悠歩の管理人室

歩くことは、道具を使わずにできるので好きだ。ゆったりと、迷いながら、心ときめかせ、私の前に広がる道を歩いていきたい

ら抜きことばから

2012-04-10 22:19:59 | 言葉

「学者芸人」という言葉を初めて知った。漫才コンビ・米粒写経の「サンキュータツオ」氏。
大学で、日本語学の講師をしているそうだ。
彼に言わせれば、「見れる」「見られる」は、「一字少なく表現できて経済的」、
「可能表現と敬語の区別も容易」なので悪くない。むしろ主流になるという。
時代とともに辞書も言葉も変わる、そうだ。確かに、数十年から百年をかけて、
違和感なく日本語に溶け込んできている言葉がある。
違和感を感じる人が少しずついなくなって、元からあった言葉のように定着する。
違和感を感じ続ける人がいれば、すぐに取り入れることができる人もいる。

あと百年もすれば、「半疑問」や「ら抜き」、「コンビニ言葉」なども定着するのだろうか。

「ウェブロンザ」という新聞から独立して有料で読ませる記事がある。
新聞に五分に一くらい書いて、期待を持たせ、後はお金を払って読んでくださいという。
あの手この手の売り上げアップ作戦だが、朝日新聞紙上で少しだけ読ませ、
同じ朝日のサイトでこの先は有料というのは、だまし討ちというか、違和感を感じる。
違和感の原因は、週刊誌の広告のような働きをした記事でありながら、
広告の体裁をとらず、有料記事に読者を引っ張り込もうとする、
朝日新聞の姿勢が感じられるからである。

ここで、生物学部教授の下條信輔氏が、「どの集団を単位に利害を考えるか」によって、
ことの是非や倫理規範が変わり得ると論じているそうだ。
日本の原発輸出の問題に、緒方貞子さんが危惧を表明したことに関して、
「原発輸出と利他行動~どの集団を愛するか」という視点で議論を展開しているそうだ。
読んでみたいと思うが、上記の理由で、お金を払ってまで読みたくはない。

「原発」に依存して生活している集団や、昔良くいわれた水俣問題に関して、
企業「チッソ」に依存している集団の場合も、自分がどこに立っているかで、答えが違う。

上記の言葉に強い違和感を感じる集団と、まったく違和感を感じない集団では、
やはり依って立つところが違うのかもしれない。
単なる好き嫌いの問題ではないような気がする。

<本日の歩行10.0㎞>~133日目
自宅~ほどほど~日赤~自宅10.0㎞(11:20~14:30)
※中央運動公園内は桜が満開できれいだった。