人種とは・日本人の昔を探る(30)
日本人の昔を探る(その3)
縄文人の農耕-その4-
1万年余にわたって続いたと言われています縄文時代の6つの区分については、前回述べましたが、大変分かり難いのが縄文晩期です。
流域面積でも、その長さでも滋賀県最大の河川ですが、野洲川流域には縄文晩期に水田稲作が伝わったと言う説があります。これまでにも、縄文晩期と考えられる遺跡から出土した土器では、弥生前期の土器が一緒に出土した例が多数あったと言われています。
朝鮮半島や中国大陸などから、水田稲作の技術を一つの文化として身に着けた弥生人が近畿一帯に渡って来て稲作を始めたことを契機に、その土地に住んでいた縄文人がその稲作技術を学び、水田稲作を行うようになったと考えられなくもないのです。
縄文時代晩期、弥生時代の初期はおそらく時間的経過が線引きしにくいので、かかる遺跡が出て来ても不思議ではないと考えられます。
また、時代的には弥生時代に入ってからのことですが、東日本に含めるかどうか、地質学的に議論もありますが、戦後発掘された静岡市駿河区の登呂遺跡からは水田稲作の跡や炭化米、農具などが発見されています。
かつては、稲作が日本列島では、弥生時代になって初めておこなわれたと考えられる切っ掛けになったのですが、これまでにも述べましたように、弥生時代以前にも縄文後期から晩期にも、西南日本就中、福岡(板付け遺跡)、佐賀唐津(菜畑遺跡)そして大分(大石遺跡)など、九州地方では縄文晩期に、農耕文化が見られるとする説が有力になり、さらには水田稲作が行われていたという考古学的にも確かな説がでてきました。
とくに1970年以降、九州地方(大分県大野郡緒方町大字大石遺跡)の遺跡調査が大がかりに進められるようになって、縄文時代晩期の農耕の可能性はいよいよ確実性を帯びてきたと考えられます。
縄文遺跡調査から言えますことは、およそ約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたとする説が有力になっています。
凸帯文土器が発見されて、弥生時代早期と縄文晩期の農耕文化の関係は考古学者だけでなく、遺跡に興味を持つ素人にも大きな関心がもたれるようになりました。
また、凸帯文土器に象徴される西日本の縄文晩期の文化は、弥生時代早期~前期における農耕文化と、極めて大きな関わりがあるとされています。
一つには、凸帯文文化が後の弥生時代の水田農耕(稲作)文化を受け入れ易くする土壌があったとも考えられています。
この時代、すなわち縄文晩期は時代的位置づけが難しく、たとえば、佐賀県唐津市にある菜畑遺跡もそうです。
縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて存在したとみられる遺跡ですが、調査の結果から最下層の水田跡からは、炭化した米や木製農具とともに縄文時代晩期ないし後半の土器が出土しています。
わが国で現在、分っている水田跡としては最古の水田ではないかと、縄文農耕文化をひも解くうえでも大変重要な遺跡として、考古学分野の専門家やイネの起源を探る研究者の注目を集めています。
以上、素人が描く、大変雑駁な「昔の日本人を探る」になってしまいましたが、ここで一拍置くことにします。
再び、太古のむかしに、日本列島に棲息していた「ゾウ」について、いろいろな角度から眺めながらまとめてみようかと、思っています。