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再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (31)

2018年02月24日 10時00分13秒 | 島嶼諸国

再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (31)

 

 ≪注及び文献について≫   

 (25)~(30)についての『文中の半括弧〈 )〉の上付き数字の注』は以下の通り。ただし、写真については割愛する。

   

  (注)

 

 1)国立社会保障人口問題研究所『日本の将来推計人口(平成24年1月推計)』(推計結果表:参考表10)の数値による。

 2) ハワイ王国政府の要請で、日本政府が3年契約でさとうきび畑に農業労働者として送った契約移民のことで、両国の条約に依拠して1885年から1894年まで9年間行われた。1894年にはハワイ王国がアメリカ合衆国に併合されたので、その後は新たに設立された日本の移民会社が移民の募集を行い、自由に移民させる私約移民又は自由移民時代に入る。

 3) 児玉正明「グアドループ島への日本人契約移民―広島県移民を中心にー(『広島県史研究8』)・広島県総務部県史編さん室・昭和53(1978)年3月31日、3-42ページ。

 4)国際機関太平洋諸島センター『フィジー(Fiji)』、2011年1月12日、3ページを参照。なお、フィジー諸島で一番大きい島は、首都スバのあるヴィチ・レヴ(Viti Levu)島で、一説にフィジーに入植した人々が森を切り拓く音が「ヴイチ、ヴイチ」と聞え、それが島の名前になったと言う説もある。したって、ヴィチ・レヴは、「大きなフィジー」とか「偉大なフィジー」と言う意味に解釈できるのでヴィチ・レヴ島のことを「フィジー島」と呼んでも間違ではないように考えられる。なお、言葉については、菊澤律子/アポロニア・タマタ編『標準フィジー語学習辞書』・東京外国語大学AA研、平成11年7月刊に依拠した。

 5)広島県『広島県移住史(資料編)』・第一法規出版(株)・平成3年6月、520ページ参照。

 6)Labasa(ランバサ)は、ヴイチ・レブ島に次ぐ第二の島ヴァヌア・レヴ島の中央部北岸に位置するフィジーの大都市で、製糖工場がある。Labasaは、フィジー語。Nadeと書いて「ナンディ」と読むのと同じで、Labasa と書いて「ランバサ」と読む。フィジー語では、子音Dの前にNを置き、子音Bの前にMを置いて読む決まりがある。したがって、Labasaと書いてランバサ(Lambasa)とMを入れて読む。Lanbasaではない。以下の地図は、参考までにThe Probert Encyclopaedia:Map of Fiji Islands1922を借用した。なお、フィジー語については次の3点を参照した。①菊池律子/アポロニア タマタ『標準フィジー語学習辞書』・東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、1999年7月。②Ph.D. Albert J. Schtüz/ 庄司香久子『フィジ語会話集』・泰流社、1987年8月。③Albert. J. Schütz,  Say it in Fijian: An entertaining Introduction to the language of Fiji. Suva, 2003.

  7)入江寅次『邦人海外発展史(上)』133ページによると、「移民は上陸後、下記の(原文では「左の」なっている。)三つの耕区に分かれ、大した不満もなく働いてゐた」、とある。入江が述べている三つの耕区とは、第一耕区がナメリー、第二耕区がランバサ、そして第三耕区がララワイとなっている。入江が言う第一耕区のナメリーと呼ばれる村落は発見できないが、スヴァの北東、ナウソリには古くから製糖所もあり、さとうきびの栽培も行われていた事実がある。入江の『前掲書』に第一耕区として「ナメリー」とあるのは、「ナウソリ」のことではないかとも考えられる。ナウソリ工場は英領から独立した後、1973年、フィジー政府はオーストラリア砂糖資本、コロニアル・シュガー・レファィニング・コーポレーション・リミテッドのナウソリ工場(サウス・パシフィック・シュガー・ミルズ・リミテッド)を買収した。

 8)広島県『広島県移住史(資料編)』・第一法規出版・平成3年6月、523ページ。

 9)豊原又男『佐久間貞一小傳』・秀英舎庭契会・明冶37年11月、89-92ページ。

 10)広島県立文書館所蔵の『平賀家文書』「移民雑件」(本稿27ページ「Ⅳ.終章」章末注8)の写真参照。同写真は、広島県立文書館において、2012年7月25日筆者撮影)の中には、航海中死亡者の水葬位置が「第690号村森榮太郎 右ハ、明治二十六年二月二十二日午前六時死亡セリ依テ東経137度北緯32度ノ所ニ水葬ス」、との報告を受けたという記載がある。 

 なお、「移民雑件」に記載されている「水葬」に関する記述例として、日本吉佐合名会社が手配した日本人移民引き取り船アフガン号がフィジーから神戸に向かう船上で死亡した日本人移民水葬の記録が記されている。

 11)広島県『前掲書』、523ページ。

 12)広島県『前掲書』、523-524ページ。

 13)広島県『前掲書』、519-520ページ。

 14)広島県『前掲書』、519-520ページ。

 15)広島県『広島県史近代現代資料編Ⅲ』・広島県発行・昭和51年3月、106ページ。

 16)広島県『(県史)前掲書』、107ページ。

 17)石川友紀「フィジー諸島における日本人契約移民(1894-1895)について―広島県移民を例とし-」(『移住研究』No.14)・1977年7月、63ページ。

 18)バーンズ・フィリップ(Burns Philip)社は、オーストラリアを拠点にした英国系商社である。クィーンズランド、シドニーに拠点のオフィスを持ち、現在ではニュー・ジー・ランドを始め太平洋諸島にも支社を置いている。ジェームス・バーンズ( James Burns) とロバート・フィリップ(Robert Philip)が1865年に設立した商社である。1870年代から南太平洋の各地で、また1900年代になると太平洋全般で海運、貿易、プランテーション開発などに力を入れて、英国が太平洋各地で覇権を握る尖兵企業になった。したがって、1870年代にはフィジー諸島のさとうきびのプランテーションを開発、所有していたと考えられる。

 19)豊原又男『前掲書』91ページ。

 20)入江寅次『明治南進史稿』(復刻版)・大空社(初版本:井田書店・昭和18年刊)・1997年1月、134-135ページ。

 21)吉村昭『白い航跡(下)』・講談社文庫・2009年12月、283ページ。

 22)松田誠「脚気病原因の研究史―ビタミン欠乏症が発見、認定されるまで―」(『慈恵医大誌』)・2006年・121号、141-157ページも併せて参照した。

 

 

 【参考文献及び資料】

 (1) 外務省編『移民調査報告書』(復刻版)、雄松堂出版・1986。

 (2) 広島県立文書館作成の「平賀家文書移民関係文書仮目録」(2011年3月)を借用し、その中から同文書館に寄託されている『フィヂ島移民関係書類第一回』(ただし、表紙には「明治27年2月」と表記されているが、内容は「明治26年6月―28年4月」の書類が1冊に収められている。)、『移民雑件』(「明治29年7月~33年3月」の書類が1冊に収められている)等数点を閲覧・現物筆記・撮影で得た資料を使用した。

 (3)『平賀家文書』(「フィヂ島移民関係書類」など)から多くの資料が引用されている広島県編纂の下記の県史①~④を参照した。

 ①『広島県史 近代Ⅰ』(広島県、昭和55年3月)。

 ②『広島県史 近代現代資料編Ⅲ』(広島県、昭和51年3月)。

 ③『広島県移住史(通史編)』(平成5年10月)。

 ④『広島県移住史(資料編)』(平成3年6月)。

 (4) 広島県熊野町『熊野町史(通史編)5、近代5-6』・昭和62年10月、393-410ページ。

 (5) 豊原又男『佐久間貞一小傳』・秀英舎庭契会・明冶37年11月。

 (6) 小林織之助『南太平洋諸島』・統正社・昭和17年4月、459-704ページ。

 (7) 南方産業調査会編『南太平洋諸島』・南進社・昭和17年9月173-188.

 (8) 国際日本協会編『太平洋諸島統計表』・東京・国際日本協会、昭和18年3月。

 (9) 入江寅次『邦人海外発展史(上)』(移民問題研究会・昭和17年刊復刻版)・原書房・昭和56年、120-138ページ。

 (10) 入江寅次『明治南進史稿』(井田書店・昭和18年刊復刻版)・大空社・1997年、120-156ページ。

 (11)児玉正明『日本移民史研究序説』・渓水社、1992年2月。

 (12)今野敏彦/藤崎康夫編著『増補移民史([Ⅱ]アジア・オセアニア編)』・新泉社・1996年3月、221-224ページ。

 (13) 小林忠雄『ニューカレドニア―契約移民の歴史―』・カルチャー出版社、1997年11月。

 (14) 鈴木譲二『日本人出稼ぎ移民』・平凡社選書145、1992年11月。

 (15) 石川友紀『フィジー諸島における日本人契約移民(1894-1895)についてー広島県移民を例としてー』(『移住研究』(14号)・国際協力事業団業務資料No.428・1977年7月、56-79ページ。

   (16) 佐藤 忍「明治期における日本人の労働移民」(『香川大学経済論叢』第72巻第2号)・1999年9月、451-477ページ。

 (17) 児玉正明「移民会社の実態」(広島史学研究会編『史学研究五十周年記念論集(日本編)』収載・1980年10月、459-484ページ。

 (18) 児玉正明「初期移民会社の移民募集とその実態―広島県の豪州クインズランド契約移民を素材に(広島県総務部県史編さん室『広島県史研究』広島県)・昭和53年3月、20-44ページ。

 (19) 脇村孝平「インド人年季契約性は奴隷制の再来であったのか」・『移動と移民:地域を結ぶダイナミズム』(岩波講座世界歴史19)・岩波書店・1999年8月、143-169ペー ジ。

 (20) 石川栄吉他4氏監修『オセアニアを知る事典』・平凡社、1990年8月。

 (21) 松田 誠『脚気を無くした男 高木兼寛伝』・講談社、1990年4月。

 (22) 吉村 昭『白い航跡(上・下)』・講談社文庫、2009年12月。

 (23) 斎藤實正『オリザニンの発見-鈴木梅太郎伝』・共立出版、1977年12月等参照。

 (24) 山下誠三『明治期における脚気の歴史』・東京大学出版会、1988年1月。

 (25) 山下誠三『鴎外森林太郎と脚気紛争』・日本評論社、2008年11月。

 

  以上でひとまず本稿は終わりにしますが、新たに「ナウマンゾウ」について考えて見たいと思っています。掲載開始がいつになるか、まだはっきり決めていません。