第Ⅲ章 ナウマンゾウの旅路、北の大地へ
(2)津軽陸橋をめぐって-北の大地でナウマンゾウたちは-
ⅲ)津軽陸橋存立説は形勢不利か
津軽陸橋が事実として存在したのかどうか、その存在の可能性については未だ議論のあるところだと考えられます。津軽陸橋の存否は、津軽海峡西口の海底地形の特徴と由来に起因すると考えられますから、海底段丘だけでなく陸上の地形地質の測量資料の情報の分析から地殻変動にも検討を加えなければならないものと思われます。それでもなお、津軽海峡の最終氷期極相期においての陸橋があったのかどうかの議論の決着を見ることはできないようです。
その最大の理由は何なのか。多田隆治の論稿(『文明と海』・講座「文明と環境」第10巻3、1995)「日本とアジア大陸を結ぶ最終氷期の陸橋」(39頁)によりますと、その一つは、かつて海面があった位置を示す痕跡、すなわち「旧汀線推定に用いる海底地形の形成年代推定の曖昧さ」が指摘されています。その二つとして、「旧汀線推定に用いる海底地形の形成水深の推定誤差」だとしています。その三つとして、次のような場合もあるとされています。
たとえば、「相対的海水準低下量を推定した地点が問題となる海峡から離れている場合には、海底地形が観察された地点での地殻運動量と問題となる海峡での地殻運動量の差も問題になる」(多田『前掲稿』33頁)のだいわれています。
海底地形の形成年代は、陸橋の存在と深くかかわっているものと考えられているのですが、しかし、本稿で取り上げている津軽陸橋が存在したのかどうかを検討する要素として、海底地形形成年代、存在する海底段丘の問題などは極めて重要な要素だと考えられます。
前述の八島・宮内論文(1990)でもこれらの点に言及されています。津軽陸橋が最後に成立した年代を両氏の論文(1990)では、「絶対年代」という使い方がなされていますが、津軽陸橋が成立した「絶対年代」は「今なお特定できない」としています。すなわち、八島・宮内は、津軽陸橋が存在したかどうかについて、「その可能性をもつ海峡西口の海底地形の特徴と由来」を検証しています。その結果、竜飛鞍部では7つの海底段丘が存在していることも識別できるとしています。
海底段丘や陸上地形地質資料から知られる地殻変動との関連も検討してみて、それでもなお、最後の陸橋成立の絶対年代を確定することはできない、としていますが、「最低位の海底段丘(Ⅶ面)の形成後で双子型海釜(溝状凹地)の形成前に成立した可能性がある」(八島・宮内、1990)と、慎重な示唆を与えています。
30~40年前まではともかく、現在では第四紀学会に所属の専門家の多くは最終氷期(始まりは7万年前)の最盛期(最寒冷期)を2万1000年前頃と考えているようです。また、海洋全体で海水準の最低位水準は、専門家の間では120~130mと推測しているよう思われます。ただし、対馬、津軽両海峡鞍部の低位水準は135m前後と推測されています。少々非科学的な表現になりますが、第四紀学会の大勢としては、おそらく最終氷期の最盛期(最寒冷期)にあっても大陸と日本列島が陸地で繋がったことはなかったとするのが大方の見解です。
したがって、最寒冷期、大陸からヘラジカやマンモス、ナウマンゾウ等の大型哺乳類が渡来したとすれば、陸橋ではなく氷橋を歩いて来たのではないかという説もわれわれ素人からしますと、興味を惹きます。この説が最近では第四紀学会の一部に存在するやに聞いております。
確かに、素人には氷橋説もまた否定することはできないように興味はあるのですが、しかし、海峡形成史を専門とする大嶋によれば、およそ有り得ないことだと言下に否定されています。
すなわち、「流氷原を見たことのあるものならば、零下10℃以下のブリザードの吹きすさぶ氷塊の積重なった氷原を多数の哺乳動物群が歩いて渡って来ることは、不可能なことを知るであろう。とくに、草食性の動物が氷原を移動することは、今もありえないことをエスキモーは知っている。マンモス象、モウコ馬、オオツノジカが氷橋を渡るという考えは、ロマンチックではあるが、北国の冬を知らない人の想像である」、と一笑に付しておられます(大嶋和雄「海峡形成史(Ⅶ)動物分布を支配する海峡」24頁)。
肉食性動物群は別としてナウマンゾウやマンモスなど草食性動物群は氷原で大きな体を維持するだけの餌を得ることはできないと思われますので、短い期間の移動は可能であっても長期間の移動はできないと見た方が正しいように考えられます。大嶋のいわんとされているのは、多分その点ではないかと思います。