素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

一日一日大切に生きること ー素人、考古学及び古生物学を学ぶー(12 ):中本博皓

2015年11月27日 08時48分47秒 | ナウマンゾウについて
抄録:日本にいたナウマンゾウ(12)




(4)太古の北海道十勝平野に生息していたナウマンゾウ



 1)沼にはまったナウマンゾウ
  北海道十勝平野旧忠類村で発見された12万年も13万年も、あるいは30万年も太古のナウマンゾウの化石の発掘は、全国的にも大きな関心を呼びました。これまでに何度も述べたことですが1969年10月の第一次調査に続いて、1970年6月には第二次調査が行われました。この調査で発掘されたナウマンゾウの化石は、1体分に相当する化石の大部分が発掘されたのですが、第二次発掘調査の意義も実はゾウ1体分丸ごと発掘にあったのだと言われています。

               沼にはまったナウマンゾウの想像画

             「沼に落ちたナウ...」の画像検索結果 

  第一次発掘調査の際には、ナウマンゾウの化石の周り様々な環境等の観察や分析が十分ではなかったこともあり、第二次調査では一次調査で十分とは言えなかった「ナウマン象の古生態、死因、当時の古環境、あるいは象と人類の関係、化石包含層の時代決定などに対するデータの収集」の精度を高めるためにもナウマンゾウの骨格全体の化石を発掘することが至上命令だったのです。ですから、第二次調査の発掘の意義は極めて大きかったと考えられています。

  さて、旧忠類村晩成で発掘されたナウマンゾウの化石の分析から言えることは、ハンター(人類)によって食料として捕獲、解体された後に廃棄された骨などの化石ではなかったからです。発掘後の専門家による研究の結果判明したことは、健康体の大人のオスのゾウであったことです。多分、沼などの餌場、水飲み場に入り、自力では動きがつかなくなり、命を落とした可能性が高いと推測されています。

  少し話が横道にそれますが、国交省北海道開発局帯広開発建設部が編集した『時をこえて十勝の川を旅しよう!』の第1章「十勝の平野や川ができるまで」(3「十勝平野が「陸地」になったころ」)では、その③に「ナウマンゾウ、忠類で沼にはまる」と言う項目がありますが、きわめて平易な口語調で小中学校の児童・生徒から一般の人々に向けて、次のよう語りかけています。

  「およそ12万年前、地球はリス氷期と呼ばれる寒い時期を終え、今よりも暖かい時期(間氷期)を迎えていました。十勝では南部を中心として、あちらこちらに大小の湿原が広がっていました。そのころ、十勝にはナウマンゾウという象が暮らしていました。ある時、ナウマンゾウの群れが今の忠類(幕別町)にあった沼にやってきました。水を飲みにきたのでしょう。その中の1頭(おとなのオス)が、沼に入ったところで死んでしまいました。ひょっとすると、沼の泥炭にあしをとられ動けなくなったのかも知れません。沼(湿原)の底にある泥炭の中では、生き物の死体があまり分解されず(土地にかえらず)長い間残ります。ナウマンゾウの死体は、くさりきるきる前に土砂によってすぐ近くの沼底にうまりました。ナウマンゾウの骨は、地中で長い眠りにつきました」、と。

  発掘現場(旧忠類村晩成地区)のナウマンゾウ化石包含地形、地層など古環境が大型哺乳動物の人類によるキルサイトであった形跡はないことなどから、経験不足の若い(24、5歳と推定されています)ナウマンゾウの湿地地域に対する錯誤が死因であるのかも知れないと見られています。ゾウは湿原地帯の泥沼にはまり、両前足を挙げてもがきながら沈んで行く姿の想像模型が「忠類ナウマン象記念館」に制作・展示されています。しかし、全体としてもがき苦しみながら沈む象の姿のリアルさにもう一工夫ほしいし感じです。

  2)ゾウ丸ごと1体分発掘
  しかし、第二次調査が「発掘」に重点が置かれていたため、発掘された化石から象の古生態、象を死に至らしめた原因解析のデータの記録、そして化石が発掘された周辺の古環境の観察データの記録が十分に行われなかったことなど、後になって反省点がいくつも指摘されたのです。北海道十勝平野の旧忠類村晩成地区における道路工事の現場から発見されたナウマンゾウの臼歯は、調査が進むにつれて世紀の発見として、従来の古生物学的な研究にも影響を与え、発掘の意義が評価されるようになりました。

  また、専門家だけでなく一般の人々の注目を引き化石ブームは全国的な広がりを見せました。広く知られていることですが、第二次調査(1970年6月27日〜7月3日)は、ナウマンゾウの骨格化石をほぼ100パーセントの発掘し完了したのですが、第三次調査においては、一層密度の高い調査結果がもたらされることにとなったのです。

  その第三次調査は、1970年10月26日から11月1日まで行われました。これまでの調査の反省点を踏まえ、解明していくのが主たる調査だったのです。それは、おそらくそれまでの調査結果に対して科学的に検討が加えられていく過程で必要になったものと思われます。その調査の骨格は、「ナウマン象化石第三次発掘調査研究報告」に依拠しますと、次の三つの側面に重点が置かれたようです。

  第1に地質学的調査、第2に古生物学的調査、そして第3に考古学的調査の三点が重視されたと記録されています。ところで、第1の地質学的調査の目的とは何だったのでしょうか。それは、ナウマンゾウの包含地層の層位学的検討しようとするもので、「北海道地下資源調査所」による発掘地点を中心に、東西5㎞、西北に4㎞の広域に渡る本格的なボーリング調査が行われた。同時に北大理学部地質鉱物学教室の有機物残存量測定などの研究協力も行われました。

  第2の古生物学的調査では、ナウマンゾウの化石が包含されている泥炭層の発掘を行い生息していたナウマンゾウの足跡、象の食料となっていたと思われる植物の化石、昆虫化石、花粉の採集などを通して、古生物環境に関する科学的なデータを蒐集しようとするのがこの調査の習いなのです。

  第3の考古学的調査では、古生物の棲息環境の分析から、これまでの調査で見つかっている角礫中の人工遺物と思わしき礫片を分析することから人類の生息の痕跡から、日本人の起源に踏み込めるのではないか、そうした観点から考古学的な調査が合わせて行われたものと考えられます。かかる考古学的な調査、研究は北海道開発記念館が担当したそうです。

  ゾウの化石が北海道の忠類村で初めて公式に発掘されたのは、1969(昭和44)年8月15日となっています。発掘場所は、当時、行政上は、北海道広尾郡忠類村字晩成でしたが、現在は平成6年の編入合併で、「北海道十勝振興局管内」の中川郡幕別町忠類地区となっています。
    
  すでに何度も述べましたが、実際にゾウの臼歯が忠類晩成での道路工事の現場で見つかったのは1969(昭和44)年7月26日のことでした。作業していた2人の作業員のつるはしにカチンと言う響きが伝わったことがナウマンゾウ全骨格の大発掘につながっのです。その話を聞いて、石のような化石を見せられたのが、中学校を卒業したばかりで工事の測量助士をしていた小玉昌弘さんだった。小玉さんは「それはゾウの歯だ」と即断したそうです。その一言がナウマンゾウ化石世紀の発掘のきっかけになったと言われています。

  ゾウの歯が発見された場所は、側溝から彫り上げられた泥炭がそのまま積み上げられていたところだそうです。高さ12メートルの崖には3層の泥炭の層があって、一番下の泥炭が、路面の50センチしたにあり、二つの臼歯はそこから発見されました。それからは、京都大学の地層研究家やゾウの化石に詳しい京大の故亀井節夫教授の指導で、その歯がナウマンゾウの右上第三大臼歯あることが分り、十勝団研の手で8月15日から緊急の発掘が進められました。

  十勝団体研究会編『ナウマン象のいた原野:十勝団研12年の歩み』(1974年)によりますと、何より驚いたのは、第1回目(第一次調査)の発掘で象1頭分の歯と牙など骨化石が発掘されたことです。ちなみに、掘り出さℛた化石は、1.右の上顎臼歯2つ、2.左の下顎臼歯1つ、3.右の牙1本、4.左の牙1本、右の肩甲骨1つ、5.左の上腕骨1つ、6.左の尺骨1つ、7.左の橈骨(とうこつ)1つ、8.右の大腿骨1つ、9.他に頭骨、下顎骨破片及びナウマンゾウ遺体に伴う動植物化石:植物化石(種子)5点、昆虫化石5点樹、樹木1点など大きな発掘成果が得られたのです。

  第二次調査では、ナウマンゾウの化石の発掘とともに、十勝団体研究会では化石が産出した地点及びその周辺の地質調査も進めていましたし、また化石が包含していた地層の研究も行いナウマンゾウ化石包含層の特性を解明しています。ナウマンゾウ産出地点は主として第3泥炭層でありますが、それは少し雑駁な表現をしますとホロカヤントウ沼の西に少し高い地形面があり、その面は東西に2㎞、南北に1㎞の広がりを持って分布しています。

  この地層はホロカヤントウ層と呼ばれておりナウマンゾウ化石を産出した地点の地層であります。忠類晩成付近の地層は、日高山脈東麓にあり新第三紀層を不整合に蔽う扇状地性の砂礫層が広がっている地域で、その中にホロカヤントウ層があります。ホロカヤントウ層には第一、第二、第三と泥炭層が三層を成していることが分っています。


  ホロカヤントウ沼は、行政上は広尾郡大樹町晩成にあり、太平洋岸に面しています。前にも触れたことがありますが、もともとはアイヌ語で「ホロカ・ヤン・トウ」とは、「後戻りして・揚がる・沼」の意味だそうです。満潮時には海水が沼一帯に入り、内陸の広い地域も昔は湿原だったと推測されます。ナウマンゾウの化石の産出地点辺りも12万年前には沼地が広がっていたのではないかと考えられます。

  ですから発掘されたナウマンゾウの化石は、既述のように、ハンターなどの追手にかかり狩猟されたものではなく、泥炭層に埋まっていたことからも理解できるように餌場にやって来て誤って沼の深みに嵌まって動けなくなり死亡したものだ、ということも発掘調査で明らかにされました。その根拠は化石が散らばることなく存在していたことからまとまった発掘成果が得られたと考えられるわけです。

  忠類晩成地区の泥炭層の中から発掘されたナウマンゾウの遺体/化石は「Elephas namadicus naumanni Mak.に属する同一個体のものと思われる」(109、亀井節夫・樽野博幸)丸ごと1体分、しかも4m×7mの区画内に集中して、そっくりそのままの姿だった(ただし、頭蓋骨はこなごなで復元できる状態ではなかった。それが、復元に当たって最大の悩みだった、と亀井は生前語っています。)ことで、世界にも例を見ないことで、それだけでも発掘の意義は大きく、また学術的にも意味がある点だと言われています。

  なお、亀井・樽野の手書きのメモ、下記の文献(2)の中で、「同年8月より翌年7月にかけての発掘により、四肢骨および脊椎骨、肋骨を含む化石骨46点が出土した。ただし、頭蓋骨および下顎骨については牙および臼歯を除いて失われていた」、とメモしてあります。ここで「同年」とは、1969年の発見年次を指し、「翌年」とは1970年を指すものと理解できます。

  亀井節夫(1925-2014)らによると、日本に生息していたナウマンゾウは、主として南方系と考えられてきただけに、北海道に生息していたとなると、これまでのナウマンゾウのきた道についての今までの考え方、見方を再検討しなくてはならいからです。
 


 (文献)
 (1)十勝団体研究会「ナウマン象化石産出地点付近の地質概要および化石包含層の特性」・『ナウマン象化石発掘調査報告書』(第1号)北海道開拓記念館、1971年3月。
(2)亀井節夫・樽野博幸「北海道忠類産のナウマン象について」・The Geological
Society of Japan 109 、152頁。
(3) 小西省吾・吉川周作「トウヨウゾウ・ナウマンゾウの日本列島への移入時期と陸橋形成」・『地球科学』・53巻・1999年、125~134頁。
(4) 中村 純「花粉化石からみた日本の後期洪積層」・『第四紀研究』・第12巻第2号・昭和43(1973)年6月、29から37頁。
(5) 赤羽久忠「日本のマンモス《ナウマン象》・『やまとと自然』(第3巻冬の号:1981)・富山市科学文化センター、昭和56年1月。
(6) 野尻湖哺乳類グループ『骨ほねクラブー発掘のための骨講座―』(第2版)・野尻湖ナウマン象博物館内野尻湖哺乳類グループ、2007年3月。
(7) 河村善也「日本とその周辺の東アジアにおける第四紀哺乳動物相の研究―これまでの研究を振り返って―」・『第四紀研究』・第53巻第3号・2014年、119-142頁。
(8) 山口昌一・佐藤博之・松井愈(まさる)「忠類地域の地質」・『地域地質研究報告書』・独立行政法人産業技術総合研究所(地質調査総合センター)・2003年、
46-49 頁。
(10) 大森昌衛・磯辺大暢・真野勝友・犬塚則久・成田層の古環境団研グループ「千葉県香取郡下総町猿山から産出したいわゆる“ナウマンぞう”の頭骨化石について(予
報)・『第四紀研究』第10巻・第3号・1971(昭和46)年10月、92-96頁。
(11) 亀井節夫『象のきた道』・中公新書514、1978(昭和53)年。