素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

ナウマンゾウについて、その「補遺編」(2)

2022年11月30日 10時31分50秒 | ナウマンゾウについて
ナウマンゾウについて、その「補遺編」(2)


  横須賀・白仙山開鑿跡地から発見されたナウマンゾウの
     化石について(その2)

  東京大学の地質学の初代教授としてドイツミュンヘン大学から招聘されたナウマンが科学的に研究したと言われている化石は、下顎に左右の臼歯が付いたもので、これは横須賀製鉄所首長フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニー (François Léonce Verny :1837 - 1908)家の写真(Machoire fossile d'e'le'phant,6 November 1867:ゾウの顎の化石)と比べて見て、横須賀・白仙山を開鑿した跡地から1867年11月6日に発見された獣骨(ゾウの顎)の化石と同じものであると推察されます。

  ヴェルニー家の写真のタイトルに「象の顎の化石」と記されていますから、すでに発見された時点で、製鉄所内では「ゾウの顎骨の化石」であることが分かっていたものと考えられるのです。大学南校の田中芳雄も、推察に過ぎませんがその情報を掴んでいたのではないかと思われます。したがって田中は、物産会に展示したいと考え、横須賀製鉄所から大学南校に送らせたのではないか考えられるのです。

  白仙山を開鑿した跡地から発見(産出)された獣骨の年月日につきましては、横須賀市自然・人文博物館発行の特別展示解説書13横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念展『すべては製鉄所から始まった-Made In Japanの原点-』(2015)第3編図版編「ヴエルニー本家伝来の横須賀製鉄所公式写真アルバム」(72頁から127頁参照)に依拠しています。

  なお、このことについては、すでに小生がまとめた「ナウマンゾウについて」のシリーズ〈再論・ナウマンゾウについて(Ⅱ)〉の中でも取り上げていますので、一部重複しますが、本稿では少し視点を変えて言及することにします。

  1867年11月6日に発見されたゾウの化石は、ヴェルニ-が製鉄所の医師としてフランス政府に依頼して招いた軍医で、かつ植物学者のポール・アメデ・リュドヴィク・サヴァティエ(Paul Amédée Ludovic Savatier, 1830-1891)が開鑿された白仙山の跡地を散策していて発見したものだと言われています。前述の「跡地」からは、他にもいくつもの「獣骨の化石」(ナウマンゾウの化石)が見つかっていたと考えられます。

  サヴァティエは1866年、横須賀製鉄所の医師として来日しましたが、彼は医務の傍ら日本各地の植物を採集し研究しており、後にフランスの著名な植物学者アドリアン・ルネ・フランシェ(Adrien René Franchet, 1834 - 1900)と共著による『日本植物目録』を発表し、彼はこの分野おいてもわが国に確かな足跡を残したことでも知られています。

  ところで、横須賀市自然・人文博物館には、ナウマンゾウの全身骨格模型が展示されています。博物館の説明では、ナウマンゾウはいまから「35万~2万年前に日本と中国に生息していたゾウのなかまで、横須賀市では2か所から化石が見つかって」いるそうです。横須賀製鉄所の敷地で見つかった獣骨の化石(ナウマンゾウの化石)が、何十万年前あるいは何万年前に生息していたであろうゾウの確たる年代は分かっていません。

  すでに述べましたように、いまではその地一帯は米海軍横須賀基地になっていますが、江戸末期幕府が横須賀製鉄所の敷地を拡張するために、西側に隣接していた「白仙山」と言う小高い丘陵を切り崩し造成しました。その造成地から、臼歯が付いたゾウの大きな下顎骨の化石が発見されました。

  この化石は、その後ナウマンゾウの名前の由来となった東京大学理学部地質学教室の初代地質学教授として招聘されたドイツ人ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann、1854 - 1927)によって、科学的に研究された歴史的なゾウの下顎の化石であると言われています。

  ミュンヘン大学を卒業したばかりのナウマンは1875(明治8)年8月17日に来日し、若干行き違いもあったようで即就任とはならなかったのですが、翌年3月には東京開成学校金石学地質学採鉱学教授になりました。そして1877(明治10)年4月には23歳の若さで東京大学理学部地質学教室の初代教授に就任、1879年~1880年に一時里帰りしていますが、たっぷり10年間在留し日本列島の地質調査に従事しました。1885(明治18)年7月12日に帰国しましたが、その間に調査した距離は何と10000㎞に及んだと言われています。

  ナウマンは来日してから、精力的に日本列島の地質、地形等に関する調査研究を行っていました。その一つは、1879年に『ペーターマン地理学報告』に「江戸平野について」(Ueber die Ebene Von Yedo. Eine geographisch-geologische Studie,1879.)を発表しています。   

  また、大学南校の物産会に展示された横須賀白仙山産のゾウの化石に関する科学的研究を成し、さらに「先史時代における日本のゾウについて」(Ueber Japanische Elephnten der Vorzeit,1881.)と題する論文を完成しています。

  この論文は、1881年ドイツの古生物学雑誌『パレオントグラフイカ』(Palaeontographica)から冊子で発表されています。小生の手元にありますのは、コピーですが、A4判の39頁+パネル(図表)の説明含めて7頁、併せて46頁の冊子です。