素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

絶滅したナウマンゾウのはなし(9)

2022年01月28日 07時54分55秒 | 絶滅した日本列島のゾウたち
      絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
      日本列島-(9)


 
  第Ⅱ部 ナウマンゾウの聖地 横須賀白仙山 


 (3)白仙山か白杣山か -横須賀産ゾウの化石をめぐって-

 1)日本の近代工業のルーツといわれる横須賀製鉄所(後に「横須賀造船所」と改称)建設用地の造成工事中(現在の米海軍横須賀基地)に、ゾウの化石が見つかった「場所」が、白仙山(はくせんざん)かそれとも白杣山(しらそまやま)かについて、少しばかり言及しておきましょう。

 1854(嘉永7、安政元)年の開国後、幕府は、1858(安政5)年、日米修好通商条約を結びましたが、その批准のため、1860(安政7、万延元)年2月、新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)を首席とする小栗上野介忠順(おぐりこうずのすけただまさ)ら総勢77人の使節団を米国の首都ワシントンに派遣しました。その際、一行は、米国海軍の軍港及び造船所も視察したと伝えられています。

 その後、いろいろと政治的な経緯はありましたが、1867年に幕府は、西洋式の艦船の建造に踏み切り、また諸外国から艦船の購入を進めるようにもなりました。とくに、西洋式の艦船の建造や大型船の改修・修理が可能な施設を必要とすることが分かり、幕府は、主にフランスの技術・人材等の援助を仰ぐことになりました。

 2)小栗上野介忠順、駐日フランス公使レオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Léon Roches:1809-1900)らを中心に、わが国の造船所としての適地を検討していましたが、1865(慶応元)年に、現在の横須賀の地に建設が決まり、1866(慶応2)年に、日本の近代工業の夜明けを告げる横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)の建設が始まりました。

 製鉄所の初代首長には、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニー(François Léonce Verny:1837-1908)が着任し、同年、ヴェルニーとともに幕府の役人たちが製鉄所の資材及び製鉄所で雇用する人材を求めて渡仏していますが、これもまた日本の新しい時代を築くための、外交の第一歩を刻むことになったのです。

 艦船を改修・修理する横須賀製鉄所内の主要施設として、1867(慶応3)年にはドライドック第1号の建設が開始され、4年後の1871(明治4)年に完成しました。同時に、製鉄所最初の新型洋風の「横須賀丸」の建造も併行して行われたといわれています。

 話は前後しますが、ヴェルニーが来日(1865)後に作成した横須賀製鉄所設立計画図案では、大々的なものになっており、第1号ドックの完成した後も第2、第3のドックを増設、造船台建設も予定されていました。そのため、製鉄所の用地拡張は緊急の課題でした。

 そこで製鉄所に近接していた標高45メートルほどの丘陵を成す小高い「白仙山」を切り崩して、大々的な用地の造成工事が行われたわけです。切り崩して造成した際の残土は、製鉄所東側にあった三賀保湾、白仙湾、内浦湾の埋め立てに利用され、それによって245,300平方メートル(約74,300坪)の埋立地が新たに造成されました。最終的には旧横須賀村は、363,000平方メートル(11万坪余)の造成が行われたことになります。

 3)もう数年以上も前のことなんですが、横須賀製鉄所の敷地造成のため開鑿された「白仙山」が、どういうわけか、横須賀には存在していない筈の「白杣山」(しらそまやま)という誤った記載のある文献が、横須賀産のゾウ化石に関する記述の中には数多く存在していることに気付きました。

 少しばかり気になりましたので調べてみましたところ、「白杣山」と書いてある文献は、何と十指に余るほど存在することが判明しました。

 何が原因でそうなったか分かりませんが、わたしがいえることは、権威ある文献とか、若しくは大家の文献に依拠したことが原因ではないか、と思います。それらの文献に、たまたま「白杣山」と誤記されていたことがそもそもの始まりではないでしょうか。

 わたしがファイルしている文献類の中で、「白仙山」と書くべきところを「白杣山」と誤記している学術論文で一番古いものは、96年前の1924(大正13)年9月発行の『地質学雑誌』第31巻合冊版です。

 しかし、それよりさらに10年ほど前、今から105年前の1915年に刊行された横須賀海軍工廠編『横須賀海軍船廠史』(第一巻)では、1871年開催の物産展に、大学南校の要求に沿って、造船所を管理していた工部省が「奇古獣骨」を送付したくだりの文中に、「白杣山開削ニ当リ土中ヨリ、云々」、と記されてあるのを見ますと、ここいらが「白杣山」派の源流なのかも知れません。

 わたしの関心事は、「白杣山」と呼ぶ丘陵が横須賀製鉄所の近隣に存在していたのかどうか、ただそれだけなのです。

 4)わたしが調べた限りでは、横須賀の地に「白杣山」は、今も昔も存在していないことが分かりました。それにしましても、「白杣山」と書いてある文献の多いのには驚きます。余りよく見かけますので、わたしは自分でも「白杣山」の方が正しいのかな?と、錯覚してしまうことがあるくらいです。

 たとえば、「ナウマンやブラウンスの記載したゾウ化石標本」(東京大学創立120周年記念『東京大学展:学問の過去・現在・未来』「第一部学問のアルケオロジー・第3章大学の誕生―御雇外国人教師と東京大学の創設」、1997年)も「白杣山」派です。しかもこの文献では、「白杣山」に「はくせんざん」と、丁寧にルビがついていますから、素人のわたしなどは、〔白杣山〕はそうも読むのかと錯覚し、どうしたものかと迷ってしまいます。

 素人の浅ましさから、興味本位にいろいろ調べて見ますと、実は、ナウマンゾウの専門家といえば、この人をおいて他にはいないだろう、と思われる先生でさえ「白杣山」派である方が何人もおいでになることが分かり驚いています。

 そこで、ナウマン先生はどうか、と高名な先生の「抄訳」を開いてみましたところ、何と〔白杣山:しらそまやま〕という言葉が目に入りました。

 ナウマン先生も「白杣山」派か、と諦めの境地になりましたが、思い直してナウマン先生が書いた1881年のドイツ語の原文の中に〔白杣山:しらそまやま〕という山の名が出て来るかどうか、改めてその部分を読み直したのですが、幸いにも見つかりませんでした。 

 ナウマン論文(1881)の「抄訳」は、同じ訳者による「ナウマン論文集」(1996)の一つとして収められています。

 訳文では、原文にある「一つの丘または丘(einen Hügel)」という言葉を、より具体的にしようと、わざわざ括弧書きで〔「白杣山」(しらそまやま)〕と記述されたのでしょう。訳者の先生は、ご自分の別の論文には「白仙山」と正確に書いてあるのに、なぜ?と考え込んでしまったほどでした。

 念のため、その部分についてナウマンの原文(1881,27頁。なお、下線は中本による)から、以下の通り抜粋しておきます。

Der Unterkiefer wurde vor ungefähr 14 Jahren in Yokozuka gefunden. Beim Abstechen der grossen Docks hatte man einen Hügel wegzuräumen. Als nun dieser Hügel abgetragen wurde, stiess man auf eine halbverschüttete Höhlung. Hierin fanden sich die Elephantenknoche
n.