素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

素人の考古学:抄録・人の移動、その先史を考える(その3)

2015年04月25日 17時57分33秒 | 人類の移動と移住
抄録・人の移動、その先史を考える(その3)

               
 〔以下の記事は、小生がこれまで扱ってきた「人の移動史」(日本人の出移民小史)から、ふとしたことで、人の移動、その先史を専門家の孫引き・後追いで考えるようになり、ノートを作成する気になったもので、老化予防のために「80過ぎての手習い」といったものです。〕  

  (1)人は移動する生き物

  2)揺籃の地、アフリカからの移動ルート
  本稿では、上記の一つ目のルートを紅海-シナイ半島ルートと呼び、そして二つ目のルートをエチオピア・アラビア半島ルートと呼ぶことにしよう。これら二つのルートの呼び方はともかくとして、国立科学博物館の分子人類学者篠田謙一氏は、われわれの祖先のアフリカを離れたときの移動・拡散に関して、上記1)「人の移動の始まり-アフリカを出た現生人の祖先(新人)たち-」に掲げた二つのルートについて、「最近のDNA分析による拡散の研究では、ほとんどがこのルートを想定している」(『日本人になった祖先たち:DNAから解明するその多元的構造』・NHKブックス・2007年、51-52頁。)と指摘されている。
 
  また、ユーラシア先史学の権威、考古学者の加藤晋平氏が『日本人はどこから来たかー東アジアの旧石器文化―』(岩波新書・1988年、20~21頁。)において述べているように、「世界でもっとも古い、加工された石器が出土した遺跡としてエチオピア北部のハダル遺跡」がある。それは263万年前の遺跡であるが、エチオピアの南部にもシュングラ遺跡(206万年前から193万年前)の存在も知られている。しかし、これらの遺跡が出アフリカの現生人の祖先の拡散・移動の経路としての関わりについては必ずしも明確ではない。

  それはともあれ、篠田氏によれば前述の一つ目のルートについては、分子人類学的な解析からは、必ずしも時代が一致しないのではないか、と言われている。確かに、発掘された人骨など人類学や考古学的な研究からも「出アフリカ」の現生人類の祖先の拡散や移動の経路が明かにされるようになった。

  1990年代になると、分子人類学の進歩もあって、ミトコンドリアDNAの解析も進み「新人」(ホモ・サピエンス:Homo sapiens)の祖先が20万年から10万年前にアフリカで誕生したことも、そして12,3万年前ホモ・サピエンスの集団がアフリカを離れて地中海東沿岸に到達したが、気候変動で地中海沿岸もゆっくりと乾燥して行き、彼らの生活は厳しくなって前9万年頃には、地中海沿岸のホモ・サピエンスは絶滅してしまったことなども分ってきた。

  さて、前7万年~6万年頃にアフリカを出たホモ・サピエンスが全世界に拡散・移動したとするアフリカ起源説に依拠すると、われわれ現生人の祖先の誕生はきわめて新しいものとする見方ができるようである。生物学上の「ヒト」をホモ・サピエンスと名付けたのはカール・フォン・リンネだと言われている。リンネは二名法分類学を体系づけた分類学者として知られている。たとえば、ホモ(ヒト)は、その種が含まれる分類群の名前「属」である。後ろの「サピエンス」は、「種」の名前である。どちらもラテン語である。

  内外の多くの分子人類学者たちの研究によって、現生人のミトコンドリアDNAはすべて20万年前の一人のアフリカ女性にまで遡れることまで解析技術が進歩しており、こうした人類学の急速な進歩で、今では世界に拡散した人類の起源も解明されるに至っている。それゆえ、いろいろと議論の多い日本人の起源についても、4)で後述するように明らかにされるに至っている。

  ともあれ、従来型の考古学的人類学による人骨分析から、東アフリカに誕生した人類の祖先が何十万年もかけてアジアそしてオセアニアにまでも拡散・移動し、移り住むようになったとする説やその他にも現生人類(新人)の祖先は、氷結して陸続きになったベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸を南下し、拡散して行ったとする説などもある。そうした彼らはそれぞれの地においてどのような進化を遂げたのだろうか。