アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

987回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊷

2023-03-07 11:23:41 | 日記

④         建武の新政「狂気の政権だったか。」

後醍醐天皇と吉野 | 深掘り!歴史文化資源 | 奈良県歴史文化資源 ...の画像後醍醐天皇

 さて、今回のテーマは「いかに皇統をつないだか」である。従って、何故後醍醐は倒幕にこだわったかを書いて来たが、その前に「建武政権」と「足利高氏」について考えなければその真相にたどり着けない。

 まず、建武の新政のイメージというものは、「後醍醐天皇が、時代に合わない非現実的な施策を独裁的に行った。」「公家に厚く武士に薄い論功行賞だった為、武士に不満がたまった。」という政治的な批判や、「怪僧文観をそばに置き妖術を駆使した異形の天皇だった。」というのも代表的印象だろう。これはやはり、『太平記』の影響が大きいと思われる。この「太平記史観」により、後醍醐は三種の神器を保有する正当な君主であるが、暗愚で不徳の天皇で自らの血統で皇室を独占したいと考えた。それを必死に支える「忠臣」の存在が、日本人の精神構造上「判官贔屓」のようなものになって、新田義貞や楠木正成という英雄を生んだ。さらに、不公平な恩賞配分、無謀な内裏建造計画、御家人たちへの重税などの批判が、現代までの普遍的イメージとなったものだ。

 また、『神皇正統記』を記した南朝の重鎮である北畠親房や子の顕家でさえも、建武の新政については強く批判をしている。さらに、江戸時代に入って「正徳の治」として有名な新井白石なども、著書の中で他と同様の厳しい評価を下している。それが明治になり「皇国史観」のもと、南朝を正式に正統と定め、さらに楠木正成を「大楠公」と崇め、建武の新政の失敗を「逆賊」足利尊氏の悪行に責任を押し付けても、後醍醐への批判的見方は太平記史観の域を脱せなかった。

太平記』(平岩 弓枝)|講談社BOOK倶楽部講談社

 そして、太平洋戦争以降、一時隆盛を極めたマルクス主義的思考方法が歴史研究にも波及し、建武の新政は、古代への復古を目指した「反動的政権」と見なされた。加えて、網野善彦氏が『異形の王権』論を唱えることで後醍醐の「異常人格」像が一層後醍醐のイメージを定着させることになった。また、亀田俊和氏『南朝研究の最前線(建武の新政は、反動的なのか、進歩的なのか?)』には、すべての研究は太平記史観の申し子であり、新政も後醍醐も正統には評価されていないとした。その根本は「同政権が短命に終わったという事実」の為、すぐに倒された政権は政策に間違いがあったという先入観がることを強調した。従って、「政権の寿命と政策の善悪は必ずしも比例しない。」と主張した。

 現在では、建武政権の諸政策を積極的に評価し、その先進性に着目する説が多く出されている。鎌倉幕府から室町幕府の中間に位置する建武政権は、決して反動的なものではなく政策的には連続したもので、むしろ建武政権の諸施策が室町幕府で花開いたとする見方も出てきている。

 後醍醐天皇像も、今後若手の研究者により決して「異形の天皇」ではなく生き生きとした生身の人間であることが見えて来るのかも知れない。

 

 


最新の画像もっと見る

post a comment