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再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(4)

2017年09月29日 12時24分58秒 | 島嶼諸国
再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(4)




  第1章 フィジーのプロフィール(4)


 ≪フィジーの歩みーラピタ人とラビタ土器≫
 
いろいろな説があるが、フィジー諸島に島民が住むようになったのは、およそ8000年も昔のことだといわれている。その人びとは、メラネシア系のパプア人だった。

 また、第一島のヴィチ・レヴ(島)で発掘された最古の土器は紀元前13世紀初期のものだと推測されている。しかし、次のような説もある。いまからおよそ3300年前、ラビタ文化を持つ人びとラピタ人が居住していた。彼らは海洋民族で、もとはといえば、ニューギニアの北東に位置する火山島群のビスマーク諸島のアドミラルティ諸島に忽然と現れた人びとだという。謎めいた民族である。

 彼らは、ラピタ土器と呼ばれる独特の土器を生み出した民族でもある。その土器は、精緻さを持つ幾何学的装飾が施された文様をもった土器であり、いわゆるラピタ土器といわれる「文化」を持っていた。

 彼らはその豊かな文化を携えて南太平洋の大海原を航海した民族として知られている。メラネシア島嶼部すなわち、ソロモン諸島、サンタクルーズ諸島、バヌアツ諸島、そしてニュー・カレドニアへと大移動を展開した海洋民族なのだ。

 そして、それから400年の年月を経て2500キロの海洋を東進した。そこにはフィジー諸島があり、そしてポリネシアのトンガ諸島、サモア諸島にも到達した。その証がラピタ土器、ラピタ文化だった。しかし、その後、彼ら(ラピタ人)は、忽然と姿を消してしまった、と言われている。

 片山教授は、『ポリネシア人 石器時代の遠洋航海者たち』(同朋舎出版、1991)の中で、かのラピタ民族がなぜ謎めいた民族と呼ばれるのかについて、「何しろ常識を超えたような民族だからである」(232ページ)、と述べている。そしてラピタ文化について、「ラピタ文化こそ、南太平洋で花咲いた多様な海洋文化の源流となった」(233ページ)、のだとも述べている。

 さて、フィジー諸島には、その後トンガ人も移住してきた。そのためにフィジーの中にはトンガ人の生活様式やさまざまな生活文化が移入されたのである。もともとフィジーをはじめメラネシアに住む島民の言語、形質的特徴、生活文化はトンガなどポリネシアの島民たちとは大きく異なるものだった。20世紀になって、メラネシアの島々では、その海岸部において、繊細な文様の土器も多く発見されるようになった。

 少し話は時代を遡るが、1643年オランダのタスマンがフィジー諸島の一部を発見したといわれている。1774年にはジェムズ・クックがフィジー諸島の近海にきて諸島を望観したがヴィチ・レヴ島やヴァヌア・レヴ島など主な島嶼に寄港することはなかった。クック2度目の太平洋航海をまとめたJ.C.ビーグルホールの『クック・太平洋探検』(下)・岩波書店(1994)、212ページ、(1774年)7月3日(日曜日)、午後4時(現地時間)の節で、次のように記している。すなわち、

 「陸地が小さな島であることを発見した。方位は北西二分の一西から北西微北にむかっていた。同時に、見張り台から、南西から西にかけてひろがっている白波が見えた。日はだいぶ進んでいてこれ以上これ以上発見を続けるには、適しなかったので、5時に縮帆し、船首を風に近寄せ、しばしば島の風上にむかって間切りながら夜を過ごした」、と。そして、日付けは入れてないが、「夜が明けてみると」とあるので、次にある文は7月4日のことが記されているものと推察できる。

 「11時、島の北西ないしは風下側に到着し、そこはたぶん停泊が可能だとは思ったが、確実を期するために、船を停めてボートを下ろし、航海長に推進を測らせた」、とある。航海長らのボートが島に近づくと、数人の島民らが森の中に隠れるのがみえた。島民らは20人位はいたが、逃げてしまったので、岸辺にナイフ、釘、メダルなどを置いて艦船に戻った。

 クックは、「見張り台から南南西にさらに多くの白波の砕ける場所が見えた」ので、あまり収穫があると思えない「ひとつの島に一日の残りの時間を費やすよりは、夜になる前にそこを探検しようと思った」、と述べている。

 さて、クックが7月4日に探検したと思われるその島は、J.C.ビーグルホールの注釈にいきょすると、フィジー諸島のその島は、南西部に位置するヴァトアという島嶼だったと指摘している。そしてまた、J.C.ビーグルホールは、この島は、クックが見たフィジー諸島の唯一の島だったとも記している。

 大分横道に逸れてしまっが、ラピタ人とは幻の航海民族、謎の海洋民族などと呼ばれるように、なかなか特定化し難い民族であることには間違いない。

 本稿では、フィジーの歩みの中で取り上げることになったが、彼らがは決してフィジアンの始祖ではない。いまでは、ポリネシア人の始祖とする説が通説と見なされている。

 小生は、好きで素人のお遊び程度に太平洋島嶼国の、主として経済問題、環境問題を学んでいるに過ぎないが、それでもラピタ人、ラピタ土器と向かい合わなくてはならないケースに遭遇する。そんな時、先人研究者の諸研究の成果に100パーセント依拠している。その一つの先行研究が、京都大学の片山一道教授、国立民族学博物館の印東道子教授の研究成果である。

 片山教授によれは、「オセアニアの先史学においてもっとも重要なキーワードとなるのが、ラピタ人と、彼らの担ったラピタ文化である」、と指摘されている。加えて、「ラピタ文化こそポリネシア文化の母胎となり、そして間違いなく、ラピタ人こそがポリネシア人の直接の祖先となった」(『前掲書』227ページ)のだと説いている。

 しかしながら、フィジー諸島をはじめとするメラネシアの国々、ミクロネシアの人びとなどもまた、ラピタ人そしてその文化の恩恵に浴して今日に至っているのである。