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人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(21)中本博皓

2021年12月07日 18時41分12秒 | ナウマン象と日本列島
(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(21)中本博皓

  (初出:2015・8・19ー2016・4・19)



これまでにも述べましたように、ドイツの地質学者で、初代東大理学部地質学教室の教授H・E・ナウマンが最初に研究したと言われているゾウの化石のいくつかのうちの一つは、神奈川県の横須賀製鉄所の建設用地の造成中に、製鉄所の医師として招聘されていたフランスの軍医で、植物学者でもあったPaul・A・L・サヴァティエ(1830.10.19-1891.8.27)によって発見されたものを用いたと推察できます。それは1867年のことです。本稿は、もう少し続くのですが、長くなりますので、以下の「結び(その5)」をもって終わる(最終回)ことにします。
 


  結 び(その5)―再び「白仙山」か「白杣山」かについて―

 最後になりましたが、ここでナウマン博士の1881年発表の論文「先史時代の日本の象について」(Ueber Japanische Elephanten der Vorzeit.)にほんの少しだけ触れてみます。すでに、20年ほど前、1996年に東海大学出版会から山下昇(1922-1996)訳『日本地質の探求―ナウマン論文集』(1996)が出版され、その一つとして「前掲の論文」も抄訳されて収められていますので、その内容は広く知られているものと推察できます。本稿におきましても、これまでに幾度か抄訳のごく一部を引用させてもらいました。

 今回は、1881年の原著(Ueber Japanische Elephanten der Vorzeit.)を参考に言及しておきましょう。まず、次のことを明らかにしておきましょう。ナウマンの論文の中表紙と思われる表紙には、表題(Ueber Japanische Elephanten der Vorzeit.)と氏名(Dr. Edmund Naumann1 )とが印刷されており、氏名には、脚注として1)を付けてあります。その1)には次のように書いてあります。

1 ) Die vorliegende Abhandlung war bereits Anfang November des Jahres 1880 druckfertig. Es lag bis zu der am 2.März 1881 erfolgten Absendung nach Europa in dem Bestreben des Verfassers, mit ihr eine Reihe Palaeontologischer und geologischer Arbeiten der geologischen Aufnahme von Japan zu eröffneu. Dieser Plan konnte leider nicht zur Ausführung gelangen, da die japanische Regierung gegenwärtig beabsichtigt, von der Publication wissenschaftlicher Berichte vorläufig ganz abzusehen. 

 大雑把な日本語訳をしますと概ね以下のようになります。その前に、表題のUeberと上記の文中にある下線の単語Palaeontologischerについて、差し出がましいようですが、「辞書を引いてもないよ」、と言う方もいらっしゃるかも知れませんので、老婆心で一言。

 辞書(独和)では、ueはü(ウムラウト)で表記しています。したがってUeberは、ほとんど100%の辞書でÜber(一つの例にすぎませんが、何々について)と表示されています。また、Palaeontologischerのaeは、äになりますから、辞書にはPaläontologischer(古生物学的な)と載っています。ナウマンの論文は、19世紀のドイツ語ですから、少々しんどいですね。南ドイツ地方には、近世の初め頃までは良く、こういう使われ方をしたと聞いたことがあります。ナウマンは東部のザクセン州で生まれていますが、勉強したのは南部のミュンヘンです。

 もう一つ余計なことを付け加えましょう。最近、Eメールでの連絡も多くなりました。Eメールで変母音(アー・ウムラウト Ä ä, オー・ウムラウト Ö ö, ウー・ウムラウト Ü ü )が出ないことが多いと思います。その場合は、アー・ウムラウト Ä äは、AE、オー・ウムラウト Ö öは、OE 、そしてウー・ウムラウト Ü üは、UEと打てばよいのです。もちろん、小文字の変母音も同じようにして下さい。 また、Überは、Ueberと書いてもいいわけです。

(訳)ここに提出した論稿(論文)は、実は、1880年11月の初めには印刷に回せるように出来上がっていた。その原稿が実際にヨーロッパに向けて発送されたのは1881年3月2日だった。それまでに、筆者が努力して行っていた研究(Arbeiten)は、日本の地質学的な測量・地図の作成(地質調査の仕事)など、それらとともに一連の古生物学的及び地質学的(Palaeontologischer und geologischer)な仕事(研究)を開始することだったのである。これらの計画は、残念ながら(leider)、実施にはいたらなかったが、(その理由は)それは日本の政府(japanische Regierung)が、現在のところ、全体的に学術的報告書の類の出版を暫くの間、差し控えているからである。

 ナウマンのこの脚注から明治初期の日本の事情が少しばかり分かるような気がします。ナウマンの論文Ueber Japanische Elephanten der Vorzeit.は、1881年6月に出版されています。他の書物では1882年と書いてあるのもありますが、1881年が正しいのです。それにしましても、同年の3月2日に日本からヨーロッパに向けて発送された原稿が、6月に刷り上がって出版されているとは随分早かったと思います。たとえば、慶応3(1867)年1月11日、徳川民部昭武が斉昭の名代でパリに出かけたとき、横浜出航してマルセイユまで約50日の航海でした。1881年は明治14年ですから、船便も40日くらいは必要だったと思います。日本から1881年3月2日に発送したとしても、マルセイユに着くのは4月の中旬でしょう。同年6月に出版されたのは随分と早かったように思います。

 それはともかく、ナウマンの論文「先史時代の日本の象について」(1881)は、序文を含む総頁数39頁、図版(Tafeln)7から構成されていますが、章、節に分けて構成されているわけではありませんから読みにくいです。

 つまり、一般にわれわれが知る学術論文のような構成ではありません。「章」や「節」は一切設けられていませんが、「序文」に相当する部分、「本論」に相当する部分、そして「結び」に相当する部分と言うくらいは、推測ではありますが分けることはできます。そして「本論」もまた、三つくらいに分けることはできるようです。ここでは、山下昇教授の抄訳に依拠させて頂きます。

 ナウマンの「前掲論文」を抄訳された山下昇(1922-1996)教授は、ご自分の論文「ナウマンの化石研究―ナウマンの日本地質への貢献4―」(『地質学雑誌』・第98巻第4号791-809頁、1992年8月)において、ナウマンの原文に従って、緒論、第1章「長鼻類の分類、特にMastodon属、Stegodon属、Elephas属について」、第2章「日本産のStegodonとElephasの記載」、そして第3章「第3紀後期〜第四紀における日本の古地理と古気候の変遷」と、四つに分けています。また、その後に行われた抄訳では、緒論は省いて、初めから、Ⅰ.長鼻類の分類、特にMastodon属、Stegodon属、Elephas属について、Ⅱ.日本産のStegodonとElephasの記載、そしてⅢ.第3紀後期〜第四紀における日本の古地理と古気候の変遷、の三つ分けて訳されています。

 ところで、横須賀製鉄所の用地造成のため地続きの山を切り崩す開削工事中の土砂の窪みの中から、製鉄所の医師サヴァティエ(Paul.A.L.Savatier:1830-1891)が発見した大動物の化石の一つが1881年6月出版のナウマンの論文Ueber Japanische Elephanten der Vorzeitの図版(Palaeontographiea XXⅧ.Ⅲ.F.Ⅳ、Elephas Namadicus Falconer & Cautley)として収載されています。ナウマンは、1881年の論文27頁でその化石問題に言及しています。以下、核になる文を引用してみます。

 すなわち、Der Unterkiefer wurde vor ungefähr 14 Jahren in Yokozuka gefunden. Bein Abstechen der grossen Docks hatte man einen Hügel wegzuräumen. Als nun dieser Hügel abgetragen wurde, stiess man auf eine halbverschüttete Höhlung. Hierin fanden sich die Elephantenknochen.
と、述べています。

 要するに、「この下顎は凡そ14年前に横須賀で発見された。大きなドックの掘削にあたって、一つの丘が取り除かれた。この丘が取り除かれたとき、半分埋まった窪みが現れ、(その中で)この象の骨が見つかった。」というわけです。以上の「訳」は、山下昇教授の抄訳文でも同じですが、実は山下昇教授の抄訳では、1か所だけ大きな違いがあります。下線の部分の「一つの丘」の後に〔白杣山:しらそまやま〕と加筆されています。つまり、取り除かれた「一つの丘」、上記の独文には“einen Hügel”の他は、原文には〔白杣山:しらそまやま〕らしき言葉はありませんが、抄訳文には〔 〕が付されて加筆されています。

本来なら「白仙山」と書くところを、誤って「仙」を「杣」と書いてしまい、後になって、その漢字に読み仮名をふられたのではないか、とも推測したりしています。それとも校正をした人が、漢字だけを見て読み仮名をふってしまったのか、いろいろと考えていますが全く分かりません。と言うのも、ナウマンのこの論文を抄訳される前に、教授は次の二つの同系統の学術論文を発表されているからなのです。

 文献(1)「ナウマンの関東平野研究―ナウマンの日本地質への貢献3―」(『地質学雑誌』第96巻第12号)・981-994頁、1990年12月号。
 文献(2)「ナウマンの化石研究」―ナウマンの日本地質への貢献4―」(『地質学雑誌』第98巻第12号)・791-809頁、1992年8月号。

 文献(1)989頁において、山下教授は「ナウマンがよくわからないと嘆いていた産状に関しては、後に長谷川善和81968」や蟹江康光(1985、1990)によって化石発掘の当時の文書が発見され、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)敷地造成工事の際に旧白仙(はくせん)山を開鑿(かいさく)した際に産出したものであることが明らかにされ、おそらく木津層(下末吉層に相当)から産したものと推定されている」、と明記されており、下線を施したように教授は、取り除かれた一つの丘が「白仙山」だったことを明記されており、「白杣山」とは書いておられないのです。

 さらに、1992年に書かれた文献(2)の800頁でも、教授はナウマンが1881年の論文27頁に記載した「一つの丘が取り除かれた。云々」を取り上げています。そこでは教授は「この丘は白仙山と呼ばれる」、とはっきり述べておられます。これらのことから考えて、1996年の抄訳本『日本地質の探求―ナウマン論文集』に収載した「先史時代の日本の象について」(1881)の141頁で、なぜ「一つの丘〔白杣山:しらそまやま〕が取り除かれた。云々、」と訳されたのか、いまとなっては全くナゾと言うほかないのです。

 横須賀製鉄所建設の用地造成に当たり取り除かれた一つの丘、それが白仙山であったことは、これまで調べた結果からも確かなことであり、「白杣山」という名の丘、または山は横須賀の地には存在していなかったことを書き添え、本稿の結びとします。なお、最近の資料として下記の3点を掲げておきます。

 資料(1) 赤塚正明・小泉明裕「E.Naumannが記載したナウマンゾウ下顎化石標本の再発見」・『地学教育と科学運動』(33号・2000年2月)、39-40頁。
 資料(2) 横須賀市自然・人文博物館菊池勝広編・執筆『横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念展 すべては製鉄所から始まった―Made in Japanの原点-』・2015年10月、127頁。
 資料(3) 山本詔一「横浜製鉄所」(神奈川県立図書館企画サービス部地域情報課編『郷土神奈川』・(54)・2016-03)、16-33頁。