素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

再論・ナウマンゾウについて(Ⅱ)-38 中本博皓

2019年06月18日 06時57分18秒 | 再論・ナウマンゾウについて(Ⅱ)

       第Ⅲ章 ナウマンゾウの旅路、北の大地へ

 

 

  (5)ナウマンは第三紀末「鮮新世の時代」というが

 

  ⅰ)忠類と野尻湖の化石骨の違い

  本稿で取り上げてきた日本列島に渡来したナウマンゾウが生息していたと考えられる年代は太古の昔のことですから、いろんな考古学上の見方がなされてきています。長野県の信濃町の野尻湖の湖底からナウマンゾウの臼歯の化石が発見される以前は、ナウマンゾウが日本列島に生息していた時代について、古生物学界では180万年前から10万年前というのが大方の見方でした。

  ところが、地質年代の測定方法が進化した今では、地層の同位元素解析を行うことでかなり正確な絶対年代が推定できるようになりました。それによりますと、野尻湖の湖底から発掘された植物遺体の炭素14C同位元素測定法の結果によりますと、ナウマンゾウが発掘された地層の年代は、3万1000年前から1万6000年前頃との判定が出たのです。

  北海道の旧忠類村の晩成地区における道路工事の現場で見つかったナウマンゾウの大臼歯を手掛かりに、1970(昭和45)年6月27日に始まった第2次発掘調査では、埋積丸太が発掘されたのに続いて、6月29日の午前中には、ナウマンゾウの遺体の全容が現れました。発掘された丸太などを試料としたナウマンゾウの化石骨の炭素測定によれば、12万年前に限定されるものではなく、5万年前ないし4万年前くらいではないか。ナウマンゾウが北の大地十勝平野の忠類の原野を闊歩していたのは、実はその頃ではなかったのではないかと、いまではそんな推測をしています。

  年代が万年単位の化石骨であることは分ったのですが、忠類のナウマンゾウと長野県野尻湖の湖底に3万年もの間眠っていたナウマンゾウ、その決定的な違いとは何なのだろうか、そのことについて少し考えて見ることも大切ではないかと思います。

  野尻湖のナウマンゾウの場合、湖底に埋まっていたことで、化石が流れる危険性が想定されますが、北海道忠類村で発掘されたナウマンゾウの化石骨は、ほとんどの化石が、死んだときの姿態のままで埋まっていたので掘り出されてからの骨格復元作業が正確に行われたといわれています。

  前節でも述べたことですが、すでにゾウに関する多くの業績を遺されている亀井節夫(1925-2014)らの成果に依拠しますと、かつて、層位学の専門家で北大の松井愈(まさる:1923-1996)は、炭素同位元素の測定が進むことで、「忠類ナウマン象の発掘によって、栗山町の臼歯を含め日本のナウマン象の生息年代は、再考されることになるだろう」とまで、述べられていました(齋藤禎男『これがナウマンゾウの化石だ―忠類原野'70夏の感動―』・北苑社、昭和49(1979)年)。

  わが国には、周知のように「日本第四紀学会」と称する学会がありますが、この学会が説明しているところによると、「第四紀」とは、「地球の46億年にわたる長い歴史の中で、現在を含む最も新しい時代で、地球上に人類が進化・拡散し、活動している時代」であり、「年代的には約260万年前から現在までの期間で、大きく更新世(第四紀のはじめから1万1,700年前まで)と完新世(それ以後現在まで)に2分される」のが通説のようです。

  氷期と間氷期は、260万年前から100万年前までは、4万年の周期で繰り返し現れていたといわれていますが、100万年前からは10万年の周期で氷期と間氷期が繰り返し現れるようになったと推測されています。氷期には、海面が100m以上も低くなってしまい、大陸と島が繋がって古生物が移動できる細長い陸地ができたと推測されています。それは、太古の哺乳動物が移動に使った「道」でしたが、実は、大陸と島とを繋いだ陸地で、それを「陸橋」と呼んでいます。

  簡単にいえば、生物地理学上の橋なのですが、これまで述べてきたナウマンゾウもまたこの「陸橋」を渡って、大陸から日本列島にやって来たと考えられています。なんでそんなことが分るのかといえば、実は「第四紀」の地層からゾウの化石が発見されているからなのです。ナウマンゾウとその仲間たちはいつ頃から日本列島に生息していたかというと「日本第四紀学会」の研究者は120万年前と説く人もおります。

  次の叙述は亀井節夫が、『日本に象がいたころ』(岩波新書645、17-18ページ。)において、ナウマンが1881(明治14)年に「先史時代の日本の象について」(Ueber Japanische Elephnten der Vorzeit.)に関する論文を、ドイツの『古生物学報』に掲載していますが、それ(ナウマン論文)を引用しつつ問題点を指摘しながら言及されています。

  ⅱ)ナウマン博士の見解

  また、亀井は自らの著書『日本に象がいたころ』(1967、17-18頁)において、ナウマンの論文「先史時代の日本の象について」の中から、次の一節を引用し、紹介しています。すなわち、「象が日本列島に移住してきたのは、第三紀末の鮮新世(約一千万年前~二百万年前)のころで、その当時は今日の朝鮮海峡で大陸と日本列島とは陸つづきであった。

  この象の移動につづいて陸地は沈降し、海水の侵入により北方と南方への陸地の接合はあちらこちらで破れた。その後、海水面は再び低下し、陸地の上昇が今日までつづいている。しかしながら、第四紀の洪積世、氷河時代(約二百万年前~一万年前)にマンモスが日本に渡ってこられなかったのは、陸地のつながりがなかったからである。

  すなわち、日本列島が大陸とつながっていたのは第三紀のような古い時代のことで、そのころ生物地理区でいう旧北区の生物たちが日本に渡来してすみつき、その後、孤立化した日本列島で変異した」、というくだりです。しかし、このナウマンの考え方に対しては、ゾウなど大型哺乳動物の化石を第三紀鮮新世のものと見るのは間違いだとする見解もあります。例えば、以下のようにダーフィト・ブラウンスが厳しい批判を浴びせています。

  ダーフィト・ブラウンスの批判的見解を述べる前に、ナウマンの鮮新世の年代について触れておきたいと思います。ナウマンは第三紀末の鮮新世を約一千万年前~二百万年前ごろとしていますが、現在の地質時代の区分では第三紀は古第三紀と新第三紀に分けており、ナウマンがいう鮮新世とは新第三紀で絶対年代(基底年代)では533万年前から258万年前までをいいます。

  単に地質じだい区分の第三紀は、絶対年代では6430万年前から通常は260万延前ごろまでをいいます。大変大雑把ですが、第三紀は哺乳類動物の時代、第四紀は人類の時代という区分が行われています。