アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

650 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  31番~40番

2019-07-31 09:55:55 | 日記

40番まで一気に紹介する。


31番  三室戸寺 室町幕府が事実上滅亡した場所にある寺

 

京都府宇治市莵道滋賀谷21

山号  明星山

宗派  本山修験宗別格本山

本尊  千手観音(秘仏)

開基  光仁天皇

「三室戸寺」の画像検索結果

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

さらに南に向かうと宇治市に入る。京阪宇治線三室戸駅かJR宇治駅からさらに徒歩10分以上歩く。駅は(みむろど)寺は(みむろとじ)と読む。ここから宇治・山城方面は自家用車やタクシーの移動が便利だ。

参道は長い上り坂で10分以上歩く。すると蓮の花咲く庭園の向こうに広大な本堂がある。三室は御室であり光仁天皇(桓武天皇父)勅願のお寺である。御本尊は千手観音でその胎内に蓮の花が転じて出来たと伝わる小さな観音像を納めてある。完全秘仏なのでお前立を拝む。お前立は2臂だが千手観音像という。本尊は秘仏の為文化財指定は受けていない。京都にはこのように秘仏の為文化庁の査察を拒んでいるが故に国宝級でもその指定を受けていない仏像は多い。また、阿弥陀堂は親鸞聖人の父日野有範の墓跡に建てられたもので阿弥陀三尊像の脇侍は三千院同様「大和座り」である。大和座りとは、正座でやや腰を浮かしているもので、衆生の願いにすぐ対応する為だと解釈されている。

参詣後は、「与楽園」という池泉回遊式庭園をゆっくり巡ることにする。季節ごとにシャクナゲ、アジサイ、ハス、そして秋は紅葉も鑑賞できる。蓮の季節には「はす酒を飲む会」が催される。その日は、蓮の葉に酒を注ぎ茎から飲むのである。

さて、この寺は室町幕府滅亡につながる有名な合戦の地である。織田信長に導かれ上洛を果たした足利義昭が裏切って、幕府復権を狙って仕掛けた合戦である。二条城で宣戦布告した時は、8000以上の兵力を持ち侮れない存在であったが、ここ三室戸寺や槙島の地に逃げて来た時は圧倒的な信長軍団の前に降伏し、その後瀬戸の鞆の浦に落ち延びたが、事実上この地で幕府は滅亡したのだ。

因みに、本堂前には「貴乃花・若乃花の運勝手形」がある。残念ながら現在はご利益には期待が持てないが、やはり庭園が見どころの名刹である。たっぷり時間がある時にまた伺いたい。

 32番 興聖寺  京都には少ない曹洞宗寺院

 

宇治市宇治山田27

山号  仏徳山

宗派  曹洞宗

本尊  釈迦三尊像

開基  道元  

中興  永井尚政

「興聖寺」の画像検索結果

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

興聖寺は宇治橋東詰めから「さわらびの道」を南下し数百m歩くと左に総門が見えて来る。北方に真っ直ぐ伸びる参道は、「琴坂」と呼ばれ宇治12景に選ばれている。一点射線の見事な絶景で

ある。京都には数少ない曹洞宗の寺で、道元は最初にこの興聖寺を創建したが、比叡山からの弾圧が強く越前永平寺にのがれた。一方、臨済宗は時の政権とはうまく折り合いをつけ、特に鎌倉将軍家・執権北条家との関係がよく京都五山・鎌倉五山など設定し栄えた。夢想疎石や金地院崇伝などいずれも臨済宗の高僧である。結果、京の曹洞宗の寺院は少ない。

「そうどうしゅう」ではなく「そうとうしゅう」と読む。座禅の作法もちょっと異なり、壁に向かって座禅する。悟りを得る為に座禅する臨済宗に対して、只座禅を楽しむのが曹洞宗なのだそうだ。事前予約すれば毎週一般人に座禅道場を解放している。

さて、話は興聖寺に戻る。江戸時代になり400年の断絶を経て、5世の住職を招き再興したのが、武将永井尚政で代々永井家が援助して来た。この場所は最古の茶園と伝わる「朝日茶園」の地であり、今でも境内後ろの朝日山からの湧水が貯められ活用されている。

特徴ある山門をくぐると、庫裏がありそこに受付がある。奥の方は炊事場が見え僧たちの生活の場所と分かる。拝観料を納めてまず、まっすぐ北に行くと大書院があり明正天皇の御幸があった場所にも立ち入りが出来る。本堂である法堂には、本尊の釈迦如来三尊像が祀られる。そのさらに奥の祠堂殿には永井家の歴代位牌が安置され、聖観音像が見守る。この観音様は、左足の親指が持ち上がっていて直ぐにでも信者を救いに行けるように準備しておられる。開山堂は道元始め寺の高僧達の木造が安置された中国風のお堂である。中庭の西は僧堂で座禅する道場だ。凛とした空気の漂う空間は普段は無人なのだが、何か修行僧の息遣いが漂う気がする。途中の渡り廊下にはご利益抜群と評判の三面の大黒天があった。いずれの場所も撮影可能でオープンなお寺であった。

見学後、受付の尼僧から色々お話をお伺いした。座禅の事、臨済宗との違いなどなど、途中何度も「そうどう宗」と発音しその都度注意された。なお、興正寺と同じ発音の寺があるが、こちらは浄土真宗の寺である。京都には同名寺院や同発音の寺院が多く注意が必要である。

帰る時には、琴坂を下りながら左右から迫るもみじの枯れ枝を眺め、紅葉時に再び訪ねようと決心した。

 

33番 酬恩庵  一休さんの晩年はスケベ―

 京都府京田辺市薪字里ノ内102

山号  霊瑞山

宗派  臨済宗大徳寺派

本尊  釈迦如来坐像

開基  南浦紹明

中興  一休宗純

別称  一休寺

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

いよいよ山城地域に踏み込む、最寄りの駅は近鉄京都線新田辺駅だが、その後路線バスを乗り継ぐ必要があるので、車かタクシーの利用をお勧めする。京都駅から30分ほどかかるが、京阪奈バイパス近くに酬恩庵はある。大徳寺住職を務めた一休宗純の寺として有名であるが、筆者は、とんちの一休さんよりも晩年の人間味あふれるドロドロの一休さんが好きだ。

酬恩庵は、元は鎌倉時代初期の妙勝寺という寺を一休さんが室町時代に中興したものである。一休さんは大徳寺住職時代に、ここから10㌔近くの道のりを北大路の大徳寺まで通っていた。現在の酬恩庵の見どころは、将軍足利義教によって建てられた本堂と、方丈を囲む庭園群である。庭園は寛永の三筆の一人松花堂昭乗などの作庭で、北庭は蓬莱庭園、東庭は十六羅漢を表現し、南庭は白砂の大海を表現している。また、茶室「虎丘庵」にある「茶道の祖」村田珠光作庭の枯山水庭園も有名である。

そして最大の見所は、重要文化財の一休禅師座像だ。禅師没後、その頭髪と髭を植え付けたものであり、その表情は彼の生命力を現わすものである。生命力は精力であり、彼の晩年の凄まじさはつとに有名である。

森女という20代の盲目の美女と閨を共にし、快楽に溺れている。時に一休さん77歳、今でも考えにくいが、当時では驚異的な生命力である。「狂雲集」という書き物にその淫靡な実態を書き残している。

「一休さん」の画像検索結果

 「美人の婬水を吸う

 蜜に啓し自ら慚(はじ)ず、私語の盟

 風流の吟を罷()めて、三生を約す

 生身堕在す、畜生道

 潙山(いさん)戴角の情を、超越す

  美人の陰(おん)、水仙花の香有り

 楚()(だい)(まさ)に望むべし、更に応に攀()ずべし

 半夜、玉床、愁夢の間

 花は綻(ほころ)ぶ、梅樹の下

 凌波仙子(りょうはせんし)、腰間を遶(めぐ)る」   以上抜粋。

 現代訳はあえて書かないが、「淫水」とか、「蜜に啓し」「美人の陰」「腰間を遶る」など、字ずらだけでも想像に耐えない表現が続く。88歳で亡くなるまで愛おしんだと言われる。そして、臨終に際して行った言葉が凄い。「死にとうない。」である。大好きだ。一休さん。なお、一休禅師は南北朝統一時の後小松天皇(北朝)の御落胤だとされている。やはり皇族の精力はすさまじいのだ。

さらに山城地方を旅する。

34番 金胎寺  修行の場

 京都府相楽郡和束町原山

山号  鷲峯山

宗旨  真言宗醍醐派

本尊  弥勒菩薩

開基  天武天皇・役小角

別称  南大峰山

 

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一気に南山城地方まで足を伸ばす。JR加茂駅から奈良交通バスで「原山駅」から徒歩1時間かかる。もはやハイキングの域を超えた場所にある。自動車でも途中の林道は狭く離合困難となっている。寺に駐車場もないが、近くまで自家用車で行くことをお勧めする。南山城地域には名刹が多く移動手段には困るが、是非訪ねたい。京都府という行政区分は近年になってからで、文化圏としてはやはり奈良平城京との繋がりが深い。

金胎寺は天武天皇の時代の創建と伝わる。奈良大峰山と並ぶ修行の地として発展した。別名南大峯とも言われる。周辺は巨岩・奇岩が多く分布し修行には適していたのだろう。歴史的には、倒幕の旗を挙げた後醍醐天皇が、笠置山に落ち延びる時に立ち寄った事で太平記では有名だ。

多宝塔

奈良市内から40分ほどかけて、途中イノシシの親子に遭遇しながら、林道のはしに車を止めて急な山の斜面を登り10分ほど歩く。念のためイノシシの襲撃に備える為手ごろな棒切れを手に持つ。境内に人気はなく近年の台風などの大雨や気候変動の影響か周辺の森林は荒れ放題だった。本堂・多宝塔と巡る。特に多宝塔は鎌倉時代(1298年)伏見天皇の勅願により建てられたものと確認されている大変貴重なものだ。着色は完全に色落ちしているが凛とした姿は往時をしのばせる。周辺の行場巡りのコースがあったが、一周2時間と聞いて次回にすることにした。本尊は弥勒菩薩と案内にはあるが、無人の本堂には入ることも適わなかった。後で知ったが、ご本尊は醍醐寺霊宝館に寄託されていた。

ここはあくまでも修行の場所なのだ。観光気分では行けない。


35番 笠置寺  巨大摩崖仏の拓本を大阪万博で見られるか?

 

京都府相楽郡笠置町笠置山29

山号  鹿鷺山

宗旨  真言宗智山派

開基  天武天皇(大海人皇子)

本尊  弥勒摩崖仏

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修行の寺が続く。金胎寺から車がすれ違うのも困難な狭い道を30分ほど山を下り、木津川沿いをしばらく行くと笠置山登山口に着く。ちょうど京都からの伊賀街道、奈良への月ケ瀬街道の交差する辺りになる。本来は歩いて登るべきだろうが再び細い参道を車で20分ほど行く。

笠置寺も観光気分で行く寺ではない。標高300mほどの山自体が、寺の境内であり、そこが修行の場である。2000年近くも前から信仰の対象であったようだが、天武天皇勅願寺として良弁僧正によって巨岩に摩崖仏を彫りそれを本尊として発足した。その後、平安時代の末法思想の中で発展し、さらに歴史に名前が知れたのは、やはり太平記の時代だ。後醍醐天皇が一度目の倒幕に失敗した後、ここ笠置寺に本拠地を構えたのだ。ただ、残念ながらその戦火により多くの建造物が焼失し摩崖仏も熱により表面が剥落した。40分ほどの修行場巡りに挑戦したが、日頃の不摂生が祟り息が上がってしまった。しかし、朝方のにわか雨の時の水気を通じて吹く冷たい風が心地よく、気分よく山を下った。

因みに、受付にいたオジサン。地元のボランティアか、とにかく親切でよくしゃべる。本尊の摩崖仏は、ほとんど何も見えないが、拓本を採ると古(いにしえ)の姿が浮かび上がるのだそうだ。高さ10m以上もある巨大拓本を地元総出で採ったらしい。ところが大きすぎて展示する場所がなく、公民館の倉庫に眠っている。来るべき大阪万博での公開を目指していると言う。楽しみにいたしましょう。(笑)

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36番 海住山寺  国宝の五重塔が素晴らしい

 

木津川市加茂町例幣海住山境内20

山号  補陀落山

宗派  真言宗智山派

本尊  十一面観音

開基  良弁 聖武天皇

中興  貞慶

 

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こちらも京都より奈良の仏教界との関りの深い寺である。笠置山から木津川沿いに20分ほど奈良方面に行けば恭仁京跡の大きな石碑があり、そこから山道を登る事10分ほどで到着する。地域が一望できる高台の頂上に海住山寺はある。地域は、瓶原(みかのはら)と言い、山は三上山と言う。聖武天皇の時代の創建で、良弁が開山である。言うまでもなく東大寺初代別当であり、聖武天皇の大仏建立の祈願をこめて創設された寺だ。その後荒廃し、鎌倉時代に解脱上人である貞慶により再興された。見どころは、貞慶上人追悼の為に弟子の藤原長房(覚真)が、建てた五重塔である。50m以上ある東寺の五重塔に比べると20mに足らない塔だが、山上の境内で見上げると存在感は十分ある。特徴は、裳階という庇のようなものが一層の下に設けられているので6重に見える事だ。建設時のまま大きな修復もせず残っているので、国宝指定されている。本堂へは拝観料を払えば入れる。狭いが本尊の十一面観音立像は平安時代、四天王立像は鎌倉時代のものでいずれも重要文化財である。その他寺宝は多く遠くまで出かけて来た甲斐がある。なお、ふもとの恭仁京跡は国分寺跡と共に国の史跡に指定されている。奈良時代とは言え京都府内にある為、京都検定的には長岡京、乙訓宮、などと並び必須の情報である。

 

37番 浄瑠璃寺  現世に現れた極楽浄土の寺

 

木津川市加茂町西小札場40

山号  小田原山

宗派  真言律宗

開基  義明

本尊  九体阿弥陀如来・薬師如来

別称  九体寺

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浄瑠璃寺は南山城屈指の重要寺院で、豊富な国宝群に特別名勝の庭園を持つ古刹である。海住山寺からは車で15本分ほどだ。途中、アジサイ寺と言う別名を持つ岩船寺の三重塔も訪ねておきたい。この辺りは当尾の里と言われ、小さな石塔や石仏が点在している。浄瑠璃寺は、義明上人が平安中期に創建しているが、檀那(支援者)は奈良葛城の豪族である。当初は本堂のみだったが、干支一巡後の60年後、薬師堂など伽藍が整備されたようだ。しかし、浄瑠璃寺は何の予備知識がなくても十分楽しめる。まずは境内に入ると目の前に、浄土式庭園が広がる。池をはさみ東に薬師如来を安置する三重塔、西に阿弥陀如来9体を置く本堂がある。東は現世利益の薬師如来、西は極楽浄土へ導く阿弥陀如来という造りだ。池の東側まで行きまっすぐに池に映える本堂を眺めるとまさに極楽浄土の世界が見える。三重塔は平安末期に、一条大宮から移築されたものと言う。朱色が鮮やかな見事な安定感のあるものである。

本堂は9体の阿弥陀如来を安置する為に、11間の造りで、中尊のやや大きい阿弥陀如来を置くために中央部分を特に大きくとっている。このような9体阿弥陀堂は西暦1000年頃、末法思想の中で多く作られた。藤原道長の法成寺が最初の例で、道長はこの阿弥陀如来と糸で手を結びつつ往生したと伝わる。しかし残存するのはここ浄瑠璃寺くらいとなっている。本堂内には、それ以外にも木造四天王立像の内、持国天、増長天が安置されていて、こちらも平安時代の作だが保存状態が比較的良い、ここまで本堂、三重塔、阿弥陀如来9体、四天王像すべて国宝である。ただ、広目天、多聞天は東京・京都のそれぞれ国立博物館に寄贈されている。

加えて庭園は、特別名勝であり国宝扱いである。

境内は参観自由で池には蓮の花やその他季節の花・草木・紅葉と一年を通じて楽しめる。拝観料を払って、お宝満載の本堂内もゆっくり見ればたっぷり小一時間かかる。

このような平城京・平安京から遠く離れた地方豪族の支配地域でも立派な寺院が営まれた事が驚きである。そしてその為、応仁の乱始め多くの戦火にもあわず今日我々が、1000年の時を越えて昔(いにしえ)のまま眺める事が出来る事に感謝だ。

38番 大御堂観音寺  間近に拝む国宝十一面観音立像

京田辺市普賢寺下大門13

山号  息長山

宗旨  真言宗智山派

開基  義淵

正式名 観音寺

別称  普賢寺

本尊  十一面観音像(国宝)

 

 京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

京田辺方面に戻り、大御堂観音寺を訪ねるが、ここは同志社大学田辺校舎の近くだ。ここは奈良東大寺二月堂の「お水取り」の「お松明」に使う「竹」を献上する事で有名だ。そして是非見たいのは、国宝の十一面観音立像だ。創建は、白鳳時代と言うからかなり古い。そして東大寺初代別当良弁の時代に中興して伽藍が整ったと言う。やはり奈良の宗教世界との関りが深い。普賢寺と呼ばれていたその当時は、五重塔始め広大な敷地に壮大な伽藍を誇っていた様だ。室町末期に焼失して以来「大御堂」のみとなった。しかし奇跡的に本尊の十一面観音は奈良時代から今に至るまで残っている。その国宝を見る為に来たようなものだ。

本堂にお邪魔する。狭い堂内だが、威厳を感じる雰囲気の中、中央厨子に向かい手を合わせる。やはり御本尊は秘仏かと思って御住職にたずねたら、どうぞこちらへとおっしゃる。信じがたい事だが、内陣へ案内していただき、厨子の真ん前にお連れ頂き、どうぞご覧ください。と、ゆっくりまさに観音開きの厨子が開くと、目前に観音様が現れる。慈悲深いその視線に目が合うと、自然に手が合わされる。そして感動と言うより1200年の時を越えてここにおられる事を考えると、なぜか涙が出る。

仏様は女性でも男性でもないと言うが、やはり観音様は女性だ。ふくよかそうな胸、美しくしまったウエスト、薄布に覆われた下半身の妖艶さ。そして慈悲深い母の眼差し、どれも憧れの女性像である。セックスアピールと母への尊敬と同時に感じる。

親切な住職のお陰で、良い話と共に貴重な時間を過ごした。寺巡りはこのような出会いと感動があって誠に良い。

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39番 寿宝寺  本当に千本の腕が?

 

京田辺市三山木塔の島20

山号  開運山

宗派  高野山真言宗

開基  

本尊  十一面千手千眼観音菩薩

別称  山本の大寺

 

 

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寿宝寺も京田辺の同志社大学校舎のすぐ近くにある。うっかりすると見逃がすように町中にひっそり建つ。残念ながら住居兼寺院という一般的な檀家寺の趣きである。しかしここには、大阪藤井寺の葛井寺と奈良の唐招提寺と並ぶ千手観音の傑作がある。南都と平安京を繋ぐこの辺りには多くの歴史的寺院が多くあったようだが、歴史の経緯からいくつかの寺院が合併して出来たのが寿宝寺である。

狭い境内の中に5m四方くらいのお堂がありその中に安置されている。従ってごく間近に拝むことが出来るのだ。しかも寺の方の演出でお堂の扉を閉めて暗闇からわずかの光の中でまず拝む。昔、月光の中でひざまずき観音様を拝んだように慈悲の視線を感じる。そして扉を開けてまぶしいような太陽の光の中で拝む。その眼差しの違いを感じる。なかなか粋な演出ではないか。

凄いのは、実際に千本の手を持っていると言う事だ。数える気力はないが、普通千手観音の手は実際は42本の手であり、前で2本の手を合わせて印を結んでいる。そして残り40本の手がそれぞれ25の世界を救うとされ25✖40で1000本となる。しかし寿宝寺の観音様は実際に1000本の手を有し数々の珠宝を持ち、何も持たない手には眼がある千手千眼観音という事なのだ。

製作は平安時代というので重要文化財指定だが、先年蓮華王院の千手観音がすべて国宝指定されたのならば、こちらも国宝で良いと思う。また一般的に制作の都合上、千手観音は上半身に比重がかかるので下半身が短く短足になりがちだが、こちらはすらりとしたお姿が良い。ただただこの仏様を見る為のみ訪れるお寺である。

 

40番 蟹満寺  理不尽な蟹と蛇と娘の話

木津川市山城町綺田36

山号  普門山

宗派  真言宗智山派

開基  伝 秦和賀

本尊  国宝釈迦如来

 

 

 

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

蟹満寺は木津川沿いの24号線からJR棚倉駅と玉水駅の間を東に曲がる。木津川の支流沿いにその寺はある。こちらの目的は国宝釈迦如来像を見る事だ。

しかしまず、寺名の由来になっている「蟹の恩返し」(今昔物語集)を紹介する。『昔、この里に慈悲深い父と娘がいた。娘は子供たちが蟹を捕まえるのを見てその蟹を逃がしてやりました。一方、父はカエルがまさに大蛇に飲み込まれようとするのを見て、カエルに成り代わり蛇に許しを乞うた。蛇はそなたの娘を嫁にくれるのなら許すと言う。仕方なくそうすると言ってカエルを逃がしてもらった。その夜、早速大男に姿を変えた蛇がやってきて娘をもらいに来たと言う。困った父は、三日だけ待ってくれと言うと一旦帰った蛇は、三日目の夜に家の周りで大暴れした。明け方、静かになったので外に出ると、大量の蟹の死骸と蟹に切り刻まれ息絶えた蛇が横たわっていた。二人は蟹と蛇の供養のために観音堂を建てたのが、蟹満寺の始まりである。』という話だ。

従って、当初は観音様が本尊であったようだが詳しい事は分からない。現在の本堂は9年前に建て替えたものなので白木や着色の鮮やかな建造物である。周囲の設えも新しく門や手水に至るまで新しい。そのような中に奈良時代作成の国宝仏があるとは思えないが、拝観料500円を払い本堂に入ると、中心に丈六の釈迦如来坐像が堂々と配されている。銅像の黒光りが時代を感じる。内部周辺の壁には先ほどの蟹の恩返しを絵巻物にした数枚の額が掲げてある。ボタンを押せば自動的に解説の音声が流れる。親切だ。

周辺は木津川沿いの典型的な田園風景が広がる。住宅地は遠く田辺地域までない。素朴な小さな寺だ。


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