます。
ちなみに、忠類ナウマン象記念館の1階中央ホールに常時展示されている「忠類産ナウマン象全身骨格の復元標本(複製)」の説明書きに依拠しますと、時代は「更新世後期初頭約11~13万年前」とあります。加えて、次のように説明されています。
「この象の仲間は、更新世の中期から後期にかけて日本列島にかなり多く生息し、約3万年前に絶滅した。本州各地で、化石の一部が発見されているが、ほぼ、完全な姿で発掘されたのは、この標本がはじめてである」、と記されています。
しかし、ナウマンゾウが絶滅した年代は、いまから2万年ないし1万5000年前ではないか、といわれてきました。そして、本書でもそのように書いてきました。上記の説明書きによりますと3万年前ということです。古生物学や考古学の世界ではこのようなことは珍しいことではないので、最近では驚かなくなりました。
化石の絶対年代の測定については、次の(3)で触れますが、炭素測定法14Cなどの科学的な手法が随分前から開発されており、いまでは本格的に、常時利用されるようになりました。