悠歩の管理人室

歩くことは、道具を使わずにできるので好きだ。ゆったりと、迷いながら、心ときめかせ、私の前に広がる道を歩いていきたい

あらしのよるに から

2012-04-11 22:21:00 | 雑記

小学校の低学年の頃の記憶。ビニールの原料はミミズだと、同級生に吹聴していた。
空き缶にミミズを入れて、火で炙ってみると、ビニールを燃やした後の姿に似ていた。
たまたま壊れた竹刀をもらい、弓を作って遊んだことがある。
矢はたぶんつなぎの釣り竿。先にボルトを縛り付けると良く飛んだ。
矢の先端にカミキリムシを2B弾と一緒に縛り付け、発火させ空に向かって放つ。
父が菊の栽培をしていたので、アブがたくさん寄ってくる。これらを捕まえておき、
瓶に詰め、2B弾を発火させて入れ、蓋をする。

こんな遊びを良くやっていた。

ある時期、シュバイツアーの伝記?を読み、
彼は蚊や虫を殺さないために、網戸を利用していたと書いてあった。
わが家に網戸が設置される以前のかなり昔の話。子どもの頃、網戸はなかった。
いつの頃まで蚊帳を吊っていたのだろう。

その頃から、虫が殺せなくなった。庭を歩くにも、蟻を踏まないように歩いた。
たしか、お釈迦様も一本足の下駄で歩き、不用意に虫を殺さないようにしていたと、
聞いたことがある。

自分が慈悲深いということを言いたいのではなく、この落差は何なんだろうと思う。
罪ほろぼし、だろうか?今は蚊や蠅(少なくなった)を叩くことは抵抗がなくなった。
ゴキブリは大きいので、少し抵抗がある。蝶は今も苦手だ。
小学校の高学年の頃、靴の中に蛾が入っているのを知らずに足を入れてつぶし、
恐怖感で一杯になった経験がある。

雀が手の中で死んだことや、エンゼルフィッシュが水槽から飛び出すと、
拾うのが怖かったことなど。
虫や小動物に恐怖感を持つ思い出が多い。

「あらしのよるに」は、ヒツジ(餌)とオオカミ(ハンター)の物語。
自然界では、当たり前の話。絵本や子どもの世界では、
食うものと食われるものが共存(仲良く)している。
とても感動的な話だが、よく考えると、設定に無理があるような気もする。
オオカミとヒツジが仲良くできるわけがない。
自然界に、ヒツジを食べないオオカミはいるだろうか。いる可能性はある。
しかし、例外中の例外。
あえて、前提を外して関係を作りなおしてみるという試みは、
何を訴えているのだろうか、何か意味があるのだろうか。
感動を覚えるということは、絵本の世界とはいえ、当たり前の関係から、
前提を取っ払い、考え直してみることの必要性を訴えているのだろうか?

肉親を殺されて、仕返しをしたいと思う気持ちには同調できる。
しかし、冷静に、法律をもって、国家の名において、処刑することには、
違和感がある。「私刑」は御法度だから、法で裁くと言うことなのだが…。
むしろ、仕返しのほうが納得できる気がする。
しかし、それでは、歯止めが利かなくなる…。

上の話と、死刑制度の話がどこかでクロスする。


<本日の歩行 なし>