素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

絶滅したナウマンゾウのはなし(16)

2022年02月21日 11時46分33秒 | 絶滅したナウマンゾウのはなし
      絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
      日本列島ー(16)



   第Ⅲ部 ナウマンゾウ、北の大地へ

  〈第Ⅲ部1.の(4)と(5)の前置き〉

  ゾウは南方系の動物といわれています。ゾウと言えば南方の暑い地域を想像しますが、ナウマンゾウは北海道の幕別町忠類地区晩成からおよそ12万年前の化石が出たことが知られています。現在でも、忠類に近隣の冬は極寒の地、帯広動物園や札幌円山公園の動物園にもアジアゾウが飼育されています。ナウマンゾウもアジアゾウ属で分類されていますから縁がありますね。

  ゾウは体が大きいですし、皮下脂肪もありますから、かなりの寒さに耐えられようです。現在の寒冷地の動物園では、冬季の寒さ対策にしっかり工夫を凝らしているようです。南方系のナウマンゾウが温かい本州から、寒冷の北海道忠類にどのように渡ったかは専門家の間でも議論のあるところです。

  氷河期の津軽海の海面が下がり、水深が浅くなったとき陸橋となったと言う考えかた、専門家の先生方の間でもはっきりしているわけではないのですが海峡の氷橋と言う見方もないわけではありません。因みに、現在の津軽海峡の平均水深は130メートル、最も深い水深は449メートルという記録があります。


 (4)寒くても平気だったナウマンゾウ 
  
 1)亀井は、ナウマンゾウを扱った一般向けの啓蒙書をいくつも世に送ってくれています。前述の二冊(①『日本に象がいたころ』、②『象のきた道』)は大変良く読まれていますが、その他にも亀井には、編纂や共著も多くあります。その中の一つに、③『先史時代の日本と大陸』(朝日新聞社、1976(昭和51)年)があります。この③の中で、亀井は「野尻湖のナウマン象」(47~90頁)について執筆しています。

 書物としては一般向けですが、内容は大変密度の濃いもので専門家も手放せないナウマンゾウに関わる知見がどこそことなく煌めいている作品です。われわれのような素人が読むには、実に新鮮で驚きの連続なのです。

 亀井は、➂の「野尻湖のナウマン象」において、「先史時代の日本列島と大陸との
関係を、ナウマン象を通してどのように見るか」(『前掲書』③49頁)について言及しています。われわれはこれまで、ナウマンゾウが大陸から日本列島に渡来し生息していた頃の気温はいまと比べると温暖であり、温かったという見方をしていたのですが、実際にはそうではなかったのです。

 2)亀井によると、どちらかといえば、当時は、むしろ寒かったと指摘しています。それに加えて、亀井は「雪線高度」という概念を用いて、現在の北海道の「雪線高度」はおそらく三千数百メートルくらいだといっていますが、残念ながら北海道で一番高い山が大雪山国立公園の旭岳です。その高さは2,291mに過ぎないのです。それに降雪量も少ないので、北海道であっても氷河は存在しないというわけです。

 3)確かに、日高山脈には圏谷(けんこく:カール)の氷河地形が現在も残っている場所があります。最終氷期(7万年前~1万1700年前)の後半には,日本列島でも北アルプスでは雪線高度が2,500m前後に位置したといわれています。それが後期更新世の末期、完新世(1万1700年前~現在)に入ると、雪線高度は日本列島の高い山岳の頂上よりも上昇してしまい列島の氷河は消滅したというのが第四紀学会の専門家の先生方の見解です。

 亀井は、ナウマンゾウが生息していた時代の雪線高度について、もっとずっと下がっていて、「カ-ル氷河の位置から推定される雪線高度は、現在の位置よりも1700メートルから2000メートルくらい低かった」(『前掲書』③77頁)、と指摘しています。

 また亀井は、ナウマンゾウが生息していた時代には、多分「自由大気*の気温は、100メートルについて、大体0.4℃ぐらい違うわけですから、そういうことから換算しますと、おそらく氷河時代、ナウマン象がいたころは、現在よりも年平均にして8℃近く寒かったと推定されるわけです」(『前掲書』③78頁)、と分り易く述べています。

  *自由大気とは、地表面の摩擦の影響を無視できる高さにある大気のことで、地表面から約500乃至1000mから上の大気のことで、一般に1㎞から11㎞の自由対流圏の大気をいいます。地表面の摩擦や熱的影響を受ける地表面から500~1000mまでの層を大気境界層といっています。

 (5)ナウマンゾウは、津軽の海を越えられたか

 1)海底の変動について、亀井は昔の日本列島の状態を『前掲書③』で、以下のように説いています。すなわち、「津軽海峡、朝鮮海峡、対馬海峡の様子を見てみると、現在の津軽海峡の海底地形には、いま述べたような平坦な面とか谷が描かれているわけですけれども、一番深いところでも140メートルぐらいです。

 朝鮮海峡では120メートルぐらいが一番深いところといわれています。氷河時代の海面降下をいろいろ調べてみますと、比較的新しい時代に、海面が一番下がった時期は2万年前で、その低下量は140メートルくらいであっただろうといわれております。

 そうしますと、現在の津軽海峡、対馬海峡、朝鮮海峡は全部地続きになってしまうわけでして、そういう陸橋を通って生物の移動は十分に可能であった」(79頁)、であろうと指摘しています。

 2)亀井のこの考え方は、ナウマンゾウがどのようにして北海道に生息するようになったかを知る上では、実に重要なことなのです。これまで専門家の間では、津軽海峡の水深から考えて、陸橋が出来ることなど想定外だったようです。それゆえ、ナウマンゾウが本州から陸橋を渡って北海道に棲みつくことはないと考えられてきました。

 ところがナウマンゾウ研究の第一人者であります亀井に、2万年前に津軽海峡に陸橋ができていて、「生物の移動は十分可能だった」と指摘されますと、これは大変重みのある指摘と受け止めねばならないのです。亀井はこうもいっています。

 「4万年から5万年くらい前の様子ですけれども、陸地は現在よりは拡大しておりました。
朝鮮半島と九州との間は切れておりましたが、このあと、前に述べたように、2万年前に
はもっとも海面が下がって、そうした陸地はつながり、北の方では津軽海峡もつながって
サハリンを経てシベリアともつながっておりました」(『前掲書』③80頁)、と指摘して
いるのです。

 3)さらに、「もっとさかのぼって30万年くらい前になりますと、完全に陸続きになっていました。北のほうは切れているのですが、南のほうはつながっていた様子がわかっています。ナウマン象が日本にやってきたのもこの時期でしょう」(『前掲書』③80頁)、と実に明快に論じています。
地質学者の湊正雄(1915-1984)も、「日本列島の最後の陸橋」(『地球科学』第85・86号、1966)9頁Ⅵ「最後の陸橋」において、「私は、朝鮮海峡や津軽海峡が最終的に陸橋となっていたのはMaximum Würm の極相(20,000~18,800Y.B.P.)の頃」だと指摘しています。

 また湊は、「最近の地質時代における北海道の古地理的変遷ー(北海道の生いたち)」においても「例えば、マキシマム・ウルムにおける、深度140mの降下量 から、その頃の汀線が、現在の海底における140m等深線の位置に機械的に求められるとは限らない」(『福島町史』第1編第1章「津軽海峡成立史」による。)としながら、「北海道が海峡によって最終的に本州から隔離したのは、今を去る1万8000~1万7000年頃であろう」(前掲『福島町史』)、と述べています。

 以下、海峡形成史や海底地質学の専門家で、執筆当時、経済産業省工業技術院の大嶋和雄も、これまでに津軽海峡の陸橋問題に言及した論文を度々発表されています。

 小生も関心があって大嶋の本書に関連のある諸論文は、過去にいくつか勉強させてもらっておりますので、厚かましいのですが、以下の諸節の叙述に当たって少し引用させてもらいました。