人種とは・日本人の昔を探る(22)
日本人の昔を探る(その2)
(6)縄文人の暮らしと「衣」について-その1-
縄文時代の住まいについての研究や発掘によって検出された資料が全国的に多いこともあって、豊富な成果が報告されています。しかし、縄文人がどんなものをまとって日常を過ごしていたかについては資料が大変少ないように思います。
考えればその理由はいろいろあると思います。一つは、縄文時代の前期は、最終氷期の最寒期(最盛期)が終わり、温暖期にあったことが考えられます。つまり、現在と比較して気候が温暖であった縄文の時代の中でも、縄文海進で温暖化が進んでいた時期だったと言えるからです。
縄文海進については、日本第四紀学会のQ&Aで専門家の先生が質問者に答えた記事を大変興味深く読んだことがあり、そのコピーをファイルしてありましたので、その一部分を下記に〔引用〕させてもらいます。
〔「縄文海進」とは、約7000年前ごろ(縄文時代に含まれる)に、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ侵入した現象をさします。この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。その後海面は現在の高さまで低下し、かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作りました。この海進の減少は日本では東京の有楽町で最初に調べられたこともあり、地質学的には「有楽町海進」、あるいは「完新世海進」とか「後氷期海進」などと呼ばれています。花粉化石や貝化石の研究に基づくと、「縄文海進」の時期の日本列島は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったことも推定されています。〕
と言うことで、海水準(海水面)が上昇したことが、温暖化の原因だったようです。そのことが前期の縄文人の日常まとう衣服と関連していたのかも知れません・
そんなわけで、縄文の人々の衣装は、この高い気温とも関係してくるのではないかと思います。1万3000年も前、更新世の末期は氷期から間氷期に変わる時期で、主に人々は移動型の狩猟生活をしていた時代が継続していたと考えられます。
オオツノジカなどを追いながらの仮住まいの生活で、まとうものも寒い時季には毛皮をなめしたものを着ていたでしょうし、暑い時期はほとんど裸同然の褌(ふんどし)のような、そして女性は腰巻のような、草の繊維で編んだ菰(こも)のようなものを着衣していたのではないか、と推察されます。
草と言いましても、布地の素材は、もともと草を乾かして叩いて作った植物性繊維が多いですから、驚くようなことではありません。それらの繊維から簾(すだれ)を編む要領で編んでおり、それを「編布(アンギン)」と呼んでいます。
素材となる草はアカソやカラムシなどの草の繊維を取り出し撚りをかけた糸です。今まで見つかった最も細かい編布は1cmあたり経糸(たていと)が7本、緯糸(よこいと)が10本となかなか目が細かいものと言われています。ここはいろいろな説があるようです。
衣服の素材が、こうした植物性繊維、動物の皮革だったりしますから、遺跡の発掘をしましても、縄文草創期や前期の人々が身にまとっていた着衣は土に還ってしまい、遺物として検出されることが少ないようです。編布は、後期、晩期に多くなり、素材の中には遺物として検出されたものもあったようです。
太古の昔の「原始布」と言われている布の原料とされてきたものには草本系が多いのですが、木(樹皮繊維)から、藤・シナ・穀(かじ)・楮(こうぞ)・桑・オヒョウ(漢字では、「於瓢」と書きます。学名:Ulmus laciniata)と言います。イラクサ目、ニレ科、ニレ属の落葉性の高木です。)・棕櫚(しゅろ、ヤシ目ヤシ科のシュロ属で常緑樹、高木です。関東など温暖な地に自生します。一昔前までは民家の庭に植えられていました。) 、そして草(草皮繊維)が多かったようです。たとえば、大麻(あさ、大変丈夫な繊維であることから、現在でも栽培している農家もあります。)、蕁麻(いらくさ、漢字で刺草と書くようにとげがあり、学名は、Urtica thunbergiana)と呼び、イラクサ科のイラクサ属、多年生植物です。)、葛(くず)、赤苧(あかそ)、青苧(あおそ)そして苧麻(ちょうま)の類など、が使われていました。
また、以上の植物性繊維につきましては、現世においても布の素材として、衣服の素材や麻袋などに用いれれている[麻]があります。