アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

649 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  21番~30番

2019-07-24 08:38:13 | 日記

今回は30番まで一挙に公開する。

21番 分陀寺  庭を眺めるだけで癒される

 

東山区本町15丁目803

正式名 東福寺 塔頭

別称  雪舟寺

宗派  臨済宗東福寺派

本尊  阿弥陀如来

開基  一条経通  開山 定山祖禅

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

龍吟庵のすぐ隣には、薩摩藩西郷隆盛所縁の「即宗院」と言う塔頭もある。NHK大河ドラマのヒットから多くの人が訪れたが、今回は「日下門」を出て「分陀院」に向かう。「雪舟寺」と言った方が馴染みがある。雪舟が作庭したと伝わる庭園をゆっくり見る事にする。

分陀院は鎌倉時代末期に摂関家一条家の経通が父内経の為に創建したのもだ。寺名は父の院号の分陀利華院に因む。その後の戦乱や火災で荒廃していたが、江戸時代になって書院など整備され、庭園を雪舟が作ったとされるが残念ながら実証できていない。庭園は、昭和になって重森三玲が復元整備したものである。また、茶室「図南亭」も昭和の再建だが、中に座って丸窓から眺める庭の風情が格別だ。なお、京都検定的には、「勾玉の手水鉢」と「屑屋型燈籠」を覚えるのは大事な事である。

そんな難しい事はさて置いて、南庭「鶴亀の庭」を無心で眺めるひと時が至福の時だ。

 22番 霊雲院  西郷さんと美僧月照とが密会した寺

 

東山区本町15丁目801

正式名 東福寺 塔頭

宗派  臨済宗東福寺派

開基  崎陽方秀

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

有名な「臥龍橋」を北へ渡ると左に同聚院が見えて来る。夢に出てきそうな恐ろしい憤怒の形相の不動明王が有名だ。その手前を左(西)に曲がって数分歩くと見えて来るのが「霊雲院」だ。同名の寺が京都に複数あるので気をつけたい。開基の岐陽和尚は天龍寺、南禅寺、そして東福寺の住職を歴任した相当な高僧であるが、こちらも見どころは庭園の見事さである。

まず、方丈正面の「九山八海の庭」を見る。「遺愛石」と言う肥後熊本から寄贈された石が中心になっている。寺宝とされるこの石は第7世住職が就任時、ご褒美として金品ではなく修行の妨げにならない「石」を希望したと言う。これを須弥山になぞらえて九つの山脈と八つの海が取り巻く仏教世界を表現したのだ。作庭は古いが、昭和になって重森三玲が復元した。また、「臥雲の庭」は現代的な発想も取り入れた斬新な枯山水庭園だ。こちらも難しい事は抜きにして、無心で庭と向き合いたい。壮大な世界観を身に感じるはずだ。

なお、幕末に西郷隆盛が清水寺の勤王の僧月照と密会した寺である事と、日露戦争後ロシア兵の捕虜収容所となっていた。因みに、月照と西郷が密会した寺は、ここ以外に清閑寺などいくつか伝わっている。密会って何のことだ?面談とどう違う?

 

23番 海宝寺  伊藤若冲筆置きの寺

 

伏見区桃山町正宗20

山号  福聚山

宗派  黄檗宗

創建  杲堂元昶

本尊  聖観世音菩薩

 

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 「海宝寺」の画像検索結果

東福寺から伏見区へ、京阪電車沿線の伊藤若冲の所縁の寺を巡ることにする。若冲は江戸時代後期の絵師で、錦市場の八百屋の跡継ぎに生まれながら晩年絵師としての才能を発揮した天才画家である。アメリカ人の収集家に紹介され数年前から大ブームとなり、今日では京の絵師と言えば、応挙でもなく探幽でもなくなった。ここ最近、夜の錦市場のシャッターはあたかも若冲美術館の様相を呈している。その若冲所縁の寺は、3か所ある。まずここ海宝寺は、若冲「筆置きの間」がある禅宗寺である。

京阪本線墨染駅から徒歩10分くらいで着く。萬福寺を本山とする禅宗の寺で、江戸時代後期の創建で、桃山町正宗の地名通り仙台藩の藩祖伊達政宗の屋敷跡の場所にあり、その政宗御手植えの木もある。境内にはその説明番が仙台市により設置されている。また、大手百貨店の大丸の創業者下村正啓がこの寺の高僧に帰依し浄財を投じた事から大丸関係者を祀る「祠堂」がある。

そして方丈内部には、若冲晩年の傑作「群鶏図」があり(現在は国立博物館所蔵)その絵を書いて以降絵は描かなかった事から、「若冲筆置きの間」と言われる。

境内は自由に見れるが、方丈内は入れない。普茶料理と言う黄檗宗独特の精進料理がいただけるお寺でその時は見られるかも知れない。それには予約が必要だ。

次は、若冲の墓を見に行く。

 24番 石峰寺  やぶ蚊と若冲の墓のある寺

 

伏見区深草石峰寺山町26

山号  百丈山

宗派  黄檗宗

創建  千呆性侒

本尊  釈迦如来(創建時は薬師如来)

 

 

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海宝寺のある墨染駅から二駅京都方面に戻り、深草駅から東に数分坂を上ると唐風の山門にたどり着く。こちらも黄檗宗のお寺である。言うまでもなく、隠元隆埼が宇治の黄檗で創建した「禅宗」の一派である。仏教とはそもそもインド・中国渡来の宗教だが、黄檗宗は特に中国風が強い。本山萬福寺の住職は代々中国僧が勤めている。歴史が浅い事もあり黄檗宗寺院は少ない。因みに永平寺の曹洞宗寺院も少なく、京都の禅宗寺院のほとんどは建仁寺を総帥とする「臨済宗」である。石像寺は狭い境内に鬱蒼と木々が茂る。見どころは、若冲の墓と「五百羅漢の石像」だ。数年前の夏の訪問時の体験をもとに書く。

受付などないが無断で入るのも憚れるので、たまたま眼があった女性に300円の拝観料を払う。パンフレットと「地元信用金庫のうちわ」を渡される。うちわはやぶ蚊が多いので追い払う為の必需品らしい。その理由は数秒後にはっきり分かる。訪れる人の少ない寺の裏山にはここぞとばかり待ち受ける「やぶ蚊の集団」が襲うのだ。お陰で、慌ててしまい若冲の墓地を見逃す。御本尊は釈迦如来立像、昭和の放火焼失以前は薬師如来だった。元は五条大橋辺りに祀られていたものを開基千呆(せんがい)が、この深草の地に移したと言う。

さて、うちわを振りながら境内裏手の小山を登り、若冲晩年の10年をかけて1000体以上を作成したと言う五百羅漢を見に行く。羅漢さんは仏ではなく修行中の聖人だ。表情豊かな石仏は一つも同じ表情はなく見ていて飽きない。撮影禁止になっているのは、平成24年に写真家グループが勝手に石像に帽子をかぶせたりロウソクを灯したりした為の処置らしい。それ以前には、地蔵菩薩を破壊するやからが出るなどいつの時代にも無茶な奴らはいるものだ。なお、信行寺にある有名な若冲花卉天井画はこちらで画かれたものである。また、見逃した若冲の墓石は、親切にも寺の女性がわざわざ案内してくれた。晩年の若冲は、ここで絵画一枚を米一斗に代えて生活していたという。帰りに改めて礼を言うに行くと、蚊に刺された無残な私の足(こんな日に限って半ズボン)を見て、キンカンの大型瓶を差し出してくれた。人情と薬が身に染みた。

なお、若冲の伊藤家の菩提寺「宝蔵寺」は、中京区の繁華街新京極の寺町にある。いずれ紹介する事にする。


25番 宝塔寺 美しい多宝塔が楽しみな寺

 

伏見区深草宝塔寺山町32

山号  深草山

宗派  日蓮宗

開山  日像

開基  藤原基経

本尊  三宝尊(釈迦如来・両界曼荼羅・日蓮・日像像)

 

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石峰寺のすぐ南、京阪深草駅とJR稲荷駅が接近している辺りに山門がある。200mほど緩やかな坂を上り総門・仁王門と続く。平安初期の藤原基経が創建した時は真言宗寺院だった。その後、住職の良桂が日蓮宗に帰依し尊敬する日蓮直系の日像の廟所という事になり日蓮宗に改宗した。応仁の乱後再建され、その当時の建造物が多く残っている。寺名も、極楽寺・鶴林院そして現在の宝塔寺と変遷した。正面の本堂は、重厚で典型的な日蓮宗建築物であり、京都では最古の日蓮宗関連の遺構である。また本堂右奥(南側)の多宝塔は、当寺唯一の応仁の乱以前の1438年の建造である。多宝塔とは、上下2層の宝塔だが、本瓦葺きの上層と行基葺きの下層という変化に富んだ造りで、間の塔身部分がとても細くそれでいて2層とも屋根の反りが見事な美しいものである。この塔が見たくて来たのだ。塔と本堂といずれも重要文化財である。

短時間だが、浮き浮きした気分で次に向かう。

 

26番 法界寺

 

伏見区日野西大道町19

正式名 東光山 法界寺

宗派  古義真言宗

別称  乳薬師・日野薬師

本尊  薬師如来

開基  日野資業 最澄

 

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地下鉄東西線の方にまわり、石田駅で下車し20分くらい歩くと「日野の里」に法界寺がある。

京都のお寺には、民間伝承とも言える貴重な行事が残っていて面白い。隋心院の「はねず踊り」もそうだが、即成院の「阿弥陀25菩薩お練り供養法要」は紹介した。中には祇園祭の山鉾巡行のように大がかりのものもあるが、こちらは誠に素朴で単純でそれでいて歴史を感じる。「法界寺の裸踊り」と言われるが、正月明けの14日に修正会の結願に合わせて行われる。極寒の中、下帯だけの男性が子供と大人に分けて、境内の井戸水を浴びて潔斎の後、国宝の阿弥陀堂の高縁正面で体をぶつけ合う。その際「頂礼・頂礼」と叫ぶ。頂礼とは五体投地とも言われ仏に対する最高の儀礼らしい。じっとしていられないほどの寒さの中でも、間もなく彼らの体からはもうもうと湯気が立ち上る。

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27番 毘沙門堂  天台宗五ケ室門跡寺院の一つ

 

京都市山科区安朱稲荷山町18

山号  護法山

宗派  天台宗

開基  行基

本尊  毘沙門天

正式名 護法山安国院出雲寺

 

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山科方面にも見たいお寺は多い。東海道本線山科駅から東側の道を線路をまたぎ北方向にだらだらとした上り坂を15分ほど歩く。1km程だが上り坂が徐々に急坂になるので足にはこたえる。毘沙門堂は、天台宗5箇室門跡寺院の一つだが、もとは相国寺の北にあった出雲寺に、平氏ゆかりの平等寺・尊重寺・護法寺の3寺院が合併したものである。平等寺は太秦に、尊重寺は上京五辻に、護法寺は伏見にあった。出雲寺は奈良時代に行基の開基によるもので、現在の上御霊神社のあたりにあった。「出雲路」という地名にその痕跡が残る。その後、応仁の戦乱で焼失し江戸時代になり幕府より山科安祥寺の寺域を賜ったものである。なお、後西天皇皇子、公弁内親王がここで受戒し門跡寺院となってから、毘沙門堂と言うようになった。

毘沙門天は秘仏であるが、本堂は唐破風の門など朱色が目立つ全体に派手で京都の門跡寺院には珍しい佇まいである。近年修復され一層見事な色彩になっている。境内は自由に散策できるが、入館料を払えば「晩翠園」という名園や、寝殿の特殊技法による襖絵など見学できる。いつでもゆっくり見れるが、桜・紅葉の季節が特に良い。

 

28番 安祥寺

 

京都市山科区御陵平林町22

山号  吉祥山

宗派  高野山真言宗

開基  藤原順子・恵運

別称  高野堂

本尊  十一面観音

 

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安祥寺は毘沙門堂の隣にある。毘沙門堂は元々この地にあった安祥寺の敷地を譲られたものであるので、毘沙門堂敷地内から行けるかも知れない。筆者は普段拝観していないので、日をかえて特別拝観の日にうかがった。山科駅の西側の参道斜面を登り山門に至る。

安祥寺は、醍醐寺の上醍醐・下醍醐と同様に上安祥寺・下安祥寺に分かれて発足した。筆者は上醍醐にも行ったがハイヒールでは行けない山道だ。安祥寺も山岳修行の場としての上寺の方が広大な敷地と伽藍を有し大いに栄えていた。創建は平安初期、文徳天皇母の藤原順子(じゅんし)の発願によるものとなっているが、すでに上寺が存在していて順子によって下寺が建立されたと考えられる。もちろん上寺・下寺とは後日言われるようになったのだが・・・・。しかし平安後期にはすでに荒廃し応仁の乱で焼失し完全に廃寺となった。江戸時代になって残った宝物をもとに再建するが、上寺は再建されず幕府の命令により寺領の多くを毘沙門堂に譲った。明治初期までは多宝塔があったが火事で焼け、現在は、本堂・地蔵堂・大師堂のみで建造物を囲む境内は残念ながら整備されていず往年の勢いは感じない。

ただ、解説によると焼けた多宝塔内にあった木像五智如来像(現在は京都国立博物館所蔵)は安祥寺創建時の作品で今年国宝指定の予定との事、また東寺の塔頭観智院所蔵の五大虚空蔵菩薩像は元安祥寺にあったもので唐からの招来仏である事を今回聞いた。このように安祥寺は現在の佇まいからは想像できないが、歴史上大変重要な寺院であったのだ。普段は非公開寺で、今回拝見した本尊十一面観音立像も初めての公開だった。山門横の事務所には長蛇の列、令和の御朱印を頂く行列だった。滅多に入れない寺院の令和元年の御朱印は貴重なのだ。

 

29番 勧修寺

 

山科区勧修寺仁王堂町27-6

正式名 亀甲山 勧修寺

宗派  真言宗山階派

別称  山階門跡

本尊  千手観音

開基  醍醐天皇・承俊

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山科を南方向へ地下鉄東西線の小野駅から5分ほどの勧修寺を目指す。名神高速道路の高架に接するように建っているのが残念だ。勿論、高速道路はあとから出来たのだが・・・。(笑)

「かんじゅじ」「かじゅうじ」「かんしゅうじ」と幾通りも読み方がある。創建は醍醐天皇だが、天皇生母の藤原胤子追善のお寺である。今昔物語集には以下の話が伝わっている。平安時代初期、藤原北家の高藤が鷹狩りに出かけた折りに、この辺りの豪族宮道弥益(みやじいやます)の邸宅に雨宿りの為に泊まり、その娘列子と一夜の契りを結ぶ。帰宅すると高藤の父は怒って鷹狩りに出る事を禁ずる。その後二人は音信不通であったが、6年後再会するとそこに6歳の女の子がいた。一夜の契りで宿った子であった。この娘が、宇多天皇の女御となり醍醐天皇の生母となった藤原胤子である。まさに高藤の強い胤(子種)のお陰だ。高貴な方の生母や后になった素性の不明な子女には、このような逸話が多い。

☞ でも、一夜で簡単に体を許すような女で良いのだろうか。古代では貞操観念が現代とはかなり違う。古代に生れたかった。(笑)

通常は、庭園のみの拝観で方丈は見られないが、醍醐天皇等身大の千手観音像が御本尊である。庭には、水戸光圀(黄門様)寄贈の勧修寺型燈籠が有名だ。広大な「氷室の池」には蓮や杜若などの季節の花が咲く。平安の昔には、氷が張ってそれを切り出して朝廷に献上したと言うが、現在は薄い氷が張るかも知れないがとても切り出すほどにはならない。因みにその氷の厚さで作柄を占ったと伝わる。

国宝の有名な「刺繍釈迦如来説法図」は、現在奈良の国立博物館の所蔵で国有財産になっている。また、庭園内の2層の雄大な観音堂は「大悲閣」と言い、屋根の中央に鳳を頂く宝冠造りの立派なものだ。往時の隆盛を偲んで次は、隋心院へ

 30番 隋心院

 

山科区小野御霊町35

正式名 牛皮山 隋心院

宗派  真言宗 善通寺派

本尊  如意輪観音

開基  仁海

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 「隋心院」の画像検索結果「隋心院」の画像検索結果

勧修寺と地下鉄東西線の小野駅をはさんで徒歩10分ほどで、隋心院はある。いずれも真言宗のお寺だが宗派が違う。空海が日本に持ち込んだ密教を東密、最澄が広めた密教を台密と言うが、日本の鎌倉新興宗教(真宗、浄土宗、法華宗、浄土真宗など)は、いずれも台密の拠点である比叡山で修行した高僧を宗祖としている。一方、隋心院などの東密は、東寺を本寺、高野山を末寺とし争うなど内部抗争が激しかった。古義真言宗と新義真言宗が競うなど複雑な経緯の後、現在は、東寺・勧修寺・泉涌寺・そして隋心院が独立した宗派となっている。その隋心院は現在は善通寺派を名乗り、官長は善通寺にいて隋心院には能化(のうけと読む・師範のような位置づけ)が置かれる。

古来、小野氏の根拠地であり小野小町ゆかりの寺である。創建は空海の8代の後の弟子仁海である。仁海が、亡き母が牛に生まれ変わっていることを知り、牛の革に両界曼荼羅図を描いた事から、山号を牛皮山とした。

山門を入ると広大な小野梅園が広がる。見頃は3月初旬から下旬。総門を入ると庫裏の入り口に、小野小町を描いた屏風が迎えてくれる。書院の狩野派を中心とした絵師が描いた襖絵を愛でながら本堂に行くと、本尊の如意輪観音像を中心に快慶作の金剛薩多菩薩像や定朝作と伝わる阿弥陀如来坐像など貴重な仏像たちが迎えてくれる。手入れの行き届いた庭園の四季の草花もゆっくり鑑賞したい。

周辺には、小町が毎朝化粧に使った「化粧井戸」や、多くの男たちが送って来た恋文を埋めた「文塚」があり是非巡っておきたい。

なお、深草少将百夜通いに因んで行われる「はねず踊り」は、325日前後に医薬門前で行われる。昭和48年に復活したものである。因みに、「はねず」とは、梅の花の色の事。