アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

1007回   あちゃこの京都日誌  59回 新天皇国紀

2023-04-26 08:15:56 | 日記

⑦         譲位後の院政と追号・諡号

高校日本史B】「院政」 | 映像授業のTry IT (トライイット)

白河上皇が始めた「院政」

・光格天皇は、文化14年(1817年)に譲位し上皇となった。すでに47歳となっていたが、さらに23年間、院政を行う。光格天皇の復古活動の締めくくりは、院政の復活だった。しかし、平安の昔に白河上皇が始めた「院政」であるが、正しくは院庁(いんのちょう)を設けて朝廷政治の主たる決定権を発揮するものである。ただ、光格院政は全く違うものであった。現代に例えると、以前の院政は「代表取締役会長」のようなもので、社長は引退したものの会長室ですべての施策は決定するものである。一方、光格上皇の院政は、「代表権のない相談役」と言うべきだろう。重要事項については天皇から相談を受けるが、成人した子である仁孝天皇があくまでも朝廷政治の主導権をもっていた。ただ、在位が長く圧倒的存在感の光格上皇には自然に多くのことが事前に相談された。そういう意味では実質的には決定過程に関わっていた。しかしあくまでも統治権は子に譲っていた。

顧問とは?役割、報酬の相場、役員や相談役との違いを紹介 | ZUU ...

光格天皇が目指した院政は「相談役」?

では何故、院政にこだわったか。一つは現代で言う定年としての天皇の引退を重視したこと、またさらに文化的復古活動に専念したかった、などが考えられる。

また、修学院離宮にしばしば行幸し、後水尾上皇の遺徳を偲びながら余生を楽しんでいる。残念ながら、その後自らの意志で天皇位を譲位し上皇になる例は、今上天皇(令和)の父君である平成の上皇まで実現しない。そして、遂に天保11年中風の発作が原因で崩御する。後水尾上皇には及ばなかったが、70歳の長寿を全うした。

しかしまだまだ戦いは続く。


最新の画像もっと見る

post a comment