素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(12)

2017年11月28日 17時07分01秒 | 島嶼諸国
再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(12)      

第2章 フィジーに移住した日本人(3) 

  (1)日本人移民、英領フィジーへ渡る

  3)フィジーより先にクイーンズランドに多くの日本人労働者が移住

  南太平洋のメラネシアに所属するフィジー諸島のサトウキビのプランテーションで働くため、日本人移民が吉佐移民会社の周旋で移住することになったのは、1894(明治27)年だったことは既述の通りである。

  しかし、それ以前、1891(明治24)には、すでにブルームを中心とする西オーストラリア州には322人の日本人が移住していた、と言われている。

  ブルーム(Broome)は、オーストラリアの西オーストラリア州のキンバリー地区にある町で、ダンピア半島の西の付け根にあり、インド洋に面しており、観光と真珠貝の採取を主な産業としている。当時の日本人移民も真珠貝の採集に携わる労働者として移住した。非常に過酷な作業を課されていたと言われている。

  また、1892(明治25)年には、フィジーよりも一足早く、オーストラリアのクイーンズランドの砂糖黍(サトウキビ)農場(プランテーション)に対して、バーンズ&フィリップ社の要請によって、吉佐移民会社は50人の日本人契約移民を広島県から募集し送り込んだ。

  また翌1893(明治26)年には520認を移住させた。クイーンズランドの砂糖黍(サトウキビ)農場(プランテーション)に送られた日本人契約移民は年を追って増加していた。

  1897(明治30)年、シドニーには日本領事館が開設された。このころの日本人契約移民等の労働者はクイーンズランドサトウキビプランテーションには900人、さらに19世紀には木曜島にも真珠貝の採取や高瀬貝・なまこ漁業などに携わる日本人移住者が900人も送られていたし、この他にもオーストリアにはメルボルン,シドニーでクリーニングなど商業などサービス業に280人が移住していた。

  木曜島(Thursday Island)については、司馬遼太郎の『木曜島の夜会 』(文春文庫)でも知られているが、ニューギニア島とオーストラリアとの間にあるアラフラ海のヨーク岬半島沖、トレス海峡の南部に位置するオーストラリア領トレス海峡諸島の島嶼である。