素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(6)

2017年10月19日 19時15分57秒 | 島嶼諸国
再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(6)



  第1章 フィジーのプロフィール(6)―最終回-

 本章(第1章 フィジーのプロフィール)を終えるにあたり、上述した内容と一部に若干の重複は避けられないが、(6)の最終回では(1)-(5)までの全体をまとめる意味で、敢えて欲張った内容で叙述してみたいと思う。

 フィジーにいつ頃から人が住むようになったか、そして彼らがどこから移住してきたのか必ずしも明確ではない。一説では、移住して来たのは紀元前1300~1200年頃と言われている。

確かに、この分野の考古学者、言語学者の先行研究は豊富である。手近なところでは、たとえば2006年5月『ラピタ人の秘密』で片山一道、印東道子両教授が講演された際に用いられたラピタ人の移動地図「太平洋のバイキング・ラピタ人の植民(1600BC~1200BC)」、国立民族学博物館編『海の人類大移動:オセアニア』(2007年)に掲載されている「人類の移動と定住の軌跡」1)などしっかりした先行研究の成果は多い。

国立民族博物館編『前掲書』(2-1「大海原への植民―考古学からみたオセアニア文化」)、同(2-2「オーストロネシア語族の広がり―言語学からみたオセアニア文化」)は、何れも示唆に富む研究成果といえる。

 言語学・考古学からみたオーストロネシアンの移動は、紀元前1500~1000年頃、東南アジア方面からニューギニア、ヴァヌアツないしはニューカレドニアなどを経てフィジーに到達したのではないかと推察されている。ただ、フィジーに最初に移住した人々は、「ラピタ民」だったとする見方はピーター・ベルウッドも明らかにしている。ピーター・ベルウッドはラピタ民の移動について、次のように言及している。

  すなわち、ラピタ民であったことは、「彼らの遺伝子は、今でも海岸地帯に住む人々とか、ラウ島民の中に生き残っている。彼らが植民を開始してそれほど時を経ず、メラネシア民がやってきて彼らと混じりながら、島の内陸部に定着した」、とみている。

  彼らは叩目文土器を携帯したグループで、たぶんニューカレドニアからフィジーへと海を渡ったのだ。その彼らが話していた言語はラピタ民の言葉に類するもので、その言葉が融合することで、現代のフィジー諸島で話されている言語の元になったものと推察されると、ベルウッドは語っている。加えて、彼ら「ラピタ土器民」が、フィジー、トンガ、サモア諸島への最初の植民者、移住者だったことは間違いないとも指摘している(ピーター・ウッド著・植木 武/服部研二訳『太平洋 東南アジアとオセアニアの人類史』・1989年、322ページ)。

   また、フィジー諸島やニューカレドニア島で発見されている叩目文様土器は、紀元前1000年紀には、南中国、フィリッピン、そして東インドシナにかけて多く見られたラピタ土器である。それがフィジーにおいても紀元前1000年にすでに見られていたことは驚くべきことでもある。なぜなら、その後にフィジーでは、叩目文様土器の文化をもった民が移住して来たことを暗示することになるからである。

   石村智氏は、「ラピタ土器」(吉岡政徳監修『オセアニア学』・京大学術出版会、2009年)2)において、ラピタ土器の様式を精査して、フィジー、トンガ、サモア地域に分布するラピタ土器は、東ラピタ様式で、これらの土器は前期東ラピタ土器に先行する「早期東ラピタ様式」であり、ソロモン諸島方面から、フィジーの一部の島々に辿り着いたとも推察されている。

  さらに、ピーター・ベルウッドは、ラピタ土器の起源にも言及している。すなわち、「ラピタ土器の起源は、フィリッピン諸島か、あるいは北東インドネシアで、およそ紀元前2000年から紀元前1300年のころであったであろう」(ピーター・ウッド、邦訳『前掲書』、322ページ)と述べており、おそらく近い将来、詳細で、より精確な成果が期待できるだろう、とも指摘しているのである。

 (注)

  1)国立民族博物館(篇)『海の人類大移動:オセアニア』・「地図:人類の移動と定住の軌跡」、2001年。
  2)吉岡政徳(監修)『オセアニア学』(第1部コラム、石村智「ラピタ土器」)・京都大学学術出版会・2009年、
  101-103 ページ。

  (追記):次回から第2章フィジーに移住した日本人、と題して述べることにする。