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再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (24)

2018年01月30日 18時42分31秒 | 島嶼諸国

   再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (24)

 

  第3章 失敗だったフィジー移住 

  

 (4)白米偏重の移民食と栄養障害

   日本人には脚気は珍しい病ではなく、何もフィジー島の移民だけが罹ったわけではなく、また脚気による死亡者はそれまでにも国内だけでなく軍では戦死者よりも脚気の病死者の方が多いことが問題視されたていた。

  フィジーの日本人移民が脚気に罹って多くの死亡者が出たのと同じ1894年夏(7月25日)から翌年春(3月30日)にかけて行われた日清戦争で白米偏重の陸軍は、41,000人余の脚気患者と4,000人余の脚気病死者を出しており、また陸軍は、1904年2月から1905年9月の日露戦争においても250,000人余の脚気患者と27,000人余の同病の死者を出した。

  脚気の原因が栄養障害であることを唱える高木兼寛(1849-1920)海軍軍医総監(1885、明治18年就任)の指導で麦飯、洋食系の兵食に改定していた海軍では脚気による死者はほとんど出なかったと言われている。

  しかし、脚気の原因が細菌によると考えた森林太郎(1862-1922)陸軍軍医総監(1907、明治40年就任)を始め陸軍医務局では、兵士1人1日白米6合の兵食を頑固に守り抜いたことで、多くの兵士が脚気に罹り、結果的には死亡させてしまったと言われている。

  その後、鈴木梅太郎が米ぬかのアルコール抽出物から精製したビタミンB1を発見しオリザリンという脚気に効果のある薬を開発したのは、日本人契約移民がフィジー諸島に渡った1894年から16年後の1910(明治43年)のことだった。それまでは恐ろしい病の一つだった。

  それは、日清戦争で亡くなった陸軍の兵士は300人、日清戦争で脚気に罹って病死した兵士が4000人に達していたと言われている程である。

  現地の移民監督者から脚気での病死者が出た旨急報が届いた段階では、吉佐移民会社は、当初その事態を想定内のこととして捉えていた節がある。と言うのは、江戸から明治にかけてはもとより、第2次世界大戦直後までは、脚気病に罹る日本人は非常に多かったし、死亡率も高かったこともよく知られていたからだ。 

  その理由は、白米を好む日本人にはビタミンB1の不足をもたらし、都会の人に脚気に罹る率が高かった。江戸時代も、脚気は田舎に住む人々よりも江戸に住む人々の方が罹る率が高かったので、脚気を「江戸病(やまい)」とか「江戸患い」と呼んでいた。

  また、明治以降では都会病とさえ見られていた。田舎では、米も都会の白米より玄米に近い二分搗き、三分搗きのコメを食べていたのと、米を年貢に納め、雑穀を食して我慢する農民が多かったことが、脚気に罹る率が都会に住む人々よりも少なかったのであろう。

  貧しい食であったが、農民は雑穀を通じて、知らず知らずのうちにビタミンB1を摂取していたため、脚気に罹る率は低かった。

  しかし、フィジーの日本人移民には陸軍の兵食と同じ1日6合の白米が支給されていた。タンパク質等の食材の支給が契約通り行われていなかったことが大きな悲劇を生むことに繋がったと推察されるのである。