素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

アケボノゾウをさぐる(10)

2022年06月22日 12時07分32秒 | 絶滅した日本列島のゾウたち
          アケボノゾウをさぐる(10)


  (2)アカシゾウも実はアケボノゾウだった
  
 ところで、アケボノゾウのことですが、調べれば調べるほど分かり難くなることが分かってきました。それでも専門家の先生方の研究成果に首を突っ込んでいろいろ勉強してみますと、アケボノゾウにはこれまでいろいろな名が付けられていたことが少しずつですが分ってきました。

 後でも触れますが、アカシゾウ、カントウゾウ、スギヤマゾウ、そしてタキカワゾウなどと呼ばれていたゾウがいたことがわかりました。それらは、現在では、どれもアケボノゾウであることが明らかにされています。

 そこで、少しばかり詳しいことを調べていきますと、とくに素人には難しい分類学上の問題が絡んできますので、それはとても厄介の問題でもあるのです。とくにわたしのようなど素人には、高い壁となっています。したがって中々思うようには前進できないのが現状です。

 いまではアカシゾウは、アケボノゾウと同じだとされています。神戸市の埋蔵文化センターが紹介している「アケボノゾウ(アカシゾウ)」1987(昭和62)年10月に同市西区の伊川谷町井吹の造成地で発見されて、同センターによりますと、神戸市立教育研究所を中心とした神戸の自然研究グループと京都大学などのメンバーによって、いまから200万年前の地層から発掘されたそうです。

 発見当時は、土地の名をとって、「アカシゾウ」と名づけられました。その当時は「新種のゾウと考えられていましたが、その後の研究の結果」、松本彦七郎(1887-1975)が1918(大正7)年に命名したアケボノゾウと同じ種類であることが判明し、いまでは、アケボノゾウと呼んでいます。

 ところで、アカシゾウについてですが、いまから86年も昔のことですが、高井冬二博士は、1936年にアカシゾウの学名をパラステゴドン・アカシエンシス(Parastegodon akashiensis TAKAI 1936)として発表しました。当時、高井博士は、アカシゾウをパラステゴドン属の新種のゾウであると同定しています。それはアカシゾウの化石が、過去において見つかっているゾウの化石とはまるで違っていたからです。それらの化石は、明石原人の人骨を発見したことで知られる直良信夫博士(1902:明治35ー1985:昭和60)や地元八木の住人で瓦作りが本職の桜井松次郎さんが西八木の青粘土層から採集したものでした。なお、直良信夫博士は、晩年の著作『学問への情熱』(佼成出版社、1981:昭和56)の中で桜井松次郎さんについて、化石研究の「好敵手」の一人だったと述べています。

 しかし、高井博士が新種としたのは、その後長い年月をかけて多くの専門家の研究調査が行われました。その結果、現在アケボノゾウと同じであることが解りました。そんなわけで、アカシゾウの命名からアケボノゾウと呼ぶようになるまでには、大変ややこしい経緯があったことが分かりました。

 さて、地元の化石収集家桜井松次郎氏が採集していたアカシゾウ(アケボノゾウ)の化石の多くは、明石市の林崎から東二見にいたる海岸の崖から発見、そして収集されていることが分かってきました。地元の住人は「八木は化石の海」と呼んでいるほど、昔からさまざまな化石が漁の網に引っ掛かって引き上げられていました。

 地元の人々や専門家の目は、直良信夫氏が発見した明石原人の腰骨に集まっていたようです。さまざまな明石原人発掘調査、そしてその経緯はしばらく横に置いておくことにして、ここでは1985(昭和60)年の国立歴史民俗博物館による明石原人に関わる本格的な発掘調査に少しばかり触れておきます。この調査は、同博物館の春成秀爾氏らにより、明石市西八木海岸で行われました。

 その後、春成秀爾氏らはその成果を「国立歴史民俗博物館研究報告」(第13集 明石市西八木海岸の発掘調査、1987・3)として同博物館から刊行していますが、その『研究報告書』「1. 発掘前史」(前篇 発掘調査の成果 / 第Ⅰ部 発掘調査)の文頭に下記のような一節があります。

 《瀬戸内海・播磨灘に面する明石市の,東は林崎から西は東二見に至る約8.8kmの間の海岸は,高さ12m前後の海食崖が連なり,屏風ケ浦の名で呼ばれている。この崖は,海が荒れるたびに崩れ,つねに新鮮な地層を露わにしていた。しかし,この海岸が地質学・古生物学の立場から注目されるようになったのは,昭和時代になってからのことである。》

 ここで春成氏が指摘している「地質学・古生物学の立場から注目されるようになったのは、昭和の時代になってから」、と言う文脈は、明らかに高井冬二博士の前掲論文(1936)以降における一連のアカシゾウ(アケボノゾウ)化石骨発掘を意味しているものと考えられます。

 高井博士とともに同年代に、もう一人古生物学の世界で功績のあった学者がいます。鹿間時夫博士がその人です。高井博士は東京大学で、鹿間博士は東北大学に学び、それぞれの研究成果を論文にまとめ、同じ学会誌Proceedings of the Imperial Academy of Japan(『帝国学士院記事』)に投稿し同時掲載されました。下記に掲載した文献(1)と(2)のページが19から24まで続いていることが分かります。

(文献)
(1)Fuyoji TAKAI(1936) On a New Fossil Elephant from Okubo-mura, Akashi-gun,Hyogo Prefecture, Japan. Proc.Imp.Acad.(Proceedings of the Imperial Academy of Japan)12, pp.19~21.
(2)Tokio SIKAMA (1936) Note on Parastegodon akshiensis TAKAI from the Akashi district.Proc.Imp.Acad.(Proceedings of the Imperial Academy of Japan)12, pp.22~24.

 ところで、1960(昭和35)年、当時中学生であった紀川晴彦さんが、この海岸の崖からゾウの牙の化石を発見し、紀川さんはその後もしばらく、自分一人で発掘を重ねていたといわれています。6年間かけて97点にのぼるゾウの臼歯化石や体骨の化石を採集しました。1966(昭和41)年に、大阪市立自然史博物館が発掘を引き継いだと言われています。発掘された化石標本はアカシゾウ(アケボノゾウ)の同一個体であったことから、全身の骨格標本がつくられて同博物館に展示保存されているそうです。