アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

647 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  1番~10番

2019-07-05 08:51:03 | 日記

この度の100寺シリーズを整理する。

地域別に巡礼順を考え、中京下京をスタートし周辺を巡り上京で完結する。

まずは、1番から10番を一挙公開。

 

1番 六角堂  京都のへそ

 

京都府京都市中京区六角通東洞院西入

山号      紫雲山

正式名(別称)  紫雲山頂法寺

開基・創建   聖徳太子

宗派      単立(天台宗系)

本尊      如意輪観音(秘仏)

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

京都の不動産物件を言う場合、「田の字」の内とか外とか表現する。碁盤目の京都市内でも北は丸太町通、中心の四条通、南の五条通、そして、東は東山通、中心は河原町通か烏丸通、西は堀川通を結び「田の字」と呼ぶ。その内側を京都の中の京都という意味だ。その中心地が六角堂だ。本当に境内には「京都のへそ」と呼ばれる石がある。

繁華街の寺町・新京極にも歩いて行けるし祇園界隈にも足を伸ばせば歩いて15分~20分で行ける。

頂法寺はその本堂が六角形なので通称六角堂と言うが、江戸時代の一時期六角ではなかったらしい。創建は聖徳太子だが、親鸞聖人が比叡山から降りてここで夢告を得た事でも有名だ。また、代々の住職が池坊を名乗り、華道の家元として有名になっている。数年前の映画、「花戦(はないくさ)」で詳しく描かれた。

御本尊は、如意輪観音(座像)だが、秘仏でお前立を拝む。お前立は6臂の観音様だが秘仏は2臂らしい。

平安遷都以前から行願寺(革堂)と並んで「町堂」として庶民に親しまれていた。平安京造営の時に通り道が寺のど真ん中に位置する事となり、取り壊しの危機であったが、お堂自らが北方に移動したと言う。現在は、聖徳太子に因み、「学業成就」の御利益を期待する人で賑わう。京都のお寺巡りの旅のスタートにはここ以外には考えられない。

2番 革堂   革の聖(ひじり)

 

中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17

山号      霊麀山(れいゆうさん)

正式名(別称)  行願寺

開基・創建   行円

宗派      天台宗

本尊      千手観音

 

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行願寺(革堂)の創建は平安時代で、創建当時は元の誓願寺近く現在の御所の東辺りにあった。革堂町や革堂辻子という地名にその痕跡を残している。他の寺院と同様に秀吉の政策によって、御所東の荒神口辺りに移転し、火事により現在の寺町通竹屋町に来た。

創建した行円は、以前狩猟を生業にしていた時、大きな雌鹿を射殺したところ腹から小鹿が産まれて来た。殺生は悪行と悟り僧籍に入る。その鹿の革を被って布教した為世間では「革の聖」と呼んだ。いつしか寺も革堂として親しまれる。

 

 ものがたり ① 「幽霊絵馬」

有名な「幽霊絵馬」には以下の伝承が残る。行願寺前の質屋に奉公していた子守の娘が、毎日寺の前で子供と遊んでいるうちにご詠歌を覚え子守歌のように歌っていた。しかしそれをこころよく思わない質屋の主人が、殴打したところ娘は命を落とした。慌てた主人は遺体を蔵に隠した。何も知らない両親が寺の観音様にすがってお願いしたら、蔵の中から娘の幽霊が出てきて真相を語る。たちまち主人は牢獄に・・・・・。絵馬には、「娘遺愛の鏡」が描かれている。

❔ 観音様のお慈悲があるのならば娘の命を守って欲しかった。(涙)

西国33か所19番、洛陽33か所観音霊場3番札所。また、境内には、都七福神の寿老人も祀られる。小さな境内だが、札所が重複していて賑わう。

 3番 瑞泉寺  関白秀次一族処刑の場所

 

中京区木屋町三条下ル石屋町114-1

山号      慈舟山

正式名(別称)   慈舟山瑞泉寺

開基・創建   立空桂叔・角倉了以

宗派      浄土宗西山禅林寺派

本尊      阿弥陀如来

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木屋町通りの三条大橋の南東に瑞泉寺がある。こちらは関白豊臣秀次の供養の寺である。江戸時代初期、角倉了以が高瀬川開削の折りに、地中から石碑を見つけたところ「秀次悪逆塚文禄4年・・・」と彫られている。筆者が晩年の秀吉を好きになれないのはこのような事からである。秀吉は自らの子が出来ない事を悟ると実の姉の長男を後継者として関白の地位まで押し上げた。孫七郎と呼んで可愛がった数少ない親族をここまで陥れるだろうか。しかも一族・妻妾もろとも斬首して三条河原に埋めたのだ。

秀吉存名中は、世間は遠慮して「畜生塚」と呼んでいたのだが、鴨川の氾濫で崩壊した。高瀬川開削時に散らばっていた遺骨を角倉了以と僧の立空が弔った。それが瑞泉寺の由来である。

木屋町通りから山門をくぐると、狭い境内に秀次供養塔と、殉死した家臣10名と妻妾たち39名に加え秀次の幼い子供の供養の為「五輪の卒塔婆」が建てられている。中央の石碑の「秀次悪逆」の文字は了以によって削り取られている。叔父秀吉こそが悪逆と言いたいが、太閤と称えられ現代においても英雄の秀吉の負の遺産である。

寺名の瑞泉寺は、秀次の法名瑞泉院による。京都は英雄の影の部分もしっかり残している。

 4番 誓願寺  落語の祖 安楽庵策伝の寺

 

京都市中京区新京極三条下る桜之町453

山号      なし

正式名(別称)  

開基・創建   天智天皇 勅願

宗派      浄土宗西山深草派

本尊      阿弥陀如来

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三条通を西へ、たらたら坂を下がり新京極を南へ数分歩くと誓願寺はある。

一方、上京区の西陣地区に元誓願寺通と言う東西の通りがある。今出川通の南、笹屋町通の北、東は新町通、西は七本松通間の短い通りだ。平安時代以前、天智天皇の勅願で奈良に創設されその後この地に誓願寺はあった。時代は過ぎ秀吉の寺町・寺の内政策で現在の新京極に移転さされたが、通り名にその歴史が残る。

門前には、月下氷人石(迷子道しるべ)と言う石碑が見える。携帯もメールもない時代、訪ねる人(迷子)を探す為に繁華街に設けられた掲示板・伝言板だ。よく出来た仕組みで、側面に探している人「たつぬるかた」別の側面に知っている人「おしふるかた」、を書いた紙を貼り探し出す。同様のものが、北野天満宮では奇人氷人石、八坂神社では奇縁氷人石がある。その誓願寺の本尊の阿弥陀如来坐像は、新京極通からお顔が拝める。通りがかりに手を合わせて行く人も多い。

55世の住職、安楽庵策伝は、「醒睡笑」で笑い話を集め落語の祖とも言われている。

浄土宗は、知恩院を総本山に、西山三派、禅林寺永観堂の西山禅林寺派、粟生光明寺の西山浄土宗、そしてこちら西山深草派など派閥争いの歴史でもあった。

浄土宗寺院は自由に本堂内にお参り出来る寺が多い。立派な阿弥陀座像の前にゆっくり座りひと時を過ごす。やはり浄土宗・浄土真宗系は何事も自由だ。

 

 

5番 誠心院  恋多き和泉式部のお寺

 

中京区新京極通六角下がる中筋町

山号      華嶽山

正式名(別称)  東北寺誠心院

開基・創建   藤原道長 

宗派      真言宗泉涌寺派

本尊      阿弥陀如来

 

 

 

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寺町通に寺院が集中しているのは、誰もが知っているように秀吉の京都政策の中で多くの寺院が移転させられた結果だ。従って、この通りには要注意だ。元からここにあった寺院とそれ以前には別にあった寺院とを混同してはならない。特に新京極と寺町の二本並列する四条から三条の間は特に注目だ。例えば、本能寺は信長が討たれた当時は堀川四条の北東地域にあった。前回書いた誓願寺は元は上京にあり「元誓願寺通り」という通名にその形跡を残す。それ以外にも、文徳天皇妃である藤原明子(あきらけいこ)が安産祈願した「染殿地蔵」伊藤若冲の菩提寺である「宝蔵寺」代受苦地蔵の「矢田寺」など見逃せない寺院が多い。

 

誠心院は、新京極の六角通辺りにある。別名「和泉式部寺」と言う。入り口には誰でも和泉式部になれる顔入れボードがある。境内は自由に入れる。創建の時代は藤原道長全盛時代で、道長が娘の一条天皇の皇后の一人彰子の為に法成寺内の東北にお堂を建てた事に始まる。言うまでもなく和泉式部は彰子が作った宮廷サロンに仕えていた。境内奥の墓地には、和泉式部の墓である宝篋印塔がひと際高々と存在していた。紫式部との不仲は有名だが、恋愛に関して赤裸々な和泉式部の歌には女性のファンが多い。筆者は源氏物語も相当なポルノ小説だと思う。女は怖い。

修学旅行やアジア人が散策する新京極の中心地にある。10分だけでも訪ねて見たい。

 6番 仏光寺  浄土真宗の苦難の歴史を今に伝える寺

 

下京区高倉通仏光寺下ル新開町397番地

山号     渋谷山

正式名    渋谷山佛光寺

開基・創設  親鸞  中興 了源

宗派    浄土真宗仏光寺派

本尊    阿弥陀如来

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四条通に出て高倉通りを下る。昨今、四条通は車道を片側一車線になり歩きやすくなった。

高倉通りから仏光寺通りの交差点を曲がると山門が見えて来る。京都一番の繁華街からすぐ南、綾小路通と仏光寺通の間に浄土真宗にとって大変重要な寺があるのだ。山門は東向きで阿弥陀堂・御影堂も本願寺と同じく東向きである。伽藍配置も本願寺と同様北に阿弥陀堂、南に御影堂(大師堂)となっている。

創建の歴史は、浄土真宗の苦難の歴史を物語る。「承元の法難」により追放された宗祖親鸞が、1212年京都に帰り山科に一宇を始めた興隆正法寺が仏光寺の始まりである。時代は、後鳥羽上皇の「承久の変」前夜の事である。1320年に中興の祖である了源が、布教活動の為東山渋谷に移転する(現在の国立博物館辺り)。寺格としての仏光寺はここを始まりとする。寺名は、後醍醐天皇により「阿弥陀仏光寺」と定めたことによる。一方その同時期、親鸞の曾孫の覚如により親鸞の廟堂が本願寺として一派を形成する。そして本願寺は応仁の乱の時代には、8世蓮如が隆盛を誇る。その流れに、仏光寺一派の経豪(後の蓮教)が、離反し蓮如に従い、山科に興正寺(興隆正法寺の流れ)を創設する。仏光寺は経豪の弟を門首にし秀吉から現在の場所に仏光寺の再建を許された。その後現在まで代々渋谷氏と名乗る住職が法脈を繋いでいる。勿論、現在は本願寺との争いはない。

以上、浄土真宗の内部争いと戦乱に巻き込まれ転々とした歴史である。寺宝には、「了源上人絵系図」などを持つ。境内は東西本願寺より狭いが、拝観料は要らずゆっくりお参りが出来る。浄土真宗のお寺はどちらもオープンである。

 7番 平等寺(因幡堂)   仏様も京の都がお好き?

 

京都市下京区松原通烏丸東入る上る因幡堂町728

正式名 福聚山平等寺

創設  橘 行平

宗派  真言宗智山派

本尊  薬師如来

 

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仏光寺から烏丸通に出て10分ほど歩くと左手(東)に見えて来る。

創建は、平安初期の官吏橘行平。吉川弘文館発行の「京都古社寺辞典」によると、行平が因幡の国に赴任中、夢告を得て加留津(鳥取)の沖に光るものがあり、引き上げるとインド伝来の薬師如来であった。直ちにお堂を建てる。その後京都に戻ってら薬師如来が虚空を飛んで行平の自宅に来た為、自宅にお堂を創り祀ったと言う。また、広く伝わる話では、行平が因幡赴任中に重篤な病気にかかり夢でお告げがあり加留津の沖に薬師如来を見つけた。それに祈るとたちまち病気が治った。いずれ京都に戻る時にはお連れすると約束するが、自分だけ帰京すると、ある晩京の自宅に尋ねるものがいて出て見ると薬師如来が、空中を飛んで来たのだと言う。驚き丁寧に祀ったと言う話だ。いずれにしても仏様にとっても京の都はそれほど良い場所なのだろうか。

 

平等寺の名前は、その後平安後期、高倉天皇が命名した。現在は、がん封じの御利益で有名だ。善光寺の阿弥陀如来、清凉寺の釈迦如来と共に、日本3如来としても有名だ。創建当時から変わらずこの場所にある。多くの寺院が移転を繰り返す中、どの古地図を見ても、六角堂と薬師堂は今の場所に大きく表示されている。

因みに、烏丸通から一本東の車屋町通はここ松原以南は、「不明門通」と言う。ちょうど薬師堂の正門に当たり、そこが常に閉ざされていた為である。例えば、五条西洞院通の五条天神宮における「天使突抜通り」に似た発想の通り名である。こちらは通りが神社の中を突き抜けていた為だ。京都は地名も通り名も面白い。

 

 

8番 長講堂

 

京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町

正式名 法華長講弥陀三昧堂

宗派  西山浄土宗

開基  後白河法皇

本尊  阿弥陀如来三尊像

 

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4月13日は、希代の策士家である後白河天皇(法皇)の命日である。その日を「法皇忌」という。後白河法皇は歴史には度々登場する大物である。皇室の歴史上稀有の存在感があった。何しろ父の鳥羽天皇との確執から始まり、源義朝や平清盛などの源平の武将を手玉に取り、信念など微塵もなく皇室と自らの権力の継承だけを唯一の判断基準とした。その一方、「梁塵秘抄」という今様(現代の流行歌のようなもの)の集大成を書き残してもいる。加えて神社・寺社も多く創建し神教・仏教への帰依も深かった。三十三間堂(蓮華王院)は清盛からの寄進により出来たものだが、法皇の文化・宗教活動の発信基地でもあった。

長講堂は、仙洞御所(上皇の御所)内の持仏堂であったものを、秀吉の時代に現在地の六条富小路に移されたが、創建当時は相当広大な敷地にあったと思われる。現在は周囲約20m四方の一般的な檀家寺の趣である。門を入ると正面に本堂、左に書院。質素な庭園の右には後白河法皇像の安置されている御影殿となっている。普段拝観は行われず、観光寺院とは一線を画している。法皇忌に伺うと、本堂では御本尊の阿弥陀三尊像の前に50人ほどの信者さんがいて法要読経中であった。ちょっと親戚の多いご家庭の法事と言った感じで、とても後白河法皇の法要とは思えない。むしろそれが厳かな感じがして良い。筆者は片隅から丈六の阿弥陀如来を拝む。しっかりと黄金の輝きが残っていて輝いて見えた。創建当時のものであるが、光背は江戸時代に作り直したと言う事で残念ながら重要文化財指定のようで、筆者は国宝で良いのではないかと思う。書院の奥一段高い貴人席の背後には、後白河法皇御真影(模写)が掛けてあった。よく本で見る馴染みのお姿である。その他掛け軸や拓本された石碑の文字を表装した襖など寺宝の多さがうかがえる。

 

 

中庭は狭いが整った枯山水庭園である。因みに茶室は「亭雲」筆者は、寺の方に「停電」と読んで顰蹙をかった。一度出て、御影殿の方へまわり手を合わせる。桃の花が一木に赤とピンクの花を同時に咲かせていた。しばし受付の妙齢なご婦人と談笑し短い時間だが、落ち着いた時間と空間を堪能した。最後に、寺宝に「過去現在牒」というものがあるとお聞きした。法皇が歴代天皇を始め、義朝・清盛始め数々の法皇が関わった人物の名が直筆にて羅列されているものである。その中には歴史に名もない庶民の名もあり権力の闘争に生きた法皇が死に臨み本来の優しい人格を取り戻したのだと思いたい。周辺の佇まいも特別なものはなく一般的な住宅地にある。法皇の御陵のある大和大路七条の法住寺もそうだが巨大寺院でないところが良い。

京都地下鉄五条駅から10分だが、普段は門の前から拝むしかないので念の為。

 

 

9番 粟島堂宗徳寺  女人救済のお寺

京都市下京区三軒替地町124

正式名 法華長講弥陀三昧堂

宗派  西山浄土宗

開基  行阿

本尊  阿弥陀如来

  

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京都駅のすぐ近くのリーガロイヤルホテルすぐ裏に、粟島堂はある。

京都のお寺は、○○寺 ○○院 ○○庵 ○○堂の4種類ある。院と寺は特に区別はない。寺の方が大きいような気がするが、知恩院という巨大寺院もある。庵はさすがに庵(いおり)とも言うべき小さなお寺のような気がする。堂はどうだろう。六角堂や革堂・因幡堂などの町堂のイメージがする。従って、それぞれ頂法寺・行願寺・平等寺とちゃんと寺名がついている。

しかし粟島堂は、宗徳寺内にある別のお堂という位置づけだ。神仏混合の時代の流れであろう。阿弥陀如来を本尊とする西山浄土宗のお寺の境内に、粟島大明神を祀っている。祭神は少彦名命でその本地佛である虚空蔵菩薩を安置している。

 

江戸時代後半、光格天皇とその皇后たちの度々の行幸があり、女人守護にご利益ありとされ庶民の人気を得る。安産祈願に限らず、子宮筋腫・内膜症や更年期障害など具体的な病名を挙げて効果ありとしている。また、人形供養を行う事から境内のあらゆるところに奉納された人形が安置されている。和洋様々な人形の展示は微笑ましいけれど、使い込んだ市松人形などは何か魂を持った女の子に見えてぞっとする。

 

また、境内には、

蕪村の句碑 娘の病気平癒祈願に訪れた 与謝蕪村が詠んだ句
「粟嶋へ はだしまゐりや 春の雨」の歌碑がある。

狭い敷地だが巡るポイントはたくさんある。

 

10番 観智院

 

宗派  真言宗別格本山

開基  杲宝・後宇多天皇

本尊  五大虚空蔵菩薩

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

東寺(教王護国寺)を訪ねると、季節によっては塔頭観智院の拝観チケットとセットで売っている。しかし東寺の賑わいと比べると観智院に訪れる人が少ないのが気になる。大寺院には必ず有力な塔頭寺があり必ず訪ねておきたい。

観智院は、東寺の北門から北総門に通じる櫛笥小路の東側にある。因みに西側には京都洛南高校があり近年短距離100m日本記録保持者の桐生選手の出身校だ。(執筆時点では元日本記録保持者)さらに重要なのは、この櫛笥小路だ。平安京の建設当寺の痕跡を現わす通りはほぼ衰退し今は存在しない。しかしこの櫛笥小路は東寺の敷地内にあった為奇跡的に創建の時代のまま残った。わずか100mほどの通りで桐生君なら10秒ほどで駆け抜ける道だが、道幅から創建当時の平安京の全体規模を推察するには貴重な遺跡である。

さて、観智院だが、室町時代初期に宋からの帰国僧杲宝により創建された。東寺の勧学院として修行・学習の寺として出来た。その後は真言宗全体の勧学院になっている。見どころは、国宝の客殿とその庭園、そして宮本武蔵作の絵画だ。まず、「五大の庭」と命名された庭園は、空海が唐の長安に学僧として学んだ後に日本に帰る時、嵐に遭遇するものの五大虚空蔵菩薩に導かれ無事帰国した様子を現わしている。

 

また、方丈内には宮本武蔵筆の「竹林図」「鷲図」がある。武蔵は一時期ここで剣と絵画の修行をしていたのだろう。本尊の五大虚空蔵菩薩は修復中の為、現在は見られないが、修復後は東寺と共に必ず訪れたい。そして櫛笥通を歩き平安京の創建当時の趣きを味わいたい。