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再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (27)

2018年02月11日 11時17分35秒 | 島嶼諸国

    再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える (27)

 

 第4章 なぜ、日本人のフィジー移住は失敗に終わったか

    (3)の1「契約証」記載の「食」の中身

  1894(明治27)年4月26日午後11時にフィジー諸島最大の島(ヴィチ・レヴ島)首都スバの港に停泊し、外国船に乗り換えた。遅い夕食が出されたが洋食と称し食パン2枚だった。

  しかし、その後は主食に食パン1枚となった。同年4月29日午前11時30分フィジー諸島第2の島ヴァヌア・レヴ島のランパサー港に着いたが、それから10日間は「塩むすび」だけだった。それ以外の副食の支給はなかった。

  そして「漸ク五月十日頃ヨリ味噌醤油梅漬程ハ日々食シ候得共其他ハ契約証通リニハ少シモ無之乾魚塩魚生魚生肉青菜馬鈴薯等少シモ食スル事不能甚タ困難致居候其他初廻之処ニテ不自由多クシテ甚タ難儀ニ御座候」13)と、苦しい日々の連続だったと綴っている。

  この手紙を受け取ったら、すぐに東京の吉佐移民合名会社へ掛け合って欲しいと、現地の移民監督者山中政吉が広島県移民代理人の土肥積に宛てに書かれた書簡(明治27年5月13日付)14)が存在する。

  その書簡に書かれている内容から推察できることは、フィジーにおいて日本人移民たちが契約証の通りの食事が支給されていなかったことはが明らかにされていたのである。移民を送り出した側にとって大きな誤算であった。それ以上に現地の日本人移民のおかれた生活はひどいものだったのである。

  フィジーのヴァヌア・レヴ島のさとうきび農園(プランテーション)に雇われた日本人移民の3度の食事は、彼らの雇主、すなわち働く耕区主が支給する契約になっていた。

  フィジー諸島ではコメの生産が行われていたから契約通り白米中心の食事だったと考えられる。実際に支給されていた「食」及び「食材」の内容が契約証と同じであったとは言えない。この点については既述のフィジーヴァヌア・レヴ島のランパサーの日本人移民監督者山中政吉の明治27年5月13付書簡からも明らかである。

  オーストラリアのクィーンズランドのさとうきび農園(プランテーション)で働く日本人移民の「契約証」に記載されている内容と『平賀家文書』の一つ「明治二十七年十二月フィヂ島移民関係書類第一回」に収められた「契約証」に記載された支給「食材」はほぼ同じである。

  敢えて違いを指摘するならば、クィーンズランドの場合「日本醤油味噌漬物」についてと記載されているが、数量の記載がないが、フィジーでは「日本醤油味噌漬物及ビ青菜若クハ馬鈴薯一封度(百ニ十匁)」と、「青菜若クハ馬鈴薯一封度(百ニ十匁)」と支給数量まで「契約証」に記載されていた。

  それを参考にすると、毎日支給された食物の基本メニューは次の内容だったと考えてよいであろう。

 



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