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人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(5)

2021年09月26日 09時58分49秒 | ナウマン象と日本列島
         (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウ(5)

           (初出:2015・8・19ー2016・4・19)



  (2)ナウマンゾウの化石が発見された忠類地区晩成の地形・地質(その1)

 1)ナウマンゾウの緊急発掘
 ところで、北海道でナウマンゾウの臼歯の化石が発見された場所は、これまでにも明らかにしましたように、現在の行政区(2006年2月以降)、北海道中川郡幕別町忠類地区晩成です。それは南北に伸びた幕別町の南端に位置しています。

 1969年8月から翌70年7月にかけての発掘により、四肢骨および脊椎骨、ろっ骨を含む化石骨46点が出土しました。発見地点の晩成は、旧忠類村字晩成地区で、当時国鉄広尾駅の東南東の11㎞に位置し、太平洋岸からは、約4㎞の地点にあり、内陸の標高は35m、旧忠類村全体を眺めてみますと、海抜は押しなべて10~300m、住宅地の場合は平均98.2m、幕別町役場忠類総合支所(旧忠類村役場)所在地の標高は  87mと計測されています。

 また、現在の行政の中心地、幕別町役場(標高:60m)は十勝平野の南部に位置し、帯広市(とかち帯広空港)から南に約50kmの距離にあり、アイヌ語では「チュウルイベツ」(波立つ沼川、急流と言う意味があるようですが)と呼ばれ、比較的平坦な地域です。役場の統計では、人口密度は57.8人(2015年3月31日現在)です。

 さて、化石が出土した地形およびこれら化石が包含していた層の層序、年代に関しては十勝団体研究会の調査で明らかにされています。また、札幌静修高等学校の大江フサ氏および札幌西高等学校の小坂利幸氏らの研究(1972年5月『地質学雑誌』)によりますと、ナウマンゾウの化石を産出した露頭を晩成第1露頭、東方約350mに位置する露頭を晩成第2露頭と呼んでいます。

 大江・小坂の前掲の論稿によりますと、「晩成第1露頭の地質層序は、ホロカヤントウ層と、それを不整合におおう相保島礫層からなる。ホロカヤントウ層の砂礫層は、3層の泥炭ないし泥炭質粘土層をはさみ、上位から第1、第2泥炭層、第3泥炭層と命名されています。ナウマンゾゾウ化石は、厚さ約3mの第3泥炭層の上面からほぼ80mの深さのところから産出された」ことが明らかにされています。

 実は、旧忠類村におけるナウマンゾウ化石発掘調査は、何段階かに分けられて行われました。1969年7月の臼歯化石発見後、8月から行われた十勝団体研究会が担当した発掘調査は「緊急発掘調査」として行われたものです。緊急発掘調査は、十勝団体研究会が担当して行われたのですが、話題性もあってメディアからは、全国的に取り上げられました。それにはそれなりに理由がありました。

 この緊急発掘でナウマンゾウ1頭分の骨格化石が掘り出されるのではないかという期待があったからなんです。日本の象化石研究の第一人者、すでに亡くなられた亀井節夫(カメイ・タダオ:1925-2014:京大名誉教授)も指摘されていることですが、ナウマンゾウは日本の洪積世化石哺乳類を代表する貴重な標本と考えられています。

 確かに日本各地において、部分的ですがナウマンゾウの骨格化石はかなりの量が産出されています。たとえば山梨市を流れる兄川の川底から、1961年6月の水害の後、7月5日住民が象の骨格のような化石を発見したのが契機になって、同年7月9日にナウマンゾウの右上顎第2臼歯の化石が発見されました。しかし、旧忠類村晩成で出土したナウマンゾウ化石のように、ほぼ一頭分に相当すると推測されるほどの化石は他の発掘場所からは産出していません。

 さて、十勝団体研究会が1969年8月に担当した緊急発掘調査から、同年10月には予備調査として第1次発掘調査が行われ、1970年6月に本発掘調査が第2次発掘調査として開始されました。ナウマンゾウ発掘調査は、学術的事業でありますから北海道開拓記念館開設準備事務所の事業として行うことも考えられたようですが、1969年8月の段階では十分に手が回らなかったこともあって、最初の発見・発掘者であった十勝団体研究会に全面的に発掘調査を委託すると同時に、全国的な発掘組織でもある「化石研究会」、長鼻類研究グループの研究者、そして各大学の化石研究の専門家の協力も得て大規模な緊急発掘調査が行われたのです。

 これらの経緯については、北海道開拓記念館が編纂した『忠類産 ナウマン象―その発見から復元まで―』(1972年)でも説明されていますが、下記の(文献)(3)に掲げた『ナウマン象化石発掘調査報告書』の41頁にも調査の詳細が掲載されています。

 とくに、上述の『報告書』3頁以下に、十勝団体研究会(以下において、「十勝団研」と略述することがあるあります)による「第一次発掘調査」についてもナウマンゾウ産出地点の地質等詳細が学術的に説明されています。

 1969年夏の十勝団研の調査は、同年8月12日から始まっていましたが、ナウマンゾウの臼歯が発見されたことが伝わり、8月13日からは、地質調査の主力を化石産出地点に移すことにして、お盆の間(8月13日から16日)は道路工事も休みであることもあって、その間に出来るだけ速やかに発掘することになったのです。これまで述べたこととの重複を恐れず、下記の諸文献を精査して、また「文献」(3)、(4)に依拠しつつ、少しきちんと整理してみますと、次のようになります。

 8月13日十勝団研(メンバー37人)は、十勝川河口付近の海岸段丘調査のために帯広駅に集まったところで、川崎技官、石田志朗博士(京大)からナウマンゾウの臼歯の化石が発見されたという知らせを受けました。そこで、団研のメンバー4人が化石を保管している武田安悦氏とともに臼歯化石発見の現場に駆け付けました。

 確認後、翌14日、十勝団研は十勝支庁が忠類村晩成で行われている道路工事の発注者(道路整備係長藤田守氏)、忠類村役場(建設課林中技師)、そして工事の請負者宮坂建設工業株式会社(土木部第二課長谷口隆一氏)に連絡、交渉の結果、発掘の了承手続きを取り、了解を得ました。

 8月15日には、石田志朗博士の協力を得て発掘に関わる調査、発掘、標本整理、記録、測量等の任務を決めて、さらにメンバーの分担を決めるとともに、工事現場での発見者恩田、細田の二人の協力も得て、道路工事個所、盛り土の中などの調査を行ない、象の牙の破片や下顎右臼歯、下顎左臼歯、頭骨破片、下顎破片などの採集に成功しました。

 8月16日には露頭のスケッチ、左右象牙の発掘にも成功した記録が残っています。そして17日には、側溝の発掘などを行い、左上腕骨、左僥骨、左尺骨。左大腿骨などの採集に成功しました。

 かくして、十勝団研による旧忠類村のナウマンゾウの「緊急発掘調査」が行われたことで、太古の昔忠類にゾウが生息していた確かな証しが村の人々にも明らかになり、ゾウのいた村として忠類は全国的にも注目を集めることになりました。


  (文献)

 (1)亀井節夫・樽野博幸「北海道忠類村産のナウマン象について」・The Geological Society of Japan 109,152 頁。
 (2)大江フサ・小坂利幸「北海道十勝国忠類村におけるナウマン象化石包含層の花粉分析」・『地質学雑誌』・第78巻第5号・219-234ページ、1972年5月。
 (3)北海道開拓記念館『ナウマン象化石発掘調査報告書』・北海道開拓記念館研究報告第1号、1971年3月。
 (4)北海道開拓記念館『忠類産ナウマン象-その発見から復原まで― 資料解説シリーズNo.1』・北海道博物館協会、1972.
 (5)池守清吉『回想 忠類ナウマン象の発掘・1985・10・12 忠類ナウマン象化石発掘15周年記念』・忠類村役場発行(発行人:忠類村長 白木敏夫)、1985年10月12日刊。本著執筆の池守清吉は元忠類村助役。