素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

絶滅したナウマンゾウのはなし(23)

2022年03月30日 08時31分25秒 | 絶滅した日本列島のゾウたち
     絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
     日本列島ー(23)



  第Ⅴ部 忠類にもマンモスがいた

  (1) 忠類産ナウマンゾウ、半世紀ぶり故郷へ

  1)本書を閉じるにあたり、結びといいますか、終わりの章として、各章で述べてきたことを振り返りながら、以下「まとめ」をしておきたいと思います。

 もともと本書は、ほんの趣味のつもりで、それこそ〈ライクワーク(Like Work)〉で始めたナウマンゾウの博物館めぐりが高じて、書きとめた拙いブログの記事が土台になっています。「覚え書き」程度にと思いながら、それでも46回に亘って連載し、一段落したのを機に、本書では、分量も半分位に絞り込み、構成し直し、若干ですが文脈を整えました。

 本書で主に取り挙げているのは、12万年前とも30万年前ともいわれる太古の昔、北の大地に生息していたという忠類産ナウマンゾウについてであります。そのゾウのふる里は、北海道では石狩平野に次ぐ広大な面積を誇る十勝平野の東、それも太平洋に近いところに位置している中川郡幕別町忠類地区晩成です。2006年に平成の大合併で幕別町と一緒になるまでは、広尾郡忠類村と呼ばれていました。

  2)ナウマンゾウの奥歯(大臼歯)の化石二つが発見されたのは、村が、隣村の大樹村から分村して、新しく「忠類村」として誕生(開村)して、20周年の節目を迎えようとしていた1969年7月26日のことでした。

 丁度その頃、忠類村晩成地区では、道路工事が行われていました。その作業現場から、たまたまナウマンゾウの化石骨(臼歯二つ)が見つかったのです。作業員の振り下ろしたツルハシの跳ね返るカチン!という鋭い響きが、作業員の手の甲に伝わったそうです。そのとき地中から転がり出たのは、何と大男が履くほど大きなわらじのような縞模様の石の固まりでした。

 現場で作業していた大人たちが集まって、「これはなんだ、なんだ!」と、頭を傾げていたとき、工事を請け負っていた宮坂建設工業の測量助士として現場にいた一人の少年が、「それはゾウの歯だ」といったそうです。その春、中学を卒業したばかりで、定時制高校に通いながら働いていた児玉昌弘少年が、理科の教科書にあったゾウの歯に似ていることに気付いたことで、事態は急展開することになりました。

 少年の一言がきっかけで、ナウマンゾウの化石骨がほぼ一頭分、世界で初めて掘り上げられたのです。これには、『日本に象がいたころ』(岩波新書645、1967年)などで知られるわが国ゾウ研究の第一人者で、いまは亡き当時京大教授の亀井節夫(1925-2014)も脱帽だったそうです。

  3)それから3週間ほど経った8月15日、村は、お盆休みでしたが、役場、工事会社などの協力で、十勝団体研究会(略称は「十勝団研」;地層や地質を調査研究している団体)の先生方によるゾウ化石の緊急発掘が行われました。

 忠類の人びとは、ゾウの化石発見のニュースに、村を挙げて沸きに沸いたといわれています。その翌年(1970年)には、第1次、第2次と発掘調査(本調査)が行われ、ほぼ1頭分のナウマンゾウの化石骨が発掘されました。

 後期更新世と推定される層序から、12万年ぶりに忠類の地に蘇ったナウマンゾウの化石は、京都大学に送られ、亀井節夫 ら専門家の手で復元されて、忠類生まれのナウマンゾウの全身骨格標本(忠類産標本)が完成しました。それから、忠類産ナウマンゾウの全身骨格標本のレプリカは22体も作られて、「忠類ナウマン象記念館」をはじめ、多くの博物館で展示されるようになりました。

 その後、時を刻んで1988年、村には立派なナウマンゾウの記念館(忠類ナウマン象記念館)が落成しました。本物の標本は、札幌の北海道開拓記念館(現、北海道博物館)に展示・保管されていましたので、オープンしても忠類の記念館には、いまもそうなんですが、ずっとレプリカ(複製標本)が代役を務めて来ました。

 そして発掘から50年、半世紀の歳月が流れた昨年、2019(令和元)年10月、忠類では発掘50周年記念事業が開催(10月5日〜11月4日)されました。
ナウマンゾウの本物の全身骨格標本は、50年ぶりに里帰りを果たし、忠類の人びとは時を超え、世代を超えて、再び喜びを分かち合うことができました。